綱吉 って言うと、イヌ大好きって感じですが、それだけじゃない。

 

大事なのは、学問大好きってこと。

 

綱吉 って、家臣を相手に、儒学の本 「 易経〔えききょう〕 」 について、年間30回の講義を7年~8年も行った将軍ですから。

 

月に2~3度授業をしてるんだよ。

 

じゃあ、そんな 綱吉 を見ていくよ。

 

綱吉の時代は、 元禄時代 と呼ばれます。

 

まず、例によって、政治スタッフ、

 

徳川綱吉をサポートした人。

 

前半と後半に分かれるよ。


 

前半は、大老 堀田正俊〔ほったまさとし〕 。

 

後半は、側用人 柳沢吉保〔やなぎさわよしやす〕 です。


 

堀田正俊 が実権を握った時期は、 天和〔てんな〕の治 と言う。

 

柳沢吉保 が実権を握った時期は、 元禄の治 と言う。


 

この辺りも、区別してね。

 

さて、

 

堀田正俊 は、前の権力者 大老 酒井忠清 を押しのけて、権力者になりました。

 

4代将軍 徳川家綱 が子もなく39歳で死の床に就いたとき、

 

酒井忠清 は、なんと、 親王将軍 を提案しました。

 

えー、そんなこと、あったんだ。

 

あんま聞いたことないでしょ。

 

鎌倉時代みたい。

 

朝廷から、天皇の子を将軍として迎えようという案。

 

将軍は、カタチだけの存在になるね。

 

まさに、 酒井忠清 は、北条氏の執権政治のようなモノを描いたのかも知れません。

 

大老が、将軍に代わって、政治を牛耳っちゃうぞ的な。

 

けれども、そんな時、 堀田正俊 は、 親王将軍 に反対したんだね。

 

将軍候補は、他にもいるではないか、、、と。

 

で、候補に挙がったのが、上州、つまり上野〔こうずけ〕国、つまり、今の群馬ですが、館林〔たてばやし〕藩 の 徳川綱吉 でした。

 

彼は、家光の四男です。

 

家綱の弟ね。

 

次第に、やっぱ、家康の血筋を引いている者が将軍を継ぐのが良いだろう、という意見が強くなり、水戸の徳川光圀も賛成して、幕府内では、綱吉の5代将軍就任でまとまったのでした。

 

なんと、この決定は、家綱の死去、3日前!

 

死の床で、 家綱 は、35歳の 綱吉 を養子に迎えることを承認し、跡継ぎにすることを遺言で残したのです。

 

綱吉 が将軍に就任することで、権力を握った 堀田正俊 でした。


(酒井忠清は、ワイロ政治と非難され、徳川綱吉により退けられます)

 

堀田正俊 は下総〔しもうさ〕国の大名。

 

下総は、現在の千葉・茨城の方です。

 

その中の 古河藩 の藩主でした。

 

古河藩は、現在の茨城県にあります。

 

で、 堀田正俊 って筋目正しく、家光の弟を将軍候補にしたことからも分かるとおり、けっこう、剛直なところがあって、まぁ、それが彼の魅力なのかも知れないけど、敵が多かったです。

 

キツイ性格。

 

他人の失敗を許せないタイプ。

 

綱吉 って、文治政治を展開した存在だから、意外に思うかもしれませんが、大名や旗本たちの法令違反には厳罰主義にあたり、30あまりの大名と100以上の旗本が 改易 処分にされています。

 

こうした政策も 堀田正俊 という厳しい大老の存在が大きく影響していると言えるでしょう。

 

結果、 堀田正俊 は、恨みを買うことが多く、最終的には、1684年、若年寄の 稲葉正休〔いなばまさやす〕 により暗殺されました。

 

稲葉正休 自身、その場で、めった刺しにされて殺されているので、動機の解明が不十分なのですが、一説には、治水工事を任されていたのに、 堀田正俊 にもっと安く出来るハズだ、とか言われ、外され、ということが原因とも言われます。

 

だから、 堀田正俊 が殺されたことは、武断政治から、本格的に文治政治に移行していこうじゃないか、というきっかけになったかも知れませんね。

 

で、そんな綱吉政治後半を担当したのが、 側用人 の 柳沢吉保 が権力者に。

 

側用人 っていうのは、決して、高い位じゃありません。

 

老中たちが、決めた政治についての話を、将軍に取り次ぐ仕事。

 

最初は、1684年に 牧野成貞〔まきのなりさだ〕 がなったのが最初です。

 

さっきの話に戻るけど、稲葉正休 が 堀田正俊 を殺害した部屋が、老中のいる部屋だったんですけど、それって、将軍の居る部屋の隣なんだよね。

 

だから、ちょっと、危険すぎるから、将軍の部屋と老中が政治的な話をする部屋を離そうってことになったんです。

 

それで、老中たちの部屋と、将軍の部屋を取り次ぐ存在が必要になったんだね。

 

これが、側用人の始まり。

 

で、いつも、将軍のお側近くに居るために、側用人は、権力を握れるようになったんですね。

 

柳沢吉保 は、もとは160石の小姓でしたが、1688年に 側用人 になって以降、出世し、やがて、甲府15万石を任されるまでになっています。

 

と言うワケで、繰り返しですが、


 

家綱の時代


… 前半は 保科正之 がサポート


… 後半は 酒井忠清 がサポート


= 寛文の治



 

綱吉の時代( 元禄時代 )


… 前半は 堀田正俊 がサポート


= 天和の治

 


… 後半は 柳沢吉保 がサポート


= 元禄の治


 

という風に、整理してね。

 

じゃあ、綱吉の時代の具体的な政治を見ていこう。

 

まず、 武家諸法度 が特徴的。

 

武家諸法度 って誰が守るべき法令?

 

そうだよね、大名だよね。

 

だから、非常に、軍事的な内容でしたよ。

 

「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」

 

有名な武家諸法度のイントロダクション。

 

それが、こう変わった!

 

「文武忠孝を励〔はげま〕し、礼儀を正すべき事。」

 

ね、ずいぶん、おとなしくなったよね。

 

文武弓馬の道が、文武“忠孝”になった。

 

礼儀による秩序を重視するようになった。

 

大名たちに対して、

 

「おまえら、言うこと聞け、違反したら、改易だぞ」

 

と脅すのではなく、

 

「いいかい、もう、戦国時代じゃないんだ、下剋上とか起きないんだよ、今の秩序のまま、永久に続くんだ、逆らったりしたらいけないよ、現在の上下関係をきちっと守りなさい」

 

と言い聞かせているようです。

 

文治政治の精神が、武家諸法度に現れたんだね。

 

注意してね。

 

文治政治への転換は、4代 家綱 からだけど、武家諸法度に、文治政治の精神が現れるのは、この5代 綱吉 です。

 

家綱の 寛文令〈1663〉 ではなく、

 

綱吉の 天和令〈1683〉 で、文治政治の具体的な政策が掲載されたのです。

 

そのあたり、しっかり押さえてね。

 

同じ理屈で、 末期養子の禁緩和 や 殉死の禁止 も寛文の二大美事 と呼ばれ、家綱の時代に打ち出された政策ですが、同じく、武家諸法度に反映されるのは、 綱吉 の頃だと言うことです。

 

こうした大幅なチェンジが行われた 綱吉 の 武家諸法度 は 天和〔てんな〕令 を抑えてね。

 

1683年 に出されました。

 

さて、家綱の時に定めた、殉死の禁止や末期養子の禁緩和など、武家諸法度に載せましたけど、 綱吉 自身は何しましょ。

 

礼儀による秩序を重視する方針を打ち出しましたが、具体的には??

 

皆に、秩序の重視を、知らしめねば。

 

そのためには、やっぱ、教育でしょ。

 

で、上下関係など、秩序の重視を教えるのに、イチバン良い、教科は何かな??

 

そう、儒学だよね。

 

孔子の教え。

 

孔子は、中国の人。

 

紀元前500年頃、

 

今から2500年くらい前の時代、

 

中国は、 春秋戦国時代 と言って、統一されていない時代、

 

後に、秦の始皇帝によって統一されますが。

 

王と家来の関係を説き、父と子の関係を説き、

 

つまり、上下関係が社会の中で、如何に大事かを説きました。

 

そうした 孔子 の教えを 儒学 とか 儒教 とかって言います。

 

儒学は、古墳時代以来、日本に伝来していますが、改めて、この江戸時代、 徳川綱吉 は、注目し、この儒学の精神を社会に浸透させようとしたのです。

 

具体的にやったことをまとめましょう。


 

・ 湯島聖堂 を設ける

 

… 孔子 をお祀りする


 

・ 聖堂学問所 を設ける

 

… 『 論語 』など儒学の講義を行う

 

… この学問所の長官である 大学頭〔だいがくのかみ〕 に 林信篤〔のぶあつ〕(鳳岡〔ほうこう〕) を任命


( 林羅山-林鵞峰〔がほう〕-林信篤 )


 

聖堂学問所 は、もともと、林家の私塾 弘文館 でした。

 

上野の忍ヶ岡〔しのぶがおか〕に立地し、林羅山が設けた孔子廟〔こうしびょう〕もありました。( 孔子の像を置いてまつる廟堂 )

 

それを 綱吉 が1690年に 神田湯島 に移転させることを命じたのです。

 

その地は、孔子が生まれた昌平郷にちなみ、 昌平坂 と呼ばれるようになりましたよ。

 

これ以降、林家が代々、この学問所を取り仕切っていくことになりました。

 

旗本など、直参の幕臣が、ここで儒学を学びました。

 

ただ、ちょっと、注意して欲しいのは、この 綱吉 の時点でも、まだ基本的には、林家の経営する私塾だったということです。

 

これが、正式に、幕府の学校になったのは、

 

寛政の改革で、 1790年、寛政異学の禁 が出され、儒学研究でも、朱子学以外の授業が禁じられ、幕府の統制が強くなり、 1797年 に 昌平坂学問所 と改められ、完全に、“ 幕府立 ”の学校になったのです。

 

そのタイミングで林家から完全に切り離されたということですからね。

 

まぁ、綱吉の時点で、私塾といっても、幕府の関わりはすごく強いですがね。

 

だって、儒学者 木下順庵 から儒教を教わっていた 綱吉 は自ら、年間30回、儒学の講義を家臣相手にしていますし。

 

幕府の教育センター的役割をもっていたことは、間違いないでしょう。

 

湯島聖堂 や 聖堂学問所 は、教育に力を入れた 綱吉 の中心的な政策です。

 

さて、綱吉が、力を入れたのは、儒学だけじゃありません。

 

他の“ 科目 ”にも力を入れているよ。


 

・ 天文方〔てんもんがた〕 を1684年 に設置

… 渋川春海〔しぶかわはるみ(しゅんかい)〕 を任命。


 

・ 歌学方〔かがくかた〕 を 1689年 に設置

… 北村季吟〔きたむらきぎん〕 を任命。


 

渋川春海 は、 安井算哲 とも言います。

 

天文方は、何をするんだろう。

 

天体の観測。

 

天体の観測をして、何になるの?

 

大事なことに繋がるよ。

 

そう、暦だ。

 

カレンダー。

 

これまで使っていた 宣明暦 は、誤差が生じていたので、この天文方での観測を活かして、新たな暦を作りました。

 

これが、貞享暦〔じょうきょうれき〕 です。

 

つくる際には、元の 授時暦 を参考にしました。

 

また 歌学方 の 北村季吟 は、『源氏物語』や『枕草子』を研究し、作者の本来の意図を探りました。

 

こんな風に、文化豊かな 綱吉 の元禄時代ですね。

 

他にも、綱吉は、文化的な事業を展開していきますよ。


 

・ 造寺事業

 

… 護国寺 と 護持院 の造営

 

… 寛永寺 と 増上寺 の改築


 

護国寺 は、 1681年 大塚に建てられた寺です。

 

綱吉が建てたのですが、 母 桂昌院(お玉の方) の求めにより建立されたとも言われます。

 

亮賢 という僧侶が命じられて開山しました。

 

護持院 は、 1688年 神田に建てられた寺です。

(もとは、湯島にあった知足院を移転したモノ)

 

隆光 という僧侶が命じられて開山しました。

 

護国寺 も 護持院 も真言宗の寺院です。

 

護持院 は1717年に焼失し、護国寺に吸収されています。

 

寛永寺 と 増上寺 は、徳川氏の菩提寺です。

 

つまり、歴代の将軍の墓がある寺。

 

寛永寺 は、上野忍ヶ岡に 天海 が 1625年 天台宗 の関東における総本山として建立、

 

増上寺 は、現在の東京タワーの近く、芝〔しば〕に建立された 浄土宗の 関東における総本山として建立されました。

 

これらの寺の改築も 綱吉 の代に行われましたよ。

 

他にも、伊勢神宮、石清水八幡宮、高野山などの寺社の修復も行った 綱吉 でした。


 

それから、綱吉は、朝廷行事や都の祭りも復活させます。


 

・ 大嘗祭 の221年ぶり復活

 

・ 賀茂葵祭り の192年ぶりの復活


 

大嘗祭は、天皇が即位して最初の 新嘗祭〔にいなめさい〕 です。

 

収穫に感謝する祭りだ。

 

賀茂葵祭は、都の賀茂神社の祭礼です。

 

このように儀式の充実にも力を注いだ綱吉です。

 

江戸だけではなく、都も大事にした。

 

朝廷を大事にした面があるね。

 

禁裏御領 も加増しています。

 

また 綱吉 は13万両を投じて、日光東照宮の改築も命じています。

 

こうしたことの流れで、出されているのが、 1685年 生類憐みの令 ですよ。

(年代については、1685年だけじゃなく、数年度に渡って、様々な内容を入れ、バージョンアップ? する形で発令されています)

 

綱吉 は、なかなか、跡継ぎ恵まれず、ようやく生まれた 徳松 も5歳で死んだりしていて、それは、前世で殺生を重ねたからだ、、、と 護持院 の 隆光 にそそのかされて、出した 生類憐みの令 と言われますよね。

 

父、家光を6歳の時に亡くし、母、桂昌院にベッタリだった綱吉は、桂昌院から、「私のお気に入り、知足院〔ちそくいん〕(のち護持院)の隆光さまが、こうおっしゃってるの」と言われれば、それを尊重して、 生類憐みの令 を出すに至るワケです。

 

戌年生まれまの綱吉なので、特に、イヌを大事にしろってカンジで、農民が白米など食べれぬこの時代に、幕府が公式に設けた犬小屋では、犬に白米やみそ汁や干した鰯をを与えたり、犬の医者や犬のはり医者を準備させたりして、 犬公方 と呼ばれバカにされますが、綱吉はイヌだけじゃなく、ありとあらゆる生き物を大事にしろと言ったんです。

 

仏教精神からくる、慈悲の精神?

 

極端な博愛主義??

 

蚊を殺して島流し、、、とかの笑い話もあるけれど、当然、人間という生き物も大事にするんだよ。

 

捨て子を禁じています。

 

だから、まぁ、綱吉的には、儒教を一生懸命勉強して、寺を建て、仏教の慈悲も学び、古来からの伝統儀式を復興する中で、綱吉なりの、理想の国を描いたのでしょうね。

 

殺伐とした 戦国時代 からの脱却。

 

まさに、文化的な、 文治政治 の時代。

 

生類憐みの法 は悪名高き法令ですが、こうしたノンビリした法令を出せるような、ある意味、文化的に成熟しつつあった 元禄時代 なんです。

 

実際、華やかな 元禄文化 が栄えるしね。

 

神道の影響もあるようですが、近親者に死者が出た場合、喪に服したり、忌引きをする日数を定めたりした 服忌令〔ぶっきれい〕〈1684〉 も 綱吉 の政策ですが、っぽいよね。

 

戦国時代だったら、そんな人の死にいちいち、喪に服したりしているヒマないでしょ。

 

そういう発想ないよね。

 

やっぱり、平和な時代の象徴的な法令です。

 

また、一つ抑えておいて欲しいんだけど、赤穂浪士の討ち入り、、、

 

この元禄時代だからね。

 

綱吉の時代。

 

1701~1702年。

 

なーんだ、殺伐としてんじゃん!

 

と思うかも知れませんが、最後、どうなった?

 

吉良上野介義央〔きらこうずけのすけよしなか〕 を討ち取った 大石内蔵助良雄〔おおいしくらのすけよしお〕 以下、四十七士、、、取りつぶしになった赤穂藩の 浅野内匠頭長矩〔あさのたくみのかみながのり〕 の家臣たちは、切腹させられていますよね。

 

もう仇討の時代じゃないってことです。

 

ドラマ的には、劇的でね、悪い吉良を討ち取って主君の敵を討ったってことで、ヒーロー的にもてはやされますが、イキナリ、雪の夜、人の家に、押し入って、殺しまくったワケですから、完全な、テロですよね。

 

そんなの、絶対、許されないよ、

 

もう、そういう時代じゃないんだよ、分かれよ、

 

という綱吉の姿勢を、この 赤穂事件 から、感じることが出来ますよね。


さて、学問、教育など、文治政治を展開するため、学校建てたり、寺を造ったり、祭りを復活させたりした 綱吉 ですが、はい、ピンチ。

 

それらの為に、お金を使いすぎて、財政が傾いちゃいました。

 

生類憐みの令 でもね、犬小屋にカネを使いすぎたって話もあります。

 

10万匹の野良犬を養うために、四ッ谷、大久保、中野に、犬を収容する施設をつくって、エサ代が、年間、10億かかったって話もあるからねえ。

 

まぁ、それもまた、極端な例だとして、犬だけじゃないよ。

 

様々な文化事業にお金をかけすぎたんです。

 

確かに、綱吉が、文化活動、教育活動に熱心だったからこそ、元禄文化が花開いたとも言えますよ。

その背景となる庶民の教育熱、知識欲が高かったのも、綱吉の教育政策に影響を受け、各藩の大名たちが、こぞって藩士の通う 藩校 や庶民の通う 手習所を建て、教育のインフラを整備したってことも挙げられます。

 

でも、やっぱ、カネをかけすぎだよね。

 

家康、秀忠、家光の三代が築き上げてきた幕府の財政が、ピンチ、、、、

 

また、秀忠の時代までは、日本では、戦国時代から続く、シルバーラッシュで、銀が、ガンガン産出されていて、その量は、当時の世界1位を誇っていましたが、徐々に、銀の産出は減る傾向にあったのです。

 

当然、銀だけじゃなく、同時に、 佐渡 や 伊豆 の金山からの 金 の産出量も落ちていたワケです。

 

なんとか、幕府の財政を立て直さないと、、、

 

ハイ、

 

こっから先の、江戸幕府の歴史は、ずーっと、財政の立て直しをどうするか、、、

 

という歴史になっていきます。

 

綱吉が信任した 堀田正俊 は、1682年 に 勘定吟味役 をおいて年貢収納の拡大をはかります。

 

また、 綱吉 は老中制度を改正して 勝手掛老中 を新設し、財政・民政問題を専門に当たらせました。

 

そして、1695年 勘定吟味役 の 荻原重秀〔おぎわらしげひで〕 が大胆な提案をしてきました。

 

貨幣改鋳 です。

 

つまり、おカネを作り替えるということ。

 

江戸時代のおカネって何だ?

 

そう、

 

小判とかだよね。

 

小判って何で、出来ているの?

 

そう、 金 だ。

 

ゴールド!

 

でもね、金だけで、小判は作られていたワケじゃない。

 

実は、銀も混じって入れられたんだよ。

 

家康が 1600年 に作った小判、 慶長小判 の金の含有率は、、、

 

84.2%。

 

だから、残りの15.8%が銀なワケだ。

 

で、 勘定吟味役 の 荻原重秀 は、

 

慶長小判を一度集めて、やめにして、金の含有率を低くした 元禄小判 を作りましょう、

 

と提案したんです。

(銀貨は、銀と銅で造っていたので、銅の割合を多くするってこと、、、)

 

どんだけ低い含有率なのか。

 

57.3%です。

 

コレ、小判?

 

的なカンジです。

 

でも、そうすれば、少ない金で、元と同じ量の小判を作れますよね。

 

で、金が余るでしょ。

 

これを 出目〔でめ〕 と言うのですが。

 

これが、500万両 出ますので、幕府の財政対策の助けになるでしょう、、、、

 

という提案です。

 

史料を見ようか。

 

 

〝今重秀が議り申す所は、御料すべて四百万石、歳々に納めらるゝ所の金は凡ソ七十六、七万両余、…中略…

 

夏冬御給金〔おきゅうきん〕の料三十万両余を除く外、余る所は、四十六七万両余也。…中略…

 

国用、凡金百四十万両に余れり。…中略…

 

此他に内裏を造りまいらせるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば、今国財の足らざる所、凡そ、百七八十万両に余れり。…中略…

 

しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。…中略…

 

前代の御時、歳ごとに其出〔そのいづ〕る所の入〔い〕る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造〔あらためつく〕らる。

 

これより此のかた、歳々に収められし所の公利〔こうり〕、総計金凡五百万両…後略…〟



 

さて、史料を読み解いてみよう、、、

 

 

幕領は400万石、

 

毎年納められる金は76、77万両くらい。

 

夏と冬の旗本や御家人たちへの給与30万両を除くと残り46、47万両くらい。

 

で、幕府の支出は、140万両に達している、、、

 

この他に、京都の天皇の居る内裏を造営するのに70~80万両を使わねばならない、、、。

 

なので、今、幕府財政の不足分は、170~180万両あまりに!!

 

しかし!!

 

今、幕府の金蔵にある現金は、わずか37万両!!!

 

前代の時、、、って 綱吉 の時ですが、毎年、歳出が歳入の倍になって国家財政がすでに行き詰まっていたので、元禄8年9月から金銀貨の改鋳スタート。

 

これ以来、毎年、収められた改鋳の差益金( 出目のこと )は、総計およそ、500万両、、、

 


以上です。

 

幕府財政が逼迫しているのに、内裏の造営とか、ある意味では、余計なことにお金を使って、苦しくなっている状況が、読みとれますね。

 

で、貨幣改鋳をして、出目500万両を得た、という話。

 

この史料は、貨幣改鋳をした当時の史料ではなく、次の時代を担った 新井白石 による著作『 折たく柴の木 』に書かれたモノです。

 

新井白石 は、この荻原重秀のやり方に反対で、元の金含有率と同じ 正徳小判 を後に鋳造しています。

 

また、それは、次回やるとして、どーして、貨幣改鋳政策に反対だったのかな。

 

それは、貨幣改鋳によって、出目500万両、、、って、それは良いんですけど、弊害も出ていたからなんですね。

 

実は、この、質の悪い、 元禄小判 が世に出たことにより、物価が、どーなったでしょう。

 

答え、

 

物価騰貴。

 

今風に言えば、インフレだよね。

 

だってさ、君が、お店屋さんだとして、

 

例えば、質の良いお金、1枚で、バナナ1本、売ってたとして、

 

それが、質の悪いお金になった時、同じ、1枚で、バナナ1本、売るかい??

 

いや、そりゃ、ムリでしょ。

 

そんな質の悪い小判なら、2~3枚貰わないと。

 

ね、質の悪いお金を出すと、物価が上がるんだよ。

 

すると、幕府は、どーなる。

 

幕府内での必要な品物、町で買うワケだからね。

 

それが値上がりしていたらどう?

 

結局、幕府財政を、苦しくするワケです。

 

だから、新井白石は、次の時代で、再び、質の良い貨幣 正徳小判 を鋳造しようとしたわけですよ。

 

さて、こんな風に、貨幣改鋳をしたものの、一時的な出目の効果で終わりそうなカンジの中、なんと、思っても見なかった災難に見舞われます。

 

1707年11月、富士山が噴火したのです。

 

富士山のてっぺんからの噴火じゃない。

 

中腹から、どかーんって。

 

今も、その噴火の跡として、富士山の中腹にあいている穴を見ることが出来ます。

 

富士山登山口の須走村〔すばしりむら〕では、一村が全滅する惨劇が、、、

 

周辺の村々には、30センチの火山灰が降って、農業は、壊滅的な打撃を受けましたね。

 

綱吉は、復興のために、

 

今の静岡である 駿府、

 

今の神奈川である 相模 に100石につき2両の 諸国高役金 を出すように命じました。

 

これで、49万両集めましたが、幕府財政をまた、苦しくさせることになりました。

 

ということで、カネのかかる文治政治、前半戦終了。

 

次回、後半です。

 


[ 参考文献 ]

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