学者の集まる村に、無知で有名な師が住んでいた。彼は経典を暗唱することもできず、古代の賢人の名前も知らなかった。一冊も本を書いたこともなかった。
それでも、人々は遠方から彼のもとへやって来た。彼らは答えを求めて来たのではなく、ただそこにいるために。知識を求めて来たのではなく、心の平安を求めて。
ある日、一人の若い学者が師に問いかけた。「あなたは何も知らない。なぜ人々はあなたのところに来るのですか?」と学者は言った。
師は微笑んだ。「私が何も知らないからこそ、人々は来るのだ。すべてを知っている学者には、新しいものを受け入れる余地がない。私は空っぽだ。だからこそ、受け入れることができる。」
学者は理解できなかった。「しかし、知識は力です」と彼は主張した。「知れば知るほど、教えることができるようになるはずです。」
師は二つの茶碗にお茶を注いだ。一つは縁まで、もう一つは半分だけ注いだ。「どちらの茶碗に、より多くのお茶が入るだろうか?」と師は尋ねた。
「半分満たされた方ですね」と学者は言った。師はうなずいた。「心も同じだ。満たされた学者は学ぶことができない。空っぽの者だけが受け入れることができるのだ。」
「しかし、何も知らないと認めたら、どうやって尊敬されるのでしょうか?」と学者は尋ねた。師は静かに笑った。
「尊敬は目的ではない。真実こそが目的だ。知っているふりをする者は壁を築き、無知を認める者は橋を架ける。」
学者は何日もそこに滞在した。彼は新しい事実を学んだわけでも、新しい文献を暗記したわけでもない。彼は空っぽになることを学んだ。自分が知っていると思っていたものを手放し、まだ見ていないものを受け入れるための空間を作ることを学んだ。
大学に戻ると、同僚たちは彼に何を学んだのかと尋ねた。「何も学んでいない」と彼は答えた。「そして、それが私がこれまで学んだ中で最も重要なことだ。」
そして、彼も自ら師となった。事実ではなく、存在そのものを、答えではなく、問いを教える師に。彼の教え子たちは、ノートに書き物をして帰ることはなかった。彼らは空っぽの心で、世界を受け入れる準備を整えて去っていった。