ある博識な学者が、遠く離れた師を訪ねた。彼は何十年も研究を重ね、多くの著作を著し、あらゆる偉大な伝統の教えを知り尽くしていた。彼の心は知識で満ち溢れ、もはや学ぶべきことは何もないと信じていた。
師は彼を温かく迎え、お茶を勧めた。学者は喜んで席に着き、自分の知識で師を感心させようと意気込んでいた。
師はお茶を注ぎ始めた。学者の杯を縁まで満たしたが、さらに注ぎ続けた。お茶は杯の縁から溢れ、テーブルにこぼれ、学者の衣にまでかかった。
「やめてください!」学者は叫んだ。「杯は満杯です!もう入りません!」師はポットを置き、微笑んだ。
「その通りだ」と師は言った。「君はこの杯のようなものだ。君の心はすでに知っていることで満ち溢れていて、君が学びに来たことを受け入れる余地がないのだ。」
学者は黙り込んだ。彼は自分の知識を披露し、認められ、賢者として認められるために来たのだ。しかし師は彼にこう示した。知恵とは満たすことではなく、空にすることにあるのだと。
「どうすればいいのですか?」と学者はささやいた。師はこぼれた茶葉を指さした。「茶碗を空にしなさい」と師は言った。
学者は茶葉を注いだ。古い茶葉、古い知識、古い確信。彼は空になった茶碗を両手で握った。不思議な感覚だった。軽やかで、脆く感じた。
「さあ」と師は言い、新しい茶葉を注いだ。「あなたは受け入れる準備ができた」。茶葉は茶碗を満たした。溢れることもなく、無駄になることもなく、ただ完璧に、感謝の念を込めて受け止められた。
学者は何年もそこに留まった。彼は新しい知識を学ばなかった。新しい文献を暗記することもなかった。彼は学びを捨てた。空にした。彼は、あまりにも満ち溢れていて気づかなかったもの、つまり、シンプルで、ありのままの、生き生きとした今この瞬間のために、空間を作った。
ついに学校に戻った時、同僚たちは彼に何を学んだのかと尋ねた。彼は空になった茶碗を掲げた。「何も学んでいない」と彼は答えた。 「私は何も学ばなかった。そして、それこそがすべてなのだ。」
彼は残りの人生を、言葉ではなく、存在そのもので教えることに捧げた。答えではなく、問いかけで。満杯のコップではなく、空のコップで――世界が与えてくれるものすべてを受け入れる準備を整え、一滴一滴に感謝しながら。