今では誰もが忘れかけて、でも、この半年、日本に住んでいた人ならイヤと言うほど耳にした


「あいさつの魔法」





例の ぽぽぽ~~ん の歌





最初、この曲調や声の雰囲気から


矢野顕子あたりが作っていたと思ったら、そうでもなく


震災の報道と前後して公共電波を支配し続けて


そして、私たちの神経に障り続けていたことは


記憶にはまだ 新しい。





1ヶ月ぐらいたったころだろうか。





この歌(というよりも、ACの思惑?)の偉大さに、ふと気づいた。











さて、人の記憶や思い出には、おうおうにして音楽がリンクされることがままある。





「この曲を聴くと、青春の頃を思い出す~」


とか


「彼に振られたときに流行っていた曲だから・・・」


とか、、


音楽というのは、記憶のタイムカプセルのように作用することが多い。





だから、当然、私たちはこの「ぽぽぽ~ん」を聞けば


否応なしにあの、震災直後の混沌と不安に満ちた日々を脳裏に突きつけられるに違いない。





現に、今 You tube で聞いていても、自分の脈が速まるように感じる。








しかし、だ。








もし、この曲が無ければ、そしてそれを執拗なまでに流し続けてくれてなければ、


きっと、「他の誰かの曲」が、その役を担ってしまっていたのかもしれないように思う。





また、普通ならその曲は、複数になり、たとえば「自分にとっての初恋の曲」が十人十色であるように、


被災者や関係者によって、まちまちになったりしていたことだろう。





これは、震災復興がひとしきり終わった後のことを考えれば


音楽という文化が萎縮しかねないことでもあったにちがいない。





「あの時期にかかっていた音曲は、すべからく、被災者の感情を呼び起こしてしまうから」という


配慮も出てしかるべきだろうし。











しかし、「ぽぽぽ~ん」は、その『憎まれ役』を一手に引き受けてくれた と言ってもいいように思う。











あの夜の不安さや絶望も、





寒風吹きすさぶ都会を無言のまま歩いて帰っていった寂しさも、





遺体を運びあげていた重さの実感も





少ない燃料や食料を手に入れるために、行列に並んでいた無力感も、





がれきの中でふれあった人の温かさも











そういう私たちの記憶や経験が、すべてこの曲の中に詰まってしまったと思う。








そして、その役目をぽぽぽ~んに担ってもらい、


いま、私たちの周りには


人の絆や未来や希望といった明るい前向きな楽曲だけが


受け入れられている。





もちろん、そこには破滅的な歌詞や、破壊的な要素は微塵も感じられず


自然現象による文化のリバウンドのようなものを毎日目にする。





これが人為的に行われたとき、思想統制が始まるんだろうな と思いつつ


良い意味でも悪い意味でも「優れた」為政者は、


偶然を必然に変換する能力が高いのだが、


幸か不幸か、そういう政治家には恵まれないでいる。








さて、レコード大賞には入らないだろうそんな「ぽぽぽ~ん」は





年末にはどのように評価されるのだろうか。








願わくば、この未曾有の大災害に対して真っ先に立ち向かっていたのが


「文化」であることを、私たちは忘れないようにしたい。





改めて「三陸」についておさらい。

「陸前、陸中、陸奥」の総称であり、今の宮城・岩手・青森を指す。
ただ、一般に「三陸」と言うときには、下の句のごとくに「海岸」と続くのが一般的で、
その三国(陸前・陸中・陸奥)の海岸部一帯を言うことが多い。

多くの日本人にとって「三陸」は、
「リアス式海岸」と「津波」と「漁場」で締めくくられるように思う。

ちなみにこの「三陸」というネーミングは、明治の大津波での報道から使われるようになったものらしく、
どおりで「三備(備前・備中・備後)」とかいう語は見当たらない。
また越前・越中・越後を「三越」と表現すれば某デパートになってしまい、
これまた締りない。

だいたい、律令制分国法における「陸奥」は青森・岩手・宮城・福島を擁するだだっぴろさで
それを三つに分けて「前・中・後」に分けたようにも見受けれる。
雑な扱いだ。

そもそも、「陸奥(むつ・みちのく)」という呼称自体、
人をバカにしてる。

「道の奥」つまり「どん詰まりの地」という呼称。

オランダ人たちが、自らを「ネーデルランド(低い土地)」だと開き直って国名にしたようなおおらかさを見習いたいとは思うが
そういう気にはなれないれっきとした差別用語であることも、意識したい。


そのくせ、万葉の昔から現代にかけて「みちのく」という語感は、
やはり、鼻腔をくすぐられるような郷愁を
非みちのく人には匂うらしい。


ガイドマップ的に言うなら、典型的なリアス式海岸として海岸線は激しい起伏に富み、
古代から現代にいたるまで、人の通行を妨げ、都市の無防備な繁殖を妨げている。

海岸線における交通の難所というと、越中と越後をつなぐ「親知らず子知らず」が知られているが、
三陸海岸は、あんな感じの海岸線が100km以上も延々と続いている・・と思っていい。

船の行き来も、困難だったらしい。

江戸と松前を結ぶためには、太平洋航路でつないだ方が「地図上」では容易に見える。
しかし、良港の少ない、そして延々と続く三陸海岸を行き来できるほどの造船技術の向上を
当時の幕府は許していなかった。

江戸時代、海の交通においても難所である三陸を避けて、
日本海を廻る北前船が時代の繁栄を支えたのは、ひとえに三陸が立ちはだかっていたおかげであろう。

そこは、有史以来、幾度となく津波に洗われている。


その大津波たちは非火山性の北上高地を何度も爪を立てて、
そこにできた、ひっかき傷のようなわずかな平地に
人々は肩寄せ合い、ひっそりと、そして慎ましやかに生きている。


地勢的にも恵まれているとは言えないその土地の歴史を見るとき、
多少の感傷を持って表現したくなる。
その歴史はまことにもって、無視と搾取が続けられてきた歴史かもしれない。

日本中の沿岸を世界中の蒸気船がやってきて、測量をしたり修好をもとめて近づいたり、
時には不幸な接触もあったりとしていた幕末前夜。

三陸地方では日本史上稀にみる大事件が起きていた。

南部三閉伊一揆と名付けられた一揆は、
三陸地方の南部藩部分(現在でいう、岩手県沿岸北部)の農民・漁民を含めた約1万6千人による政治的要求を持った、そしてそれが成功した一揆。

恐るべきほどの大規模の一揆ではあったが、秩序と規律のもとに組織され、
かつその要求も高度に政治的な内容を含んでいることはじつに珍しく
日本史において民主主義の発展と歴史を探る際には、
突出した異形として燦然と輝いて見えることに、異論は無いように思える。

前後して、吉田松陰が岩手を訪れ、ペリーが浦賀を訪れている。

その直後、三陸海岸の名前が日本史の中で、宮古湾海戦という名前で線香の明りのようにうっすらと光る瞬間があるものの、
それはたまたまこの地でだったということでしかない。

富国強兵で注目の浴びた釜石も、結局は艦砲射撃の標的となる。

さて、この、中央政府の視界から見捨てられてきた三陸地方も、
1970年代(つまり、つい最近と言ってもいい)になってやっと鉄道が海沿いに通る。

ところがようやく通ったその鉄道も、採算が合わないことで見捨てられ、
それを、粘り強い交渉と関係者の並々ならない熱意を背景に、
国鉄の民営化に伴い第三セクターへと移管された、、、、

・・・・が、要は採算優先の中で見捨てられたにすぎない。



私にとって第二のふるさとともいえるここが、
今、こういう形で世界中から脚光を浴びてしまった。
そして、また きっとすぐに忘れ去られるだろう。


こういう歴史をひもとけば、ここの暮らす人たちが
どうして我慢強く、どうして連帯感を大事にして、どうして天災や人災に耐え忍ぶことが出来るのか・・・・

という問いかけのヒントのかけらにならないだろうか