◆時代のカリスマ、ジェントルマン(紳士)になる♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<ステージに立つ資格>>




”ヒトはステージに立つとき”




その理由は、



少なくとも自分のコトは置いておくコト。




それが肝要かと思われます。






「確かに、

これは人づき合いでも

そうですが、



自分のコトばかり気が向いていて、



こちらの方に

関心を向けてくれませんと

楽しい気分にはなれませんよネ!」







特にヒトの注目を浴びて

時代のカリスマとなった人物であれば



尚更(なおさら)ではないかと

思われます。











「それは相手に対して責任を持つ

と言うコトでしょうか?」






そうですネ!



強いて言うならば、




相手、そのすべてをそれこそ!


引(ひ)っ括(くる)めて”背負う”!




と言った方が

的確かもしれません。






それはカナリの責任を伴っていますネ!」






それだけに自分に対する自負心も

あったかとは思われますが、



それに伴う私心を捨て、

良識に従う*気概(きがい)が必要
かと

考えます。





気概(きがい)とは?

積極的に物事に取り組もうとする強い気持ち。






ある意味その気概(きがい)が彼に中で

育(はぐく)まれたからこそ!



彼はステージに立つことが

出来たのではないでしょうか?







「モノゴトはすべて準備できてから

初めて獲得するコトができるとか

いいますからネ!」








<<ジョッシュ・ホワイト続く>>





今回も引き続き

ジョッシュ・ホワイトのお話しです。




(今回も引き続き
ジョッシュ・ホワイトのお話しです。)






カフェ・ソーサイエティにて

国際的な名声を手にしたホワイトは


ルーズベルト家、ニューヨーク社公会、

国際的な王族そしてハリウッドスター

など様々なセレブたちと知り合いになり。





その中でもルーズベルト家に関しては

就任式で曲を披露したり、



プライベートでも感謝祭やクリスマス休暇を

家族ぐるみで過ごしたりと懇意になります。




「それは1940年代としては

まったく考えられない世界ですネ!」





そうです。




更にルーズベルトが亡くなり、

エリノア・ルーズベルト

(戦争救済の担当の国連大使として)



のヨーロッパの公演と彼のツアーを

一緒に行ったコトがありました。





「なるほど。」




そこでヨーロッパのファンに

彼の反リンチをテーマにした曲


"Strange Fruit"「奇妙な果実」

歌うように





何度もせがまれるのですが、






彼は母親から言われたコトを

紹介して、



そして

あくまでも紳士的に、



自らの立ち位置を

明確に示したのです。





「素晴らしいです。」



「舞台でライトを浴びて

パフォーマンスに執心するだけではなく、


集まってくれたファンの方たち

にもその責任を負って、




更に紳士的な態度で

それを示すとは・・・。」






戦争後の混乱した時期に

ファンの皆さんの心中も

決して穏やかではなかったでしょうネ!




「それで、

そこまでの配慮!



まさに時代が彼を選んだとしか

言いようがありません。」






そうですね。



元は南部の田舎出の

ミュージシャンでしたが、

様々の人たちと出会い、


様々な経験を経て、


自己研鑽(じこけんさん)を

重ねて、


それ程までの器(うつわ)に育った

と言うコトなのかもしれませんネ!






☆JOSH WHITE ~hard time blues♪


☆Defense Factory Blues JOSH WHITE♪   


☆'Low Cotton' JOSH WHITE (1933)♪





☆ジョッシュ・ホワイト  JOSH WHITE


本名:ジョシュア・ダニエル・ホワイト


(1914年2月11日- 1969年9月6日)





☆キャリア




<ホワイトとルーズベルト家>


1940年から始まって、ホワイトはフランクリンと

エリノア・ルーズベルトの家族との

長くて緊密な関係を樹立して、





(フランクリン・ルーズベルト)




(エリノア・ルーズベルト)




アメリカ合衆国大統領に最も親しい

アフリカ系アメリカ人親友になった。




そして、ルーズベルトは、

ジョシュ・ホワイト, Jr.

(1940年11月30日誕生)の名付け親だった。





(ジョシュ・ホワイト, Jr.)





1941年1月に、ホワイトは大統領の就任式で演奏した。

そして、2ヵ月後に、彼はもう一つの非常に

論争の的となるレコード・アルバム( Southern Exposure)

を発売した。





(レコード・アルバム( Southern Exposure)





そして、それは有名で等しく論争の的となる

アフリカ系アメリカ人ライターRichard Wrighによって

ライナーノートを書いて、

6曲の反人種分離主義歌を含んでいた。


そして、副題が、"An Album of Jim Crow Blues"だった。




鎖でつながれた囚人アルバムのように、

そして、"Uncle Sam Says"のような啓示的であるが、


刺激的な歌、 "Jim Crown Train",

"Bad Housing Blues",

 ”Defense Factory Blues",

 "Southern Exposure"



そして、"Hard Time Blues"、


それも南部の白人ラジオ局とレコード店に強要されて、

南部で暴動を引き起こして、


そのうえ、ルーズベルト大統領の注意を引くように

示された。





しかし、人種差別のあるアメリカでホワイトを

好ましくない人物とする代わりに、




1941年に、ホワイトハウス司令部での演奏をする、

初のアフリカ系アメリカ人アーティストに

ホワイトに依頼するルーズベルト大統領だった。








その最初のホワイトハウス司令部での演奏を終えると、

即座に、ルーズベルト家は彼らの個人の部屋まで

ホワイトを招待した。




そこで、彼らはジム・クロウ・サウスで育った

ホワイトの体験談について話して、

それらの経験によって書かれる彼の歌を聞いて、



CafeRoyale(コーヒーとブランデー)を飲んで

3時間以上を過ごした。







その夕方中のある時点で、大統領はホワイトに言った。

「あなたは知っています、ジョシュ、

 'Uncle Sam Says,'『アンクル・サムは言います』

というあなたの歌を最初に聞いたとき、


私はあなたが私をアンクル・サムと称していると思いました。

....私は正しいですか?」と、ホワイトは答えた。





「はい、閣下、私は、兄弟がどのように

フォート・ディクス軍キャンプの隔離した区画で

扱われたか見た後に、あなたにその歌を書きました....



 しかし、それは、私があなたに書いた最初の歌では

ありませんでした....


1933年に、私は、南部の貧しい黒人の綿摘み人の

窮境について、 'Low Cotton,' 『貧しいコットン』と

呼ばれている歌を書いて、録音しました。




そして、歌詞において、私は彼らの状況を

助けるために直接あなたに訴えました。」





それから、大統領は彼の率直な反応に

感銘を受けて、興味をもち、


ホワイトに再び彼にそれらの歌を歌うよう頼んだ。






友好が進展して、1941と1945年の就任式の

2つの出演に加えて、

もう5つの司令部での演奏があとに続いた。




そして、ホワイト家は、彼らのハイドパーク

(ニューヨーク・マンション

(現在フランクリン・D・ルーズベルト


大統領の図書館と博物館))で、

ルーズベルト家で多くの感謝祭と

クリスマス休暇を過ごした。






大統領は「親善大使」としてコンサートを

海外で行うためにホワイトを行かせた。


そして、彼は「大統領の吟遊詩人」として

しばしばプレスに記載された。




より重要なことはそれはホワイトの曲が

社会的な抗議(例えば"Uncle Sam Says"を聴き、


そして "Defense Factory Blues,"を聴いた

大統領が米国軍に関する差別をやめる方法を

調査し始めさせたことだった。


一方、ホワイトの録音した

 "Beloved Comrade"「最愛の僚友」

(大統領の大好きな歌)、



 "Freedom Road"「自由な道」,



 "Free and Equal Blues"

「自由で平等なブルース」,




てそした "House I Live In (What is America to Me)"

「ハウスに生きる(私にとってのアメリカ)」



は第二次世界大戦の間の国とルーズベルトへの

インスピレーションを与える素晴らしい曲だった。





大統領の死の後、ホワイトの弟ウィリアム・ホワイトは、

エリノア・ルーズベルトの人生の残りのための個人秘書、

住宅マネージャーそして運転手になった。










1949年に、フィスク大学は、ホワイトに名誉博士号の

栄誉を与えた。




そして、ローカル・シカゴNBCラジオ・シリーズ

Destination Freedom(リチャード・ダラム作)は、




(Destination Freedom





"Help The Blind"「盲目を助けて」と

表題をつけられるホワイトの人生を伝記風に

半時間ドラマとして放送した。





1950年に、エリノア・ルーズベルト

(戦争救済の担当の国連大使として)と

ホワイトは、それらの戦争で引き裂かれた

国の気分を高揚させるために、


ヨーロッパの中心地での歴史的談話と

コンサートツアーをした。




 ツアーの高まりは、彼らがストックホルムに

到着したとき、


プレゼンテーションのために

オペラハウスから町のサッカースタジアムまで

彼女の声を聞く為に土砂降りの雨、

50.000人を動かさなくてはならなかった。







ルーズベルト夫人の演説とホワイトの演奏。

このツアーの間すべて、



ヨーロッパ中の観衆はホワイトに

彼の反リンチをテーマにした録音で有名な

"Strange Fruit"「奇妙な果実」を歌うよう、

熱心に頼んだ。




しかし、そのたびごとに、彼は答えた。



「私の母はいつも言っていました。

”あなたのバックグラウンドに問題があるとき、

あなたは隣人にそれらの問題を与えてはならない。”

と」



「それで、それは二度とそれを決して歌う

必要がなくなるまで、私が家で歌う歌です。」



「しかし、あなたにとって、

私は現在そのシスター・ソング

(姉妹歌)を歌いたい。」


「”The House I Live In”の

同じ男によって書かれていますよ。」







<映画や演劇>


俳優として、ホワイトは1940年代後半に

ブロードウェイで数回を演じた。



1947年に彼が、ドイツのアーティストと

アバンギャルドな映画製作者

Hans Richter's Dreamsに出演した。





(Hans Richter's Dreams)





Money Can BuyはMax Ernst, Marcel Duchamp,





(Max Ernst)







(Marcel Duchamp)





Alexander Calder, Darius Milhaud




(Alexander Calde)





(Darius Milhaud





そして Ferdinand Legerの参加と共に





(Ferdinand Leger)




 Libby Holmanと共演した。




( Libby Holman)





それは、その年のベネチア映画祭で

賞を獲得した。






彼はまたJohn Sturgesの





(John Sturges)





1949年のウエスタンで

Randolph Scott, Ella Raines, Edgar Buchanan,





(Randolph Scott)





(Ella Raines)





(Edgar Buchanan)






そして Arthur Kennedyとの共演で





(Arthur Kennedy)






The Walking Hillsに出演、





(The Walking Hills)






彼は白人のキャラクターと共に対等で現れた。

そこでは、彼の性格(旅回りの楽士)は

ステレオタイプではなかった。




 彼は、まだ若くて、非常に素敵であり、

ブラックリストが彼の芽生え始めた

映画キャリアを


終わらせていなかったなら、

それが何であるかに関して

推測しにくくはなかった。


             (ウィキペディアより抜粋)



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