私のLivedoorブログのコピーです

スッパ抜きで有名な文春で こんな記事が出るんだなあ①絶海の孤島 青ヶ島に1週間 滞在ルポ : 丹沢z3の気まぐれブログ

 

伊豆諸島の最南端 絶壁に囲まれ絶海の孤島と言われる 青ヶ島
そこに女性ライターが滞在1週間の体験記録の記事(3部作)です

尚 現地で お世話になった女性 佐々木加絵さんは 有名なyoutube寄稿者です

2024/04/20 体験者は フリーライター 仲 奈々
火山の噴火で島民100人超が死亡、ネズミに荒らされ人間は住めず…絶海の孤島「青ヶ島」のディープな世界 | 文春オンライン (bunshun.jp)

青ヶ島滞在記100


皆さんは「青ヶ島」を知っているだろうか 東京都心から約360km離れ

2024年1月1日時点の人口は156人「日本一人口の少ない村」だ

青ヶ島に行くには 八丈島から1日1便9席しかないヘリコプターか
週に5回運航している連絡船を利用する必要がある
その連絡船は 流れの速い黒潮の影響で予定どおりに運航するとは限らない
黒潮に加えて強い西風が吹く冬場の就航率は 5割を切ることも多い

ただでさえ交通手段が限られているのに 予定通りたどり着ける保証もない
その行きづらさから 青ヶ島は「絶海の孤島」と呼ばれている

今回は 特に上陸しづらい「冬の青ヶ島」に1週間滞在して 現地を取材した
島外との交通手段が絶たれる期間 島の人々はどのように生活をしているのだろうか
(全3回の1回目/2回目に続く)

絶海の孤島 青ヶ島(写真=佐々木加絵さん提供)

青ヶ島滞在記101


◆歴史を遡るほど“神秘さ”が増す青ヶ島
「黒潮の真ん中に ぽつりと浮かぶこの島が いつ現れ人が住むようになったのか
はっきりしたことは分からない」

青ヶ島村の公式ホームページに掲載されている島の歴史は こんな一文から始まる
それくらい 青ヶ島には未知のことが多い

過去の資料をヒモ解くと 海難事故や島流しに関することばかり書かれていたり
鎌倉時代の書物『保元物語』に出てくる鬼の子孫が住む「鬼島」は 青ヶ島らしい
歴史を遡れば遡るほど“神秘さ”が増していく その独特な魅力に惹かれ

「死ぬまでに一度はこの地を訪ねたい」と思う人も少なくないだろう

「青ヶ島村立図書館」で読んだ島史などによると
1975年頃の青ヶ島には月に数回の定期船しか外部との交通手段がなく
風の強い冬場は3ヶ月以上船が来ないこともあった

“しけ”で荒れる青ヶ島の港
 

青ヶ島滞在記102


また 常に強い黒潮や風の影響から大型船舶を港に横付けすることが難しかったため
2000年頃まで大型船舶と港の間を行き来する小舟“はしけ”で 荷物や乗客を運んでいた

◆ヘリコプターの座席確保のための争奪戦がスタート
令和の現在 青ヶ島に行く方法は八丈島から週5回出航する連絡船「くろしお丸」と
同じく八丈島から1日1便出るヘリコプターの2つ
以前と比べると交通手段は増えたものの くろしお丸の就航率は 5割前後
風や波が強い冬の時期は 1週間以上運航しないこともあるという

一方で ヘリコプターの就航率は8割以上と安定しているので
青ヶ島に行くには この座席確保が得策だ しかし このヘリコプターの座席は9席のみ

筆者はそんな青ヶ島に
島しょ地域のブランド化を推進する「東京宝島アクセラレーションプログラム」が

支援する移住体験プロジェクトの参加者として行くことになった
出発予定日の1か月前 2023年11月16日午前9時
ヘリコプター座席確保の争奪戦がスタート 予約センターに電話しても通話中

200回以上も電話をかけ直し なんとか座席の確保に成功したが
帰りの便でも同じことをしなければならない
上陸は1ヶ月も先だというのに 早くも“絶海の孤島”の試練を受けている気分だった
青ヶ島は 公共交通手段が発達した現代でも 行きづらい場所である事実は変らない
旅がスタートする前から それを身をもって体験した

◆搭乗直前に航空会社から届いた1通のメール
そして1ヶ月後の2023年12月16日 青ヶ島に向かう羽田空港へと向かっていた
ヘリに乗るには 7時30分の羽田空港発 八丈島空港行きの飛行機に搭乗が必要
眠い目を こすりながら空港行きの電車に揺られていると

航空会社から1通のメールが届いた「12月16日ANA1891便

東京/羽田07:30発~八丈島08:25着は八丈島空港強風のため
天候状況を確認した結果 条件付きの運航となりました
八丈島空港に着陸出来ない場合は東京/羽田空港に引き返す可能性がございます
あらかじめご了承ください」

そもそも 八丈島空港に到着出来ない可能性が出てきてしまった
八丈島に着陸出来なければ 苦労して取ったヘリコプターの予約も やり直しか・・・?

不安を抱えながら羽田発の飛行機に搭乗し激しく揺れる機体に不安を抱えつつも
なんとか八丈島空港に到着 そして9時55分 青ヶ島に向かうヘリコプターに乗込む

ヘリコプター搭乗前に 1人1人 体重を確認されて少し慌ててしまった

青ヶ島滞在記103


ヘリコプターの中は電子機器使用禁止のため撮影出来なかったが
雲の合間を縫って空を飛ぶ機内から見た絶景には 言葉を失った

◆「世界の絶景13選」に選ばれた二重のカルデラを一望する
出発してから約20分 特徴的な楕円形をした小さな島 絶海の孤島「青ヶ島」が見えた

青ヶ島(写真=佐々木加絵さん提供)

青ヶ島滞在記104


島の全体面積は約6k㎡ 上空から見ると お菓子のカヌレを内に抱えたような
「外輪山」と「内輪山(丸山)」が有る 世界でも珍しい二重のカルデラを一望出来る
2014年にアメリカの環境保護NGO「One Green Planet」が
発表した「死ぬまでに見るべき世界の絶景13選」に選ばれているためか
私が滞在している間にも3組ほど外国人観光客を見かけた

青ヶ島が二重カルデラ構造なのは 1785年の天明の大噴火の影響と言われている
気象庁のホームページに記載されている青ヶ島の有史以降の火山活動履歴を見ると
大噴火によって 当時の島民327人の内130~140人が死亡したと推定されている

世界でも珍しい二重のカルデラ

青ヶ島滞在記105


◆天明の大噴火から50年後に 青ヶ島の再興が宣言された
島民の人たちに当時の歴史について話を聞くと 生き残った約200人の島民は
約70km離れた八丈島へ避難し 青ヶ島は無人島と化したという
運悪く 八丈島は天明の大飢饉真っ只中で 八丈島民ですら食事に困っている状況だった
そのため 避難してきた青ヶ島民は肩身の狭い思いをしたそうだ

「青ヶ島に戻りたい」と願い帰島を試みる人もいたが
波風の強い断崖絶壁の島には容易に たどり着けず 夢半ばで息絶える人が殆んどだった
まれに到着出来ても ねずみに荒らされ砂と岩だらけとなった土地では食物が育たず
生活そのものが困難を極めた

還住を実現した青ヶ島の英雄 佐々木次郎太夫を称える像

青ヶ島滞在記106


それでも青ヶ島民は諦めず 1817年には島民の佐々木次郎太夫が中心となって
段階的に帰島事業が進められた これにより 1824年には全青ヶ島民の帰島が実現
そして天明の大噴火から50年後の1835年 ついに青ヶ島の再興が宣言された
この事は「還住」と呼ばれ 佐々木次郎太夫は今でも「島の英雄」として

語り継がれている

◆青ヶ島に上陸し 唯一の集落「岡部地区」に向かうと…
さて 話を現在の青ヶ島に戻そう 無事島に到着し

ヘリコプターを降りた筆者達は 青ヶ島唯一の集落「岡部地区」に向かった

青ヶ島のMAP(青ヶ島村ホームページより)

青ヶ島滞在記107


青ヶ島にはバスやタクシーが無いため 移動手段は徒歩かレンタカーがメインとなる
ヘリポートは集落と隣接しており 集落も端から端まで歩ける距離
数日滞在する程度ならレンタカー無しでも困ることは無さそうだ

岡部地区のMAP(青ヶ島村ホームページより)

青ヶ島滞在記108


この日は風が強いが 暖かくて過ごしやすかったため 徒歩で集落まで行くことにした
断崖絶壁に囲まれた島のため 坂が多い
郵便局や商店 ガソリンスタンドなど生活に必要な施設の殆んどが この集落内にある

坂道と 青ヶ島唯一の郵便局 島内でキャッシュレス対応しているのはここだけ

青ヶ島滞在記109


島唯一の商店に入ってみると お菓子やカップ麺は置いてあるものの
パンや生鮮食品の棚は殆んど空っぽだった
店内にいた島民に話を聞いたところ もう4日も連絡船が来ていないという

島唯一の商店 食品の他 洗剤などの消耗品も 生活必需品の殆んどがここで揃う

青ヶ島滞在記110


◆しばらく連絡船が来なくても食材に困らないワケ
青ヶ島の物流は 現在も連絡船の運航状況に左右されている
船が来ない間は もちろん食品も補充されない
島民たちは この期間をどのように乗り越えているのだろうか

「殆んどの島民が 自分の畑を持っています
だから しばらく物流が途絶えても食材には困らないんですよ
足りないものは ご近所さんに頂くことも多いですね」

そう教えてくれたのは 青ヶ島での日常を発信するYouTuber 佐々木加絵さん

ニワトリを育てる島民から卵を分けてもらう佐々木加絵さん

青ヶ島滞在記111


何かをもらったら 代りに自分の畑で採れた野菜をあげるか
“お手伝い”をすることでお返しをしているのだそう
この島では 今も「物々交換」が珍しくない
物流が不安定な島だから お金よりも“物”の価値が他の場所と比べて高いのだろう

◆「青ヶ島には明日葉があるから生き延びることが出来る」
島内を散策していると 島唐辛子と明日葉が至るところに自生しているのを目にする
明日葉は「今日新芽を摘んでも 明日には新しい芽が出てくる」のが名前の由来
高い生命力と栄養価を誇る食材だ 島の人達からは
「本格的に物流が途絶えても 青ヶ島には明日葉があるから生き延びる事が出来る」

と信頼されている

通常の唐辛子の倍は辛い「島唐辛子」(左)と 青ヶ島のソウルフード「明日葉」

青ヶ島滞在記112


島唐辛子と明日葉は 宿泊先の民家の庭にも自生していた
宿泊中には 商店で購入した乾麺と庭から採れたての新鮮な島唐辛子と明日葉を使って
「明日葉のペペロンチーノ」を作った トッピングは
黒潮の海水を地熱蒸気で熱して作った青ヶ島の特産品「ひんぎゃの塩」を振りかける
明日葉は思ったよりもクセがなく美味しい

◆なぜ島民は“不便さ”を感じていないのだろうか?
ちなみに 観光客として青ヶ島に行く時は 3食付きの民宿に泊まるのが一般的だ
商店では弁当や惣菜は取扱ってなく 食事を提供している食堂やカフェも島内には無い
例えば 集落の中心部に位置する民宿「かいゆう丸」では
島寿司や明日葉の和物など 青ヶ島の郷土料理が味わえる

民宿「かいゆう丸」の夕飯 島寿司や明日葉の和物など青ヶ島の郷土料理

青ヶ島滞在記113


しかし 今回の旅では 青ヶ島の“日常生活”を体験するために
普段は人が住んでいる民家を一時的に借りて そこを宿泊先とした
そのため 滞在中は島民と同じように 3食 自炊の生活となる
限られた食材で 試行錯誤しながらレシピを考えなければならない

新鮮な島唐辛子と明日葉で作った「明日葉のペペロンチーノ」

青ヶ島滞在記114


この島では レシピサイトに載っている材料が直ぐに手に入るとは限らない
惣菜を買えるお店や定食屋もない きっと 島での生活は不便なことも多いはずだ

しかし島の人たちは 不便さを感じていない様子だった
採れたての野菜がいつでも手に入る状況で家族や親しい人達と集まり
「今日は何を作ろうか」と相談しながら キッチンに立ち食卓を囲む日常が

あるからだろう

◆3日目はコワーキングスペースと星空の絶景スポットへ
青ヶ島の生活にも慣れてきた3日目の夜 この日は 夕食を食べた後に
青ヶ島唯一のコワーキングスペース「NYAYA」に移動し 映画鑑賞をすることに
NYAYAも集落内にあるため 徒歩で行ける

緑色の建物がコワーキングスペース「NYAYA」

青ヶ島滞在記115


コワーキングスペースとしての利用はもちろん 事前に予約すれば貸切りも出来る
Wi-Fiの他 投影機やスクリーンも常設してある
島内の人口が156人と少ないため Wi-Fiが混み合うことはない
むしろ いつもよりも速く感じ PCの作業もスムーズに行えた

Wi-Fiが使えるのでPC作業がスムーズ

青ヶ島滞在記116


映画を見終って外に出たら 星空が広がっていた
冬は風が強い日が多く その影響で船が運行出来ない日も多い
でも 風が強ければ強いほど雲が流れ 夜には満天の星が見えるようになる

青ヶ島は空を遮る民家や建物が少ないため どこからでも星空が見える が 今回は

集落から少し歩いて 島の人たちが教えてくれた星空の絶景スポットに向かった

集落から歩いて15分ほど 数頭の牛を育てる「ジョウマン共同牧場」に到着
時間は深夜1時ごろ 牛たちは寝しずまり 住宅の明かりはもちろん
宿舎の明かりも 街灯も1つもない 見上げると ただただ 満天の星が広がっていた

「ジョウマン共同牧場」で見た満天の星

青ヶ島滞在記117


そして青ヶ島に到着して4日目の12月19日 約1週間ぶりに船の運行が決まった

=============
次の②と③は続編で 中身が長文 かつ 写真も多いので 3回に分けて お届けします
人口156人、上陸困難な“絶海の孤島”青ヶ島を現地取材! 1週間生活してわかった“リアルな島暮らし” | 文春オンライン (bunshun.jp)

絶海の孤島・青ヶ島在住の40歳女性が語る、“日本一人口が少ない村”の男女の出会い事情「家族のように育っているから…」 | 文春オンライン (bunshun.jp)