「 笑いと機微と 」


機微〔きび〕 って何?


『広辞林』によれば、カンタンには知りにくい人の心の動き、、、だそうな。


人の心なんて、分からないけど、その微妙な動きなんて、もっと分からない、、、。


でも、そこに、食い込んで行くことが、人間の感性を豊かにするんじゃないかな。


なんか、ムズカシイ言い方をしているけど、それは、「笑い」にも通じる所があるんじゃないかなと思うんだよね。


こんな話がある。


信長・秀吉に仕えた 千利休 が、若い頃、茶道を学ぶため、弟子入りをしようと、ある茶人の所に行った時、その茶人から、


「家の前を掃除しておけ」


と言われます。


しかし、そこは、すでに、掃き清められて、チリ一つ落ちていません。


実は、この茶人、先に、召使いを使って、掃除させておいて、利休がどう出るか、試したのです。


利休はどうしたか。


「掃除するところはありませーん、掃除終わってまーす」


って言ったか。


イエイエ。


傍らの木をユサユサ揺すって、葉っぱを落としたのですね。


何よごしてんの?!


違います。


こうすることで、より良くしたのです。


つまり、チリ一つ落ちていないピカピカの門前よりも、多少、落ち葉が蒔かれていた方が、何とも良い風情が出て、出入りする人に、心の安らぎを与えたんだね。


この時の茶人が、利休の茶の師匠となる 武野紹鴎 です。


また、こんな話も。


利休 がある茶人に招かれて、出掛けると、茶室の前に、穴が掘ってある、、、。


何コレ?


落ちろって言うの?


で、利休はどうしたか。


落ちました。


落ちて、泥だらけになって、茶室に入ろうとすると、その茶人が呼び止めて、風呂に案内し、用意していた着替えを着せてくれた、、、。


利休 は、来る前よりサッパリした状態で、茶会に臨むことが出来た、、、。


なんだか、一休さんのとんちのようです。


自分の心のレベルがどんなか試してきた相手に、一流のセンスで返しを打っていく。


実にオカシナもてなし方にも、しっかり、その真意を読みとって、相応しい行動を取っていく。


バカバカしい話と思うかも知れませんが、これが、当時の一流の風流人の“ 心の機微 ”だったのですね。


表面だけではなく、その底に隠された真意を見定め、上手に、対応していく。


こんな余裕、今の僕たちも持ちたいよね。


今日は、そんな利休の活躍した安土桃山文化です。


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じゃあ、 桃山文化 見ていこう。


いつの時代か、分かるね。


信長 と 秀吉 の頃の文化だよ。


安土桃山時代 の文化だ。


この名称は、


信長 が造営した 安土城 と


秀吉 が造営した 伏見城 跡が 桃山 と呼ばれたことに因んでいます。


安土城 は、近江国 、今の滋賀県、琵琶湖の東岸です。


伏見城 は、山城国 、今の京都南部です。


伏見城 は、秀吉が、隠居後の住まいとして造営し、晩年を過ごした、邸宅を兼ねた城郭だ。


後に、家康が居館として使いますが、1619年、廃城となり、その跡地に桃が沢山植えられたことから、この地域が、桃山と呼ばれるようになったとのこと。


まぁ、


安土城 の 信長


伏見城 の 秀吉


彼らの時代の文化なので、安土桃山文化、


または、桃山文化 と言うのです。



〈 鎌倉 〉鎌倉文化


〈 室町 〉南北朝期の文化

     ↓

北山文化

     ↓

東山文化

     ↓

〈 戦国 〉天文文化

     ↓

〈 織豊 〉安土・桃山文化



という流れですね。


さて、じゃあ、安土桃山文化の特徴は、、、と言うと説明できるかな。


言うね。



“ 現実的で ”


“ 力感あふれる ”


“ 国際色豊かで ”


“ 多彩で、新鮮味のある ”...文化です。


長いかな。


いちいち説明できるようにね。


どーして、安土桃山文化は、現実的なの??


それは、仏教色が弱まったからだよ。


信長の比叡山焼打ちに代表されるように、織豊政権時代に、仏教勢力は、衰退します。


それまでは、すごい力を持っていたよね。


今の僕たちじゃあ、想像が付かないくらいの力を持っていたんだよ。


平安時代、鎌倉時代、室町時代、、、とね、仏教は、一政治勢力でした。


しかし、仏を信じぬ信長は、仏教を弾圧します。


一向一揆( 浄土真宗 )との戦いにも、ねばり強くあたり、最終的には、勝利をおさめていますよね。


室町幕府を滅ぼしたことで、室町幕府に保護されて君臨してきた 臨済宗 の勢力も弱まります。


これにより、日本の仏教色が弱まるのです。


これまで、仏教により、来世に救いを求める感覚が強かったです、日本人は。


でも、仏教色が弱まったことにより、現世の充実を求めるようになる。


現実的になるということです。


信長が仏教を弾圧して、キリスト教を保護したから、この時代の文化は、来世中心の世界観から、現世中心の世界観にシフトしたんだ、、、、という言い方がありますが、別に、キリスト教が、来世を否定しているわけではありません。


キリスト教だって、来世を重視しています。


信長が、キリスト教を保護することで、仏教勢力の力を削がれたんだ、という意味です。


キリスト教は、仏教勢力の力を削ぐことに使われた、ということで、これにより、この時代の文化が、仏教的世界観、来世中心主義が薄まり、現実主義的傾向が強くなったよ、という話なんだね。


また、現実をより良くしようと自治的活動を展開した、京都、堺、博多などの自治都市のの商人、 町衆 が文化の担い手になることも、文化に現実味を強めることになります。


現実主義的な傾向の強いのこの安土桃山文化の時代を“ 日本のルネサンス ”、


つまり、人間中心主義、なんて格好良く言うのも、その現れです。


で、現実主義的な傾向、、、、って文化にどう現れるか。


それは、これから、中身を見ていけば分かるけど、


例えば、絵画で言えば、 風俗画 とかね。


つまり、美しい風景だけじゃなく、人間の生活を描いた作品が多く作られ、もてはやされるようになることも、現実主義の一端だ。


歌舞伎 や 浄瑠璃は、人間の喜怒哀楽、様々な感情を表現する芸術だよね。


歌舞伎も浄瑠璃も、この 安土桃山時代 に、日本の伝統文化として、スタートしていきますが、こんな風に、現実的な 安土桃山文化 の特徴が、よく出ているワケです。


次。


“ 力強さ ”


“ 力感あふれる ”桃山文化です。


やっぱ、戦国の世を終わらせる富と権力を集中させた巨大統一権力が登場しましたからね。


信長 や 秀吉 。


彼らが文化の中心に居ますから、当然、文化も、力強い、力感あふれる装いになるでしょう。


また、貿易により巨利を得た自治都市の豪商たちも文化の担い手となったため、その豪華さ、壮大さに拍車をかけました。


また“ 新鮮味 ”あふれるのは、やはり、旧勢力にとらわれない 信長 や 秀吉 だからですよね。


それから、 安土桃山文化 が、“ 多彩 ”なのは、色んな人が文化の担い手になったからですよ。


新興の武士


自治都市の商人 などが、文化の担い手になりますからね。


公家や武家など、一定の範囲の人だけが、文化をやっているんじゃないんです。


また、ポルトガル、イスパニア(スペイン) がやって来て、南蛮文化、という要素も入り、この時代文化を多彩に、国際色豊かにしましたよね。


繰り返します。


“ 現実的で ”


“ 力感あふれる ”


“ 国際色豊かで ”


“ 多彩で、新鮮味のある ”...文化。


これが、 安土桃山文化 なんです。


じゃあ、具体的に、中身を見よう。



[ 城郭建築 ]


安土桃山文化、と言えば、何と言っても、城郭建築でしょ。


ここが、文化の発信基地、と言っても良い。


これも、サラッと言っているけど、重要な意味をもつ。


だって、これまで、文化の中心は、寺だったでしょ。


それが、城になった、、、。


仏教は、信長に抑制されたからね。


そう考えると、やっぱり、信長の影響力ってすごいよね。


で、これまで、城と言えば、闘うためのモノだったね。


それは、アタリマエですが。


敵から攻められにくい、山の上や台地の上などに築城。


山城 、 平山城 と言います。


けど、天下統一が進んでいくと、城は、戦争のするためのモノ、軍事施設としてだけではなく、大名の 居館 、 政庁 としての役割が大きくなります。


つまり、住む場所、治をする場所、ってことです。


であれば、山の上とかは、不便だよねぇ。


で、平地に建てる 平城〔ひらじろ〕 になっていくワケです。


とは言え、やっぱり、周囲の町衆に、家臣に、威厳を見せねばなりません。


だから、五層七重、、、の高層ビル、じゃなくて、“ 高層のお城 ”が築かれるワケです。


信長の 安土城 なんて、五層七重で、さらに、最上部には、天守閣 が設けられましたよね。


秀吉 の 大坂城 も 天守閣 を持ちます。


また、 平城 と言っても、戦争に対応できるように、 土塁 や 濠 で囲み、 郭〔くるわ〕 と呼ばれる外壁、防御壁もしっかり備えていますよ。


そして、この安土桃山時代の城の最大の特徴は、城の内部の飾り、内装です。


畳を敷き詰め、室町時代、東山文化で生まれた、 書院造 の形式が城内に持ち込まれます。


なので、この時代の城郭建築を“ 大書院造 ”と言うほどです。


書院造 と言えば、 襖〔ふすま〕 ですね。


戦国大名は、部屋を区切るパーテーションの役割をもった 襖 や 屏風に、大画面の豪華な絵を施します。


障壁画 と言うよ。


とにかく、派手!


ど派手!!


金箔を張り詰めた上に青や緑など、岩絵具と呼ばれた様々な顔料で、カラフルに彩色していきます。


濃いね~


なので、こうした 障壁画 は、 濃絵〔だみえ〕 とも呼ばれます。


また、鴨居と天井の間の部分に、彫刻を施します。


欄間〔らんま〕 彫刻 って言うよ。


どの辺りか、イメージ沸くよね。


鴨居って、襖とか、障子とか、ガラガラとあけた時、上の面で接している横に長い柱ね。


そこから、天井までのスペースに彫刻を施したってこと。


向こう側が見えるように、彫り込んだので、 透し彫〔すかしぼり〕 とも言うね。


こんな風に、豪華絢爛にしたのは、やっぱり、威厳を見せるためだよ。


家臣が、城内に入った時、驚くように、


ああ、この殿であれば、付いていって間違いないな、と思わせるように。


だから、絵画も彫刻も、とても豪壮にデザインされたのです。


飾り金具 や 蒔絵〔まきえ〕 を施した家具調度品も沢山、置かれました。


蒔絵 って言うのは、漆で、文様を描き、その上から、金粉や銀粉をまきつけ、光沢を出す贅沢な技法のデザインです。


この時代の名品としては、 高台〔こうだい〕寺蒔絵 を抑えておきましょう。



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高台寺 は京都、東山の寺ね。


秀吉の妻、北政所〔きたのまんどころ〕( ねね )が、秀吉の冥福を祈って建立した寺です。


蒔絵を沢山、所蔵していて、“ 蒔絵の寺 ”なんて、呼ばれる程です。



さぁ、じゃあ、具体的に、城を見ていこうか。


信長 の 安土城 。


秀吉 の 大坂城 。


コレらは良いとして。


今、バスガイドが、必ず言えなきゃいけない国宝四城〔こくほうしじょう〕ってあるね。


皆、言えるかな。



姫路城


彦根城


犬山城


松本城 


だね。



姫路城 は、兵庫県だ。


1993年 ユネスコ の 世界遺産 にもなっているよね。


僕は、2007年に、行ってきましたよ。


白鷺〔しらさぎ〕城 のニックネームの通り、実に、美しい城でした。


また、周囲に大きなビルを建てることを抑制しているためか、ものすごい迫力で、天守閣からの眺めは、まさに、下々を見下ろすような威風堂々としたカンジがありましたよ。


確かに、一度、見ておくべき、日本の文化財だと思いました。


最初、 秀吉 の居城で、後に関ヶ原の戦いの後、 池田輝政 が改築し、1609年に完成した城です。


航空写真を見ると、分かるように、大天守閣の他に、離れて、3つの小天守閣があります。


このように、複数の天守閣が、離れながらも、連結してなる構成を 連立天守閣 と言います。


長野県の 松本城 のように、天守閣の脇に小天守や櫓〔やぐら〕をもつ形態は、 複合連結式 などと言いますね。


あとは、愛知県の 犬山城 が 1537年頃という日本最古の天守閣をもつ、、、ということくらいを抑えておきましょう。


さて、国宝四城の


姫路城 彦根城 犬山城 松本城 の他には、


聚楽第 と 伏見城 を抑えましょう。


これらは、 秀吉 の城ね。


聚楽第 は、秀吉が今で言う、首相官邸のようにして使った 城郭風 の 邸宅 です。


後陽成天皇にも行幸、、、つまり来て貰い、諸大名を集めて、忠誠を誓わせたのも 聚楽第 です。


秀吉 は、この 聚楽第 を甥の 秀次 に譲りますが、のちに、1595年、 秀次 を 高野山 に追い、自害させると、この 聚楽第 も取り壊されました。


現在、 大徳寺唐門 、


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西本願寺飛雲閣 に、その一部が移築されて残る、、、と言われます。
(これは確証がないのですが)



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いろんな屋根のカタチが特徴的な、三階建ての 西本願寺飛雲閣 です。



そして、 伏見城 。


京都の南。


これは、秀吉が、隠居した際に、住居した城です。


こちらも、 聚楽第 同様、現在に、残りません。


秀吉 は、この城で死去。


その後、家康がしばらく使いますが、その死後、取り壊されています。


伏見城の一部は、 都久夫須麻〔つくぶすま〕神社 の 本殿 ・ 唐門 、


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都久夫須麻神社 は、琵琶湖の 竹生〔ちくぶ〕島 にある神社ね。


また、 西本願寺の書院( 鴻の間 ) にも  伏見城 の一部は移築、再利用されていますよ。
(ただし、近年、西本願寺の書院は、江戸時代の新築であるという説が有力に)


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西本願寺の書院には、さっき説明した 欄間彫刻 が見られます。


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リスとブドウを 透彫り してあるの、、、分かるかな。


こちらは、鳥が 透彫り してある。


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京都の 二条城 を建設する時にも、この伏見城の部材の一部が使われたとも言われますね。


二条城 の全景

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二条城二の丸御殿( 大広間一の間 )


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徳川慶喜が、のちに、大政奉還 をしたことでも有名。



最後に、付け足しですが、 醍醐寺 のお庭を見よう。


醍醐寺三法院庭園 。


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京都の南部 伏見 にあるよ。


室町時代の お庭 って 枯山水 だったり、情緒あふれる、でも、地味なカンジでしたが、この 醍醐寺三宝院庭園 は、 安土桃山文化 らしく、とても豪壮。


秀吉 が 醍醐寺 で花見を行うため、自ら設計し、造園させたと言われます。