◆ホーム・グラウンドは五感を通して♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<成長はヒトからヒトへ>>



ヒトは、

ヒトからしか学べないし、

ヒトからしか成長もしない。




という言葉があります。





「すると、書籍とか、雑誌、

PCで検索したウエッブの情報などは、

この場合どうなのでしょうか?」






そうですね。

それらの場合ですと、


ある意味理解の仕方が

中途半端なのではないでしょうか?





「と言いますと?」





それらの情報が

全くダメと言うコトではなく、




それこそ!




相手の方のするコトを視て、




相手の方のコトバを聞いて、



その場の匂(にお)いを通して

脳髄(のうずい)に叩き込んで、




直(じか)に触れて

その感覚を楽しんだり、





場合によっては

舌で味わってイメージを

それこそ存分に拡げたり、





五感をフルに使って理解するコト

大切なのではないでしょうか?










「なるほど。

そう言われてみると、



感覚器の使い方が

中途半端だったかも

しれませんネ!」






武術や芸事の世界にも

*師子相承(ししそうしょう)

言うコトバがあります。




*師子相承(ししそうしょう)

師の教えや技芸を受け継いでいくこと。

また、師から弟子へ学問や

技芸などを引き継いでいくこと。







弟子は師と寝食を共にするコトで

コトバを超えた”道の教え”

受け継いでゆくのではないでしょうか?





「なるほど。

師が近くにいるコトで

学んで実践して、


上手くいかなくとも、

その結果も検証して、

改善してゆく。




そのスピードは早くなるでしょうから、

おのずと成長も加速してゆきそうですネ!」









<<ジョッシュ・ホワイト続く>>




今回も引き続き

ジョッシュ・ホワイトのお話しです。


(今回も引き続き
ジョッシュ・ホワイトのお話しです。






彼は1940年代にスターになり、

それはクラスや人種そして国を越えて、

人々から愛されます。



それには彼のホーム・グラウンドが

重要なポイントになります。




「それはどう言うコトでしょうか?」




カフェ・ソーサイエティと言う

ナイトクラブですが、



そこには黒人だけではなく、

白人のアッパークラスとか

などが集まり、





しかも・・・・。




「しかも・・・。何ですか?」





黒人、白人が席を同じくして

音楽やショーそして会話を楽しんだそうです。




「1940年代当時としては

それは画期的でしたネ!」





そうです。




そこに惹きつけられる様な

セクシーなカリスマ性と


威圧的な舞台度胸の一流の

二枚目アイドルとしての彼の登場です。





「これはモテないワケないですネ!」




そうですね。

ニューヨークのグリニッジビレッジの


アメリカ合衆国の

最初の統合したナイトクラブに

集った彼らは、



ホワイトのパフォーマンスを

五感を通して!



最先端の音楽を含めた、

それこそ!彼の生き様を


理解していったのではないでしょうか?






☆Josh White - John Henry♪


☆JERRY by Josh White and his Carolinians 1940 CHAIN GANG♪   


☆UNCLE SAM SAYS by Josh White 1941 JIM CROW SONG♪





☆ジョッシュ・ホワイト  JOSH WHITE


本名:ジョシュア・ダニエル・ホワイト


(1914年2月11日- 1969年9月6日)



☆キャリア




<カフェ・ソーサイエティにて>


1940年代からのカフェ・ソーサイエティ・

ナイトクラブの中でのことは、




(カフェ・ソーサイエティ・ナイトクラブ)





ホワイト前例のない国際的な名声を

浮上させたコトと切り離すことが

できない。



ニューヨークのグリニッジビレッジにあって、

カフェ・ソーサイエティはアメリカ合衆国の

最初の統合したナイトクラブだった。




そこで、黒人と白人は一緒に座ることができて、

同じ部屋を共有することができて、

ダンスで迎えることができて、


エンターテイメントを楽しむことができた。




それはFletcher Henderson、Orchestra、




(Fletcher Henderson)




 Billie Holidayとコメディアン・




 (Billie Holiday)



Jack Gilfordの3ヵ月の約束で






(Jack Gilford)





1938年後半にオープンした。


そして、すぐにニューヨークで

最も熱いクラブになった。



ある日John Hammondはホワイトに




(John Hammond)




クラブの店主のBarney Josephsonに

会うように頼んだ。



ジョーゼフスンがホワイトの話を聞いて、

彼から漂うカリスマ性を見るとすぐに、



彼はホワイトがアメリカの

初の黒人の男性のセックス・シンボルに

なりそうであるとハモンドに話した。




彼がホワイトのためにデザインした

ステージ衣装で、

その初の出会いで決めたのはジョーゼフスンだった。



-それは翌年のトレードマークになる。


-黒いビロードのシャツがストマックと

絹のスラックスにさらされていた。





次の10年の間ホワイトは

カフェ・ソーサイエティで主演して、

世界中から観衆、パフォーマーと

美しい音楽に注目を集めている間、



それから彼がその後録音する

いろいろなスタイルを含めるために

彼の音楽の利益とレパートリーを

拡大していった。




彼には音楽のジャンルの多様な

グループとともに録音を

大衆化することは、

注目に値する成功があった。





そして、それは、ブロードウェー・

ショーの中の歌、キャバレー、ポップと

白人アメリカ風で、英語で、



オーストラリアのフォークソングに合わせて、

黒人のブルース、ゴスペルと抗議歌と

彼の最初のレパートリーから変動していった。










グリニッジビレッジ・クラブは

ジョーゼフスンが住宅地区で

より大きなカフェ・ソーサイエティを

すぐに開いたように成功していた。



そして、それで、同じく白人も開業した。

そして、「五番街のダーリング」として

ニューヨークタイムズによって

彼は認知される様になった。




ルーズベルト家、ニューヨーク社公会、

国際的な王族とハリウッドスターは

カフェ・ソーサイエティでホワイトに

定期的に会いに来た。



そして、彼は黒人と白人の関係を確立して、

促進して、進展させるために

名声と視界を使った。




そして、彼をアメリカ内での

人種の統合の声と

全国的に有名な人物のひとりにした。



 
彼は裕福な社交的な女性、歌手、

そしてハリウッド女優と

多数のロマンチックな関係があると

思われていた。


しかし、噂は決して立証されなかった。



問題の女性は常にホワイトを

彼らの親友と称した。


そして、 Lena Horne と Eartha Kittも




(Lena Horne)






(Eartha Kitt)




彼を師と称した。






カフェ・ソーサイエティはホワイトをスターにして、

彼をアフリカ系アメリカ人従業員の独特の職に入れた。



しかし、レース(人種)の混ざる

クラブの特別な社会的地位のため、



それも、政治が左翼に傾いたニューヨークの

社交的な革新派のための避難所になった。




スターダムにホワイトの優勢で

不可欠な役割を演じたので、


それはある日、彼の失墜で重要な役割も演じた。




          (ウィキペディアより抜粋)



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