かつて、自分の始まりを思い出せない一匹の蝶がいました。花から花へと、美しく軽やかに飛び回っていましたが、何かが彼女を苦しめていました。それは、大切な何かを失った、という感覚です。
ある日、彼女は古い石垣に降り立ち、割れ目をゆっくりと進む青虫に話しかけました。「あなたはとてもゆっくり動くのね」と蝶は言いました。「飛べたらいいのに、と思わない?」
青虫は立ち止まり、見上げました。その目は静かに、忍耐強く見えました。「急いでいるんじゃない」と彼女は言いました。「私は何かになろうとしているの。葉っぱを食べるたびに、這うたびに、休むたびに――すべてが、何かになっていく過程なの。」
蝶は軽く笑いました。「何になるっていうの?もっと青虫になるってこと?」青虫はしばらく黙っていました。それから言いました。「あのね、私もかつては君みたいだった。私も忘れていたの。」
蝶は胸の中で何かが揺れ動くのを感じました。それは、彼女が辿り着くことのできない記憶でした。 「何を忘れたの?」と彼女はささやきました。
青虫は再びゆっくりと、慎重に動き始めました。「かつて自分が青虫だったことを忘れていたの。ずっと蝶だったと思っていた。自分の美しさこそが全てだと思っていた。」
「でも本当は」と青虫は止まることなく続けた。「ゆっくりと這っていった一歩一歩がなかったら、私がここにいることはなかった。食べた葉っぱの一つ一つがなかったら、繭の闇に身を委ねて休んだ時間があったから。」
蝶は青虫のそばに止まり、突然自分の軽やかさ、そして忘れ去られていることに気づいた。「では、なぜこんなにも不完全だと感じるの?」と彼女は尋ねた。「なぜ何かを失ったような気がするの?」
青虫は立ち止まり、彼女を振り返った。「あなたがそうだったからよ。あなたは自分が何者になるのかという記憶を失ってしまった。あなたは自分が飛ぶように生まれたと思っている。でも、私のように這って生まれたのよ。ただ、思い出せないだけなの。」
「どうすればいいの?」と蝶は震える羽根で尋ねた。青虫は再びゆっくりとした旅を始めた。 「何もする必要はない。ただ思い出せばいい。記憶だけで十分。すべてが変わる。」
青虫が割れ目の中に消えた後も、蝶は長い間石垣に留まっていた。そしてゆっくりと、優しく、思考よりも深いどこか、暗闇から記憶が浮かび上がってきた。待つこと。信頼すること。そして、生まれていくこと。
彼女は羽を広げて飛び立ったが、今は違った姿だった。彼女は相変わらず軽やかで、相変わらず美しかった。しかし、その軽やかさの下に、彼女は新たな確信を抱いていた。彼女はただの蝶ではない。彼女はこれまでゆっくりと這ってきた一歩一歩、その全てを体現していた。そして、これからもずっとそうあり続けるだろう。