母はとてもパワフルな女性でした
でも
生まれた時は心臓が弱くて、子ども時代は体育の時間は見学ばかり・・・
「長くは生きられないかも・・・」とも言われてきたそうです。
苦しく大変な戦中を生きぬき、
戦後に父と出会い、親に結婚を反対され「駆け落ち」のように結婚して
決して楽ではない生活のため、ずっと仕事をつづけてきました
私も7歳離れた弟も、小さいころから保育所に預けられました
父は今どきの「イクメン」とはほど遠く、
子どもに愛情をもってくれましたが 実際に子育てに手を貸すタイプではなく
仕事と子育てとを、母一人でやりくりをしていました
そのせいか、
私の小学校入学以前の記憶は、母方の実家ですごしたことばかりが鮮明に残っています
大きくなってからは、弟を保育所に迎えに行ったり、遊びに行くにも弟を連れて歩いたり…
子ども心的には「寂しい・・・」「おかあちゃんは家にいてほしい」などと思っていました
自分が大人になってから、「働きながら子育てするのってスゴイ!」に変化しましたけれどね。
母のすごさは40歳になってから転職した時に感じました。
それまでは県庁や市役所などの臨時職員として事務の仕事をしていたのに
「これからは福祉関係の仕事をしたい」
「社会に貢献できる仕事をしたい」と言い、「老人ホーム」の寮母の職についたのです
仕事としてはまだあまり知られていない時代でした
「今度の仕事は泊まりもあるからよろしくね!」と一言
「え?なんで~~~?」と抵抗したものの、すでに決定事項ですから
有無を言わせない状況でした。
この仕事は、母が人生で1番充実して楽しんだ仕事だと思います。
寮母から指導員として、人の上にたつまでになり、「脳内出血」で倒れる59歳まで精力的に働いていました
退職後は、
「習字」「琴」「シャドーボックス」「パッチワーク」「旅行」「ピアノ」「観劇」etc.
自分のやってみたいことのすべてにチャレンジ!
まぁ~、わが母ながら感心しましたよ
もちろん、お友だちいっぱい!!
家にはいつも誰かが出入りして「お茶のみ」していました
60歳代の母のことは、子どもの私より友人や近くの親戚の方がよく知っています
その母が、9月28日に亡くなり大好きな父のもとへ旅立ちました
晩年は「体力の衰え」と「痴呆」が進み、本人の思うようには生きられなかったと思います
ここ3年ほどは弟夫婦のもとで、弟夫婦の手を借りてすごしていました
時には私もできることがあれば、手を貸しながらすごしていました
「家族葬」で送りました
母の妹・弟・甥・姪などが集まってくれ、賑やかにおしゃべりしてすごしました
最後は1番母らしい形で送ることができました
ひと段落ついて、私はいつも通りにすごしています。
それが1番の供養だとおもうから・・・・・・・・・・・・
きゃんままはきゃんままらしく今日も元気です!