[ 絵画 ]


じゃあ、絵画にいこう。


安土桃山時代 の絵画ね。


モチロン、まずはこの人。


狩野永徳 。


そして養子で門人の 狩野山楽 。


この 狩野永徳 ・ 狩野山楽 の2人だな。


狩野派 の祖は分かってるよね。


狩野正信 です。


室町時代、幕府の御用絵師でした。


そして、その子、 狩野元信 も御用絵師。


そして、 狩野元信 の孫が 狩野永徳 ね。


だから、室町時代以降の、


狩野正信


狩野元信


狩野永徳


の流れを抑えましょう。


狩野正信 の代表作が 『 周茂叔愛蓮図〔しゅうもしゅくあいれんず〕 』 。


狩野元信 の代表作が 『 大仙院花鳥図 』 だね。


そして、狩野永徳 の代表作が


『 洛中洛外図屏風 』


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1574年 信長が 上杉謙信 に送り、上洛を、つまり京都に来ることを促したと言われます。


京都の町の様子だよ。


『 唐獅子図屏風 』


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『 檜図屏風 』


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ですね。


この作品群を見れば、分かりますけど、構図が大胆だよね~


これは、襖や屏風に描かれた 障壁画 です。


金箔地にカラフルな色で彩色しているので 濃絵〔だみえ〕 と呼ばれます。


金碧画 とも言う。


キラキラだ!


とにかく、デカイよ~


唐獅子図屏風 が、縦2.2m×横4.5m。


檜図屏風 が、縦1.7m×横4.6m。


これだけ大きい画面いっぱいに、2匹の獅子だけ描く、1本の檜の幹を描く。


ダイナミックな構図でしょう。


だから、天下統一を目指していく、そして、周囲の家臣を従わせていくために、エネルギッシュに振る舞って、いかねばならない 信長 や 秀吉 に好まれたんですね。


室町時代の絵画の主力は 水墨画 でした。


そして、描かれる内容は、仏教色の濃いモノ。


高僧にまつわる話とか、仏教の訓話など、そういうのを絵にする。


でも、さっきから、説明している通り、この安土桃山時代は、信長による仏教弾圧に象徴されるように、仏教勢力が抑圧されますから、絵画からも仏教色は、薄められていくんです。


で、こういう周囲を驚かすような、元気な絵になった。


それを描くことを得意とした 狩野永徳 のところには、たくさんの注文が殺到したのです。


安土城


大坂城


聚楽第


後陽成天皇の内裏、、、、などに 障壁画 を描きますよ。


狩野永徳 は、こうした注文に応えるために 障壁画 の製作の分業体制を整え、門人たちを、上手に使います。


それでも 狩野永徳 は、多忙を極め、1590年に、48歳の若さで過労死? しますが、彼が組織した門人、門弟集団は、巨大な 狩野派 という画家集団を形成することになり、それは、安土桃山時代以降、江戸時代を経て、明治初期まで、日本の画壇に400年以上に渡って、君臨することになるのです。


じゃあ、門人たちの作品を。


さっき、述べたように、まずは、 狩野山楽 ね。


狩野永徳 と 狩野山楽 はセットにしておく。


主要な門弟ですから。


山楽 は、 狩野永徳 の実子ではありません。


養子ね。


かつては、信長に滅ぼされた 浅井長政 を主としていた人物です。


では、 狩野山楽 の作品。


『 松鷹〔しょうよう〕図 』


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『 牡丹〔ぼたん〕図 』


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『 南蛮屏風 』


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南蛮船が入港する様子だ。


これも、 狩野山楽 が描いたと伝えられます。


ポルトガル人やスペイン人を題材とした 南蛮屏風 は 狩野山楽 に限らず、多くの狩野派の画家が手がけています。


そうそう、南蛮屏風は、外国人が手がけているんじゃないか、と思っている人、良く居ますが、日本人画家による製作ですので、お間違えないように。


さて、他の 狩野派 さんたち。


狩野吉信


『 職人尽図屏風 』



狩野長信

『 花下遊楽〔かかゆうらく〕図屏風 』


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狩野長信 は、狩野永徳の末の弟ね。



狩野内膳


『 豊国祭礼〔ほうこくさいれい〕図屏風 』


豊国神社 は、秀吉を祭った京都の神社。


秀吉の七回忌の様子を描きます。


狩野内膳は、もともと 荒木村重 の家臣の子。


(荒木村重は、信長の家臣だったが、裏切り、攻められることに、、、)



狩野秀頼


『 高雄観楓〔たかおかんぷう〕図屏風 』


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高雄は、京都の右京区、西側。


すごい北の山奥です。


そこで紅葉に遊ぶ人々を描きます。


ね、本当に、仏教色がないでしょ。


ふつうの人々の姿を描いている。


風俗画 って言うよ。


狩野秀頼 は、 狩野元信 の次男です。


さて、画家は、狩野派だけじゃないよ。


長谷川等伯〔とうはく〕


『 智積院〔ちしゃくいん〕襖絵 』


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京都東山の祥雲寺に描かれました。


のちに、智積院と呼ばれる建物に描いたんだね。


秀吉に命じられ、子の 長谷川久蔵〔きゅうぞう〕 と共に描きました。


他にも、


『 松林図〔しょうりんず〕屏風 』


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で、 狩野派 がメインの時代だけど、この能登出身の 長谷川等伯 は、後世にも評価される画家でしたよ。


日本の過去の画家の人気投票で、狩野派を抑えて、どうどう1位になっています。


雪舟や宋の画風を学び、水墨画に真面目に精進し、今では、狩野派を越える評価を得ている人です。


利休の肖像画 も 長谷川等伯 さんの作品ね。


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利休没後に、 長谷川等伯 が描いたモノと伝えられます。


そして、狩野派以外、もう一人。


海北友松〔かいほうゆうしょう〕


読み方注意!


かいほう


ですよ。


狩野山楽と同様、近江の出身。


やはり、滅亡した近江 浅井長政 の家臣だった海北家の五男と言われます。


なので、 狩野山楽 と 海北友松 は、 近江 出身というセットだ。


さて、 海北友松 。


戦国の武人出身らしい、気合いの入った激しい筆遣いが特徴。


代表作は、


『 琴棋書画〔きんきしょが〕図』


『 山水図屏風 』


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『 花卉〔かき〕図屏風 』

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です。



[ 茶道 ]


では、 茶道 です。


さっき、絵画で、狩野永徳のところで、室町文化からの流れを大事にね、ということで、


〈 室町文化 〉

狩野正信


狩野元信


〈 安土桃山文化 〉

狩野永徳



という風に、流れを見せましたが、お茶も一緒です。



〈 室町文化 〉

村田珠光


武野紹鷗〔じょうおう〕


〈 安土桃山文化 〉


千利休



という流れです。


お茶は、奈良時代に伝わって、鎌倉時代には、 臨済宗 の 栄西 が 『 喫茶養生記 』 を著し、3代将軍 源実朝 にお茶を勧めたように、薬として珍重されました。


しかし、室町時代になり、広く、庶民にも、普通に飲まれるようになったんだね。


皆が飲むようになるので、値段も下がり、ますます、広まります。


で、室町時代は、“ 茶寄合 ”というものが、武家にも庶民にも、多くの人の間で楽しまれました。


そこでは、ただ、お茶を飲んで話をする、、、というだけじゃなく、“ 闘茶 ”というレクリエーションも行われたんだね。


10杯のお茶を出し、それが、どこ産のお茶っ葉を使っているか、当てっこするゲームです。


でね、それが、室町時代、足利義政の頃、東山文化と言いますが、その頃に、簡素な茶室に、お客を迎え入れ、お茶を点てて、もてなす、、、その一連の動作が芸術の域にまで高められ、“茶の湯”“茶道”が生まれました。


で、簡素で、寂れた所で、お茶のもてなしをし、精神的な深さを追求する


村田珠光


武野紹鷗


千利休


の茶の湯は、 侘茶〔わびちゃ〕 と呼ばれました。


千利休 が 侘茶 の大成者です。


で、気づいたかも知れませんが、実は、この 侘茶 、すごく 安土桃山文化 っぽくないよね。


分かる?


だって、簡素で、閑寂で、質素で、侘びしいんだよ。


豪壮華麗な安土桃山文化とは、似ても似つかない芸術じゃない?


でもさ、変な話、僕は、信長・秀吉の時代、華やかで、賑やかになればなるほど、 侘茶 は、追究され、深まったと思うんだよね。


つまりさ、そういうガチャガチャした時代だからこそ、反動的に、静けさを求める部分が生まれたんだろうなと。


お分かりの通り、侘茶の簡素さ、閑寂さの追究は、禅の精神です。


戦国大名たちの質実剛健さと、共通する部分はありますよね。


室町文化、特に、東山文化は、禅の落ち着いた精神性追求に席巻された文化でした。


水墨画も、能も、連歌も、華道も、茶道も、


けれども、信長の仏教弾圧の流れの中で、水墨画は、文化の中心から外れていき、障壁画、濃絵と言ったきらびやかな狩野派の絵画が主となって行きます。


そんな中にあって、茶道は、簡素さ、閑寂さ、そうした中に美を見出す精神性の高い文化として、安土桃山文化においても、深められていったのですね。


モチロン、嫌われたりもしましたよ。


地味なお茶はイヤって。


有名なのは、 千利休 と 秀吉 の対立だよね。


千利休 が、京都に、僅か二畳のスペースの 妙喜庵〔みょうきあん〕という寺に作った 待庵〔たいあん〕 という茶室を極上のモノとするのに対して、 秀吉 は、組み立て式で、ポータブルな 黄金の茶室 を作らせるくらいの腕前ですからね。


秀吉のような豪華な茶、ゼイタクな茶は、侘茶に対して、“ 大名茶 ”などと呼ばれましたよ。


この対立は、最後、利休が切腹させられる悲劇を招きます。


京都の 大徳寺 が修築費用の一部を利休が出してくれたのを感謝して、山門に利休の木像を作ったことが、秀吉の怒りを買ったとも、


利休が、安っちい茶器に、法外な値を付け、利益を上げていたとも、


政治的な影響力を持ちすぎて、石田三成ら他の家臣から疎まれたとも、


色んな説が言われますが、とにかく、己の美的センスを貫いた 利休 は、そのために、死を選ばざるを得なかった、、、ように思えます。


ちなみに、 秀吉 が、1587年に、大規模に催した茶会は、 北野大茶湯〔きたのおおちゃのゆ〕 です。


大茶会〔おおちゃのえ〕 とも。


京都の 北野神社 で開催。


お茶碗ひとつ、持ってくれば、身分を問わず誰でも参加できる茶会でした。


すごいよね。


誰でも参加できるんだ。


1000人を越える参加者があったと言われます。


身分カンケーなく、、、、というのは、禅の精神から来ていますよ。


ただ、この茶会に参加しなかった者は、二度と、お茶を点てることを禁止する!


という秀吉の専制君主的な面もある 北野大茶湯 でした。


あと、お茶については、


千利休(千宗易〔そうえき〕)


今井宗久〔そうきゅぅ〕


津田宗及〔そうぎゅう〕


の3人を 三宗匠 と言うよ、とか。


他にも、


信長の弟で、茶室 如庵〔じょあん〕 を 尾張国(愛知県犬山市) に建てた 織田有楽斎〔うらくさい〕(長益) も有名な茶人です。


のち、徳川氏から屋敷を与えられ、その地が、 有楽町 と呼ばれるようになったことは有名です。


有楽町 は、信長の弟の名前なんだ。


他にも、


江戸幕府の時代になって 大坂城 、伏見城、名古屋城など、城造りに活躍した 小堀遠州〔こぼりえんしゅう〕 とか、


千利休の高弟だったけど、最後は、大阪の陣で、末弟が大坂方にいたたため自刃させられた 古田織部〔おりべ〕 などが、有名な茶人ですね。


千利休


今井宗久


津田宗及


織田有楽斎


小堀遠州


古田織部


この6人を抑えておきましょう。



〔 歌舞伎 〕


安土桃山時代に始まった日本の伝統芸能として、 歌舞伎 は外せませんね。


歌舞伎は、「かぶく」という言葉から来ています。


「傾く」と書いて「かぶく」。


異様な格好のこと。


室町時代には、「ばさら」という言葉もありましたね。


佐々木導誉〔どうよ〕 などが、室町時代の「ばさら大名」でしたよね。


奇抜な格好だ。


で、この安土桃山時代、


男性なのに女性の格好したり、


女性なのに、男性の格好したり、


馬鹿みたいに長い刀を持ったり、


派手なカラフルな着物を着たり。


歌舞伎は、そういった格好で、踊ることで、ストーリーを進めていく演劇の一種です。


念仏踊り がベースで、


それに、派手な格好で踊る 風流踊り がミックスされ、生まれた 歌舞伎 です。


始めたのは、 出雲阿国〔いずものおくに〕 。


女の子です。


出雲大社の巫女でしたが、その修繕費用などを集めるため、各地を踊る興行を行います。


今風に言えば、全国ツアー?


奈良の 春日大社 や


京都の 北野神社 で、踊った時に、評判になったということです。


さて 出雲阿国 が始めた 阿国歌舞伎 は、この後、江戸時代になって


女性が踊る 女歌舞伎 、


若い少年が踊る 若衆歌舞伎 、


前髪をきった野郎頭の 野郎歌舞伎 、と流れていきます。


その辺りは、また江戸時代の文化で。



[ 人形浄瑠璃 ]


歌舞伎と並んで、この時代、生まれた日本の伝統芸能と言えば 人形浄瑠璃 ね。


浄瑠璃節〔ぶし〕 、 文楽〔ぶんらく〕 とも呼ばれます。


よーするに、人形劇だな。


三味線〔しゃみせん〕 という楽器を伴奏にして、歌を歌い、それに合わせて人形を動かして、ストーリーを展開させます。


三味線 は、もともとは、中国の楽器で、琉球を経て、日本に伝わります。


もともと、三線〔さんしん〕 という楽器で、日本に入って来た頃は、 蛇皮線〔じゃびせん〕 と呼ばれていました。


蛇の皮を胴部に張って、音を出していましたからね。


でも、日本人、弦を奏でるのに、琵琶のバチでかき鳴らしたため、アッサリ破壊。


で、猫の皮を使って修理。


ニャー


こうして生まれたのが、 三味線 でした。


歌舞伎同様、江戸時代になって、 浄瑠璃 は、さらに流行ります。


江戸時代には 竹本義太夫 などが沢山、名作を生みだして行きますが、その前段階として、安土桃山時代につくられ、演じられた作品は、 古浄瑠璃 と呼ばれました。



[ 歌謡 ]


歌謡曲です。


今も、西野カナとか、浜崎なんとかとか、歌謡曲って、ようするに、流行歌だよね。


で、室町時代の流行歌は、 小歌〔こうた〕 と言いましたね。


『 閑吟集 』というベスト版もリリースされるほど、人々に口ずさまれました。


で、安土桃山時代、小歌を作った名人に 高三隆達〔たかさぶりゅうたつ〕 がいます。


恋の歌などを多くつくり、もてはやされました。


彼のメロディーは、 隆達節〔りゅうたつぶし〕 、 隆達小歌 と呼ばれましたよ。



[ その他、庶民文化 ]


囲碁の名人 本因坊算砂〔ほんいんぼうさんさ〕 、


将棋の名人 大橋宗桂〔おおはしそうけい〕 を抑えておきましょう。


大橋宗桂 は、もともと、宗慶と名乗っていましたが、桂馬の使い方が上手で、大橋宗“桂”となったそうです。


あと、衣服ですが、かつて、貴族たちが、下着として用いていた 小袖〔こそで〕 を一般に多くの人が着るようになったことを抑えてね。


小袖は、そでをすぼめた服です。


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これに、 袴〔はかま〕 をはいたり、

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肩衣〔かたぎぬ〕 を着たりしたんですね。


こういうスタイルを 裃〔かみしも〕 と言います。


女性は、打掛〔うちかけ〕 をはおりましたよ。


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また、男女ともに、髪を結うようになります。


結髪 と言う。


そして、食事が、朝夕の2回から、3回になったのも、この安土桃山の時代の頃。


また、都市では、二階建てで瓦屋根の家も、見られるようになってきました。



〔 印刷 〕


安土桃山文化の印刷は、2バージョン抑えて。


秀吉が朝鮮出兵で、朝鮮から持ち帰った 木製活字 による印刷である 慶長勅版 と


イエズス会宣教師 ヴァリニャーニ が伝えた 金属活字 による印刷である キリシタン版 があります。


慶長勅版 は、後陽成天皇の命によるモノで、 慶長版本 とも、 古活字本 とも呼ばれるよ。


キリシタン版 は 天草版 とも呼ばれ、数々の書物が印刷されました。


ポルトガル系ローマ字で書かれたよ。


『 天草版平家物語 』


『 天草版伊曽保〔いそほ〕物語 』


『 日葡〔にっぽ〕辞書 』


『 どちりな=きりしたん 』


『 ぎゃ=ど=ぺかどる 』


が有名。


『 天草版伊曽保物語 』 は、イソップ物語ね。


『 日葡辞書 』 は、宣教師のための日本語の辞書です。


『 どちりな=きりしたん』 は、宣教師の教義問答書。


『 ぎゃ=ど=ぺかどる 』 は、キリスト教の教訓書です。


ヴァリニャーニは、1579年、イエズス会宣教師として来日。


1582年、天正遣欧使節をプロデュースして、全部は回りませんでしたが、伊東マンショらとともに、日本を出航。


1590年に、天正遣欧使節とともに帰国。


このときに、宣教師たちの日本語テキストを日本で印刷したい、、、と西洋活字印刷を持ち込んだようです。


安土桃山文化 は、南蛮色が強いです。


江戸時代、鎖国してしまうので、蘭学など限られた西洋文化の摂取になってしまいますが、この安土桃山文化の頃に、日本に入ってきてた西洋の文物は、今でも、日本人が親しんでいるモノが少なくありません。


ポルトガル語かスペイン語が語源だね。


例えば以下。


カステラ


カッパ


カルタ


コンペイトウ


シャボン


ビードロ


パン


テンプラ


ラシャ


ジュバン


タバコ、、、、など、枚挙に暇がありません。


そうそう、喫煙の習慣が入ってきたのも、この安土桃山時代だからね。


英語では、シガー、シガレットと言いますが、今でも日本では、“ タバコ ”というポルトガル語を使っているのです。


以上、 安土桃山文化 でした。



次回は、江戸時代 、、、と言いたい所なのですが、せっかくの冬休みなので、またまたエクステンドバージョンを考えています。


センターまで1ヶ月を切ったし、センターの予想でもしてみようかな、と思いつつ、


または、2月に、岡山に研修旅行に出掛けるから、その事前勉強の一端でも、紹介してみようか、


ヒマにまかせて、色んなことを企んでいるなり。



[ 参考文献 ]

石井進ほか『改訂版 詳説日本史B』山川出版社〈2010〉
全国歴史教育研究協議会編『改訂版 日本史B用語集』山川出版社〈2009〉
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鳥海靖編『詳説日本史研究』山川出版社〈1998〉
詳説日本史図録編集委員会編『詳説日本史図録』山川出版社〈2008〉
坂本賞三ほか監修『詳録新日本史史料集成』第一学習社〈1991〉
朝尾直弘ほか編『新版 日本史事典』角川書店〈1997〉
京大日本史事典編纂会編『新編 日本史事典』東京創元社〈1990〉
菅野祐孝『菅野の日本史B講義録2 中世』代々木ライブラリー〈2000〉
石川晶康『石川日本史B講義の実況中継5』語学春秋社〈2006〉
池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社〈2002〉
高橋慎一朗『Jr.日本の歴史3 武士の世の幕あけ』小学館〈2010〉
鳥海靖監修『天下統一に向けて』学校図書〈1990〉
永原慶二ほか監修『増補ジュニア版 日本の歴史2 武士の社会』読売新聞社〈1987〉
古川清行『読む日本の歴史5 戦国の世と統一への動き』あすなろ書房〈2009〉
古川清行『日本の歴史8 天下統一への道』小峰書店〈1998〉
河合敦監修『新週刊マンガ日本史22 千利休』朝日新聞出版〈2011〉
河合敦監修『新週刊マンガ日本史27 出雲阿国』朝日新聞出版〈2011〉
帝国書院編集部『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-最新版』帝国書院〈1999〉