この前、職場の若い人に、「面白いですよ」と、勧められて読んだ。

 

万城目学『プリンセス・トヨトミ』。

 

映画にもなったんだよね。

 

不覚にも知りませんでしたが。

内容は、実に、奇想天外なストーリーでした。

 

豊臣家が滅亡した後、実は、豊臣秀頼の子孫が生きていて、江戸時代、そして明治・大正・昭和・平成と、その血筋を代々、大阪の民が、秘密裏に、守ってきたという話。

 

そして、実は、大阪地域は、「大阪国」という独立した国家だと、明治維新の時の太政官政府と秘密条約をかわしたことで認められている、、、。

 

普段、大阪人は、ふつーに暮らしているけれど、その豊臣の血筋を引いた末裔が危機に陥った時には、皆が、一斉に、立ち上がる、、、という、“ 掟 ”を、父から息子へ、代々受け継いで今に至っている。

 

小説は、現在の大阪が舞台。

 

豊臣家血筋の女の子が居る。

 

そして、その子は、自分がそうした存在であることを知らない。

 

周囲の大人は、それを知っていて、彼女のことは、それとなく、守ろうと心掛けている。

 

けれども、ある日、会計検査院が「大阪国」の存在に気づき、会計検査院の策略によって、その女の子が拘束されたという誤解が生じたことで、大阪中の男たち何十万人が、大阪府庁に居る会計検査院のスタッフを取り囲むように大阪城公園に集まったため、その間、大阪における企業活動、公益活動、すべてが止まる、、、大阪が全停止する、、、、という話。

 

豊臣家血筋の者に危機が訪れた時には、皆、大坂城に集合や、、、、ということを大阪中の男たちに伝達する際に使われたのが “ ひょうたん ” なんだよね。

 

情報を聞いた者は、あらかじめ持っていた “ ひょうたん ” を家の前に置く。

 

それを見て気が付いた者は、また、自分の家の前に、 “ ひょうたん ” を置く、、、。

 

こうして、大坂中が、 “ ひょうたん ” で満ちた時、、、、

 

それは、大阪城集合、豊臣の血筋を守るんや、という情報が、まんべんなく大阪中に伝わったことを意味する、、、というワケである。

 

“ ひょうたん ” はね、秀吉の馬印なんだよ。

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“いくさ”の時に、かかげたシンボルだね。

 

このデザインは“ 千成瓢箪〔せんなりびょうたん〕 ”って呼ばれました。

 

でね、

 

実は、小説の世界だけじゃなく、現実にも、この “ひょうたん” が、町の風景にあふれている場所があります。

 

滋賀県長浜市。

 

豊臣秀吉が、かつて、 木下藤吉郎 と呼ばれ、やがて信長の重臣である 柴田勝家 と 丹羽〔にわ〕長秀 から一文字ずつもらって 羽柴秀吉 と名乗っていた頃、 長浜城 の城主でした。

 

琵琶湖の近くです。

 

で、現在、ここのマンホールに描かれたデザイン、、、、

 

とにかく “ ひょうたん ” だらけ。


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長浜市は、 “ ひょうたん ” を市章にしているほどだよ。

 

小説は、荒唐無稽なファンタジーだけど、秀吉が死に、政権を家康に奪われた後も、秀吉のキャラクターというのものは、なんか、人々の生活に馴染み、庶民に、特に関西圏ですが、連綿と愛され続けてきたのは、事実のようだね。

 

さて、今日は、信長亡き後、秀吉の天下統一、そして、その巧妙な政治ぶりの話です。


 

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では、前回の続きです。

 

信長 が 本能寺 で討たれてからの話。

 

あ、 本能寺の変 って知ってるよね。

 

じゃあ、本能寺の“ 変態 ”って知ってる??

 

パンツ一丁で、立っていたって言う、、、。

 

どんな柄のパンツか知ってるかい?

 

察しの良い方、、、正解。

 

イチゴ柄。

 

イチゴのパンツ、本能寺の変態。

 

1582年 ってことです。

 

冗談はさておき、この 本能寺の変 の年代、この変態以上に、強烈に覚えておいてね。

 

あまり、「 覚えてね 」って言うのは、好きじゃない。

 

流れを身につけるとか、色々、言い方はあるけど、結局、日本史は覚えとかないと話にならないのだから、イチイチ、「覚えてね」なんて言うのは、ナンセンス、と思っているのだけど、この“ イチゴパンツ ”、 1582年 は、ゼッタイ覚える。

 

やっぱ、転換点だもん。

 

信長 → 秀吉

 

秀吉 が出兵先の 備中高松 から僅か5日くらいで、京都近くまで戻り、 明智光秀 を 山崎の合戦 で敗ったのも 1582年 だし。

 

それまでキリスト教を保護していた信長が死んだ年、 1582年 に派遣されるのが 天正遣欧使節 だしね。

 

色んな要素で、大きく時代が、カーブを切っていくのが 1582年 ですからね。

 

じゃあ、信長の天下統一を受け継いだ 秀吉 の流れを見ていこうか。


 

〈1582〉山崎の合戦

… 明智光秀 を破る

 

 

〈1582〉清洲会議

…織田家の跡継ぎは 三法師 に

 

 

〈1583/4月〉賤ヶ岳の戦い

… 柴田勝家 を破る

 

 

〈1583/6月〉

… 大坂城 築城スタート

 

 

〈1584〉小牧・長久手の戦い

… 徳川家康 と戦う

 

 

〈1585/7月〉関白 就任

( 藤原 姓 )

 

〈1585/8月〉四国平定

… 長宗我部元親 を破る

 

 

〈1586〉太政大臣 就任

( 豊臣 姓 )

 

 

〈1587〉九州平定

… 島津義久 を破る

 

 

〈1590〉関東平定

… 北条氏政 を破る

… 伊達政宗 も服従

= 【 天下統一!!! 】

 


以上。


 

これが、 秀吉 の天下統一の流れです。

 

じゃあ、順番に見ていこう。

 

まず、 本能寺の変 の時、 秀吉 はどこに居たか?

 

そう。

 

備中高松城攻めです。

 

当時、信長の命令で、毛利と戦っていましたね。

 

毛利 は、 毛利元就 の頃、台頭して、山口、広島、岡山、島根、鳥取、、、など、山陽山陰地方、言い換えると、中国地方を支配下に置いていた、巨大な戦国大名です。

 

当時は、 毛利元就 の孫 毛利輝元 の代になっていました。

 

で、 秀吉 は毛利方の部将 清水宗治〔むねはる〕 を攻め、 備中高松城 を包囲していたのでした。

 

しかし、 本能寺の変 が6月2日に発生。

 

6月3日には、その情報をキャッチします。

 

すると、毛利方に対して手紙を出し、それまで包囲していた 備中高松城 の城主 清水宗治 の切腹と引き替えに、和睦〔わぼく〕をしようと持ちかけます。

 

和睦って停戦のことね。

 

いったん、ここで、戦いは終わりってこと。

 

これが、6月4日です。

 

清水宗治の切腹を見届けるやいなや、岡山から、ものすごい勢いで、京都に引き返します。

 

そして、京都って、今は、京都府だけど、当時は何国?

 

そう。

 

山城国だよね。

 

その山城国の入り口となる 山崎 で、 明智光秀 の軍と対峙。

 

ここで、 山崎の合戦 が行われたのです。

 

この戦い、“天下分け目の天王山”って言いますよね。

 

今でも、例えば、大学受験とかで、“夏こそが天王山だ”なんて言いますね。

 

天下を取るのは誰か、どっちだ?!

 

君は、第一志望に、合格するのか、しないのか?!

 

そういう、運命を分ける戦いを、“ 天王山 ”と称するんですよね。

 

この 山崎の合戦 が、その語源となっているのです。

 

山崎 は京都府、つまり 山城国 の入り口なのですが、ホントに 天王山 という山があったんだよ。

 

ここに、どちらが先に陣を張るか、、、

 

これが、勝負の分かれ目になる、、、

 

ということなんですけど、6月12日、 秀吉 は、ここ 天王山 を占拠したんですね。

 

ね、早いよね、秀吉。

 

だって、本能寺の変態が、6月2日だよ。

 

その10日後には、天王山を占拠して、光秀を見下ろしていたワケですからね。

 

秀吉が備中岡山から、200㎞という距離を、ものすごい勢いで戻ってきたことは「中国大返し」と呼ばれ、1日40㎞を移動したその速さが、語り継がれますが、やっぱり、情報力と、決断力が、彼を天下人にしたと思うね。

 

そう言えば、 今川義元 に正面から、ぶつかって勝利した 信長 の桶狭間の戦いも、情報力と決断力が、ものを言いましたよね。

 

今でも、僕たちは、それを学ばねばならない気がしますね。

 

ちょっと、余談ですが、秀吉の決断のすごさと、逆に、決断出来なかった男が、ここにいます。

 

この天下分け目の 山崎の合戦 の時、秀吉と明智のどっちにつこうかなーって迷って、どっちにもつかず、決断できなかった、、、これが、 筒井順慶〔つついじゅんけい〕 です。

 

大和国、つまり今の 奈良 の戦国大名。

 

彼は、秀吉からも、光秀からも、協力要請を受けていました。

 

で、 洞ヶ峠〔ほらがとうげ〕 という所まで来たのですが、迷います。

(洞ヶ峠は京都府と大阪府の境)

 

どっちにつこうか、、。

 

結局、決断できず、大和国に帰っちゃう。

 

これは、どうも史実ではなく、決めかねた、、、、と言うよりは、中立的立場をとろうと判断した筒井順慶は、もっと手前で、大和国に引き返していたようなのですが、いつの頃からか、こんな風に、決断できず、どっちに就こうか、日和見な態度のことを“洞ヶ峠を決め込む”などと言うようになったのですね。

 

さてさて。

 

山崎に着く直前、 尼崎 で軍勢を増やし、3万の軍勢で、天王山に陣を張ることが出来た秀吉軍は、1万6000人の明智方を破ります。

 

明智は、本拠である 近江国 坂本 へ逃げる途中、土民に竹槍で刺され、殺害されたと言われます。

 

信長を倒すことには成功しましたが、明智の天下は10日くらいで終わったのです。

 

10日くらいですが、“ 3日天下 ”と呼ばれますね。

 

さて、 明智光秀 を 1582年 に 山崎の合戦 で破った後、 秀吉 が臨んだのが 清洲会議 です。

 

清洲 って覚えている?

 

愛知県 だよ。

 

尾張国 。

 

信長 の初期の根拠地。

 

そこで、信長の家臣が集まって、信長亡き後、織田家の跡継ぎについて、話し合いが行われます。

 

信長には、三人の有力な息子が居ました。

 

長男 信忠〔のぶただ〕

(信正が実在するなら次男だが、信正の存在は不透明)

 

次男 信雄〔のぶかつ〕

 

三男 信孝〔のぶたか〕

 

(信雄と信孝の出生は、ほぼ同時期で、一説には信孝の方が先に生まれたが、出生報告が信雄の方が早く次男となった、、、という説も)

 

でね、

 

ふつーなら、織田信忠 で決まりじゃん。

 

でも、彼、死んでるんだよね。

 

本能寺の変の時に。

 

信忠 は、当日、同じ京都の妙覚寺という寺に居ましたが、本能寺の変を知ると、誠仁〔さねひと〕親王(正親町天皇の五男)の居た二条御所に移動し、立てこもり、明智光秀と戦いますが、破れ、自害、、、。

 

26歳の若さでした。

 

で、会議では、同じ25歳の 信雄 と 信孝 のどちらが、織田家を嗣ぐのに相応しいか、、、で議論となっていたのです。

 

織田家の重臣 柴田勝家 は、三男 信孝 の方を推しました。

 

何故って、柴田勝家は、信孝の烏帽子親だったのです。

 

烏帽子親って言うのは、武士が元服をする際、つまり成人になることを宣言する時に、行う儀式です。

 

烏帽子〔えぼし〕 は礼装の時にアタマにかぶる帽子ね。

 

だから、 信孝 が次の織田家のリーダーになれば、 柴田勝家 は実権を握りやすい、、、と考えたのですね。

 

でも、 秀吉 は違いました。

 

周りが、全然、予期していなかった、跡継ぎの案を示すのです。

 

“ 三法師様 ”です。

 

三法師と言うだけあって、3歳、、、

 

って言うのは冗談ですが、3歳はホント。

 

で、このちびっ子、誰??

 

ってカンジですが、本能寺の変の時、自害に追い込まれた 長男 信忠 の息子です。

 

信長 の孫だな。

 

でも、長男の息子で、直系なんだから、これが、正しい跡継ぎだろ。

 

って 秀吉 は主張したんだね。

 

秀吉 は、明智光秀を討った男でもあるし、丹羽長秀〔にわながひで〕 という信長の重臣を味方につけたこともあって、この跡継ぎ案が採用されたのです。

 

三法師さま は、 織田秀信 となっています。


(その後、岐阜城主などを務めるが、秀吉・家康の時代を経て没落、関ヶ原では西軍について攻められ、最後は、高野山へ、、、1605年26歳で死去)

 

けれども、いいかい。

 

この 清洲会議 の意味、、、、

 

秀吉 が信長亡き後の、リーダーシップを取っていくことが明らかになったこと、

 

そして、

 

秀吉 と 柴田勝家 が全面的に対立していく幕開けになったということ、

 

この2つの意義を抑えておいてね。

 

だから、

 

〈1582〉本能寺の変

    山崎の合戦

    清洲会議

〈1582〉賤ヶ岳の戦い

 

と流れをつかむ。

 

結局、 秀吉 と対立した 柴田勝家 は、 1583年 信長の三男 信孝 を擁立して、秀吉 と戦いますが、敗れます。

 

これが、 近江国 琵琶湖の北東で行われた 賤ヶ岳の戦い です。

 

この戦いでは、秀吉の家来で、後に“賤ヶ岳の七本槍”と呼ばれる 加藤清正 や 福島正則 などが活躍しましたよ。 

 

敗れた 柴田勝家 は、本拠地 北の庄〔しょう〕 に逃げ帰りますが、秀吉に攻められ、自害しています。

 

この時、 柴田勝家 に嫁いでいた 信長 の妹 お市 も、 柴田勝家 と共に自害しています。

 

最初は、 浅井長政 に嫁いでいて、でも 1570年 姉川の戦い で兄信長に破れ、その時は、信長に降っていますが、今回は、 秀吉 に降ることなく、新たな夫である 柴田勝家 と共に、自害しているのですね。

 

お市が浅井長政との間で生んだ3姉妹 茶々 、 初 、 江 は、秀吉の元に引き取られます。

 

柴田勝家 に、かつがれ岐阜で挙兵した 織田信孝 も攻められ、翌年の5月に自刃しています。

 

さて、これで、信長家臣団の中で、完全に、トップになった 秀吉 。

 

大坂城 を築き始めます。

 

1583年 のこと。

 

これも、流れだよ。

 

 

〈1583〉賤ヶ岳の戦い で柴田勝家を破る

〈1583〉大坂城築城スタート

 

 

信長 の 安土城 の時も流れだったね。

 

 

〈1575〉長篠の戦い で 武田勝頼 を破る 

〈1576〉安土城築城スタート

 

 

ただ、秀吉の大坂城の場合は、賤ヶ岳と同い年だからね、注意。

 

大坂城 は、かつて、 信長 が 顕如 を屈服させた 石山本願寺 の跡地でした。

 

かつて、飛鳥時代 難波長柄豊碕宮 も置かれた所が近く、人々が行き交う、中心的な場所だったんだね。

 

淀川の河口があって、瀬戸内海にも出やすい、交通の要衝だ。

 

ここに、周囲4㎞、五層八階建ての 大坂城 を 秀吉 は築いたんだね。

 

今の皇居より、広い面積の城だよ。

 

大坂城 は大名たちに石高に応じて、石と人足を用意させ、6万人を動員、2~3年をかけて、完成しました。

 

さてさて、天下統一の流れを続けるよ。

 

1583年 柴田勝家 を賤ヶ岳で破った後は、

 

最大のライバル 徳川家康 と対決です。

 

1584年 小牧・長久手の戦いだ。

 

尾張国 すなわち 愛知県 だね。

 

秀吉の天下統一に向けた動きにイライラしていた 織田信雄 を支援して、 徳川家康 が秀吉との対決に動きました。

 

どっちが、勝ったんでしょう??

 

引き分けです。

 

戦いでは、家康が優勢でしたが、 秀吉 は巧妙な手を使います。

 

小牧・長久手でにらみ合っている最中に、 織田信雄 の本拠地である 伊勢長島 を攻撃し、信雄 をビビらせたのです。

 

信雄 は、家康に断りもなく、勝手に、 秀吉 と和睦、、、すなわち講和しちゃいました。

 

彼が、講和しちゃうと、家康に戦う理由がないからね、、、。

 

お前、アホか、と家康は思ったでしょうけど、和睦しちゃったものは仕方アリマセン。

 

家康も、戦いをやめるしかありませんでした。

 

さて、その後の秀吉です。

 

〈1585/7月〉藤原姓 となり 関白 に。

 

〈1585/8月〉長宗我部元親 を破り 四国平定 。

 

〈1585/10月〉惣無事令〔そうぶじれい〕

 

秀吉 は、藤原の一族である 近衛前久〔さきひさ〕 の名目上の跡継ぎとなり、藤原姓を手に入れ、結果、 関白 に就任します。

 

そして、弟の秀長を四国に送り、 長宗我部元親 を破りました。

 

長宗我部元親 と言えば、一番新しい分国法 長宗我部元親百箇条 で有名だね。

 

でも、 明智光秀 と通じていたということで、秀吉に目をつけられたのです。

 

長宗我部元親 は、せっかく、四国を統一したのに、根拠地である 土佐( 今の高知 ) だけ支配を認められ、あとは取り上げられちゃいました。

 

次。

 

〈1586/12月〉家康 を上洛させ従わせる

 

〈1586/12月〉豊臣姓 をもらい 太政大臣 に。

 

徳川家康 は、このタイミングで上洛します。

 

実は 家康 は、上洛をしぶっていました。

 

小牧・長久手の戦いの後、根拠地の 三河国 で、秀吉から独立した動きをとっていたのです。

 

秀吉 は、なんとか、家康 を従わせたい。

 

そこで、秀吉は自分の妹で、夫もいる44歳の 旭姫〔あさひひめ〕 を離婚させ、三河国は岡崎に居る 家康 に嫁がせました。

 

ゴーイン。

 

それでも、上洛してこようとしない 家康 に、74歳の母(大政所〔おおまんどころ〕)まで人質として、三河に送ったのです。

 

考えられねー

 

ってカンジですね。

 

でも、この辺りが、秀吉の上手な所ですね。

 

ここまで、させといて、上洛しない、、、ってアリエナイ、、、って 家康 をジワジワ追いつめていったのです。

 

結果、1586年12月、 家康 は、上洛し、他の家臣もいる前で、 秀吉 に臣従する姿勢を示したのですね。

 

そして、同じ 1586年の12月、 秀吉 は、朝廷から、 豊臣 という新しい姓と 太政大臣 という公家の最高官職に任じられることになったのです。

 

見落としがちだけど、この太政大臣に任官したって、スゴイよ。

 

だって、武家で、太政大臣って、誰が居る?

 

そう居ないでしょ。

 

平清盛 。

 

足利義満 。

 

だよね。

 

この2人に並んだんです。

 

しかも、百姓、足軽の出身がさ。

 

すごいことですよね。

 

さて、次。

 

〈1587〉九州平定

 

〈1590〉関東平定

 

です。

 

重要なポイントは、討伐の対象となった 島津義久 とか 北条氏政 は、 惣無事令 違反ってことね。

 

秀吉は、1585年 四国平定 長宗我部元親 を破った後、 惣無事令 を出しています。

 

これは、 豊臣平和令 とも言う。

 

“ 私闘の禁止 ” 、

 

“ 戦国時代の終了宣言 ”だよ。

 

つまりさ、これまでは、戦国時代だから、勝手に、領地を巡って、大名同士が戦争してたじゃん。

 

それを、今後は、領地のもめごとは、全部、秀吉が、裁定を下すから、勝手に、戦争すんな、ってことです。

 

で、そう言っているのに、 島津義久 は、 豊後国( 今の大分 ) の 大友氏 と、

 

北条氏 は、信濃国の 真田氏 と、

 

勝手に“ いくさ ”をしているので、それは、惣無事令違反だぞ、と言うことで、 秀吉 は 九州平定 、 関東平定 に向かうのですね。

 

まぁ、 島津義久 の気持ちも分かるよ。

 

島津氏 って伝統有る、 守護出身 の戦国大名だしね。

 

農民出身のサルには従いたくないよね。

 

けれども、 1587年 25万の 秀吉 軍に攻められて、屈服することになります。

 

秀吉 としては、南蛮貿易の拠点として、また、大陸侵略の前線基地として、九州は、抑えておきたい所でしたからね。

 

あとでまたやりますが、この九州平定の帰り道、 長崎 が 大村純忠 の寄進により教会領となっていることを知って驚き、 バテレン追放令 を 博多 で出しています。

 

関東平定 は、 1590年 だよ。

 

コレも、ゼッタイ抑えてね。

 

秀吉 の天下統一の年代だからさ。

 

上杉謙信 や 武田信玄 でさえ、落とせなかった周囲12キロの城郭をもつ 小田原城 に 北条氏政・氏直親子 は籠城します。

 

それを、22万の 秀吉軍 が取り囲んだのです。

 

秀吉は、徹底した兵粮攻めを行い、家臣には、妻や子どもも呼んでOKとし、長期戦の構えを見せ、じっくりと取り囲みます。

 

北条氏 としては、奥州の 伊達政宗 が味方についてくれるのではないか、、、と甘い期待を抱いていたのですが、ずいぶん悩んだあげく、 伊達政宗 は 秀吉方に加わって、援軍の可能性が途絶えます。

 

結局、 北条氏政 は自害。

 

息子の 北条氏直 は高野山に追放となりました。

 

彼らは、降伏しようか、籠城を続けるか、小田原城で、ずいぶん、論議を巡らせたそうです。

 

でも、結論を出すことが出来ず、伊達政宗も秀吉の側にまわって、ジ・エンド。

 

決められない会議が続くことを“ 小田原評定〔ひょうじょう〕 ”と言いますが、まさに、そうした状態だったのですね。

 

この後、 秀吉 は、北条氏の居なくなった関東地方を 家康 に与えます。

 

なんと、250万石。

 

でも、 家康 は、それまで支配してきた 三河国 、 遠江国 、 駿河国 、 甲斐国 、 信濃国 を手放すことになり、明らかに、秀吉の、家康のことを、ド田舎に押し込んでしまおうという策略だったのです。

 

今はね、関東地方なんていうと、東京、横浜があって、都会ってカンジですが、当時は、超カントリーだからね。

 

また、こうした領地替えを 転封〔てんぽう〕 と言いますが、そうしたことを 秀吉 が思うがママにできるのだぞ、と他の家臣に示す効果もあったのです。

 

やっぱ、秀吉、上手だよね。

 

でも、こうして、関東に移住した 家康 は、秀吉の死後、江戸幕府 を開いて行くワケですから、そのきっかけを与えてしまった、、、という悔やみは、死んだ後、天国の秀吉くんはあったかも知れませんがね。

 

でも、この秀吉の天下、、、という時点では、モチロン、江戸幕府とか論外なワケですから、まぁ、上手く、家康を遠ざけた、ってことなんですね。

 

さて、 1590年 関東を平定した 秀吉 は、そのまま 奥州 、つまり東北も平定。

 

まぁ、 伊達正宗 が関東平定のタイミングで臣従してますから、楽勝ですよね。

 

蝦夷地 、つまり今の北海道の 蠣崎慶広〔かきざきよしひろ〕 も 秀吉 に服属しています。

 

あとね、

 

今、

 

〈1587〉九州平定

 

〈1590〉関東平定

 

を見たじゃんね。

 

その間に、

 

〈1588〉聚楽第〔じゅらくてい〕 に 後陽成天皇 を迎えて、朝廷と、秀吉自身に諸大名に忠誠を誓わせる、、、というイベントをしています。

 

聚楽第 っていうのは、秀吉が、京都に建てた 城郭風、つまり、周囲に 堀 や中心に 天守閣 をもった城のような 邸宅 ですよ。

 

後に、 秀吉 は甥の 秀次 にこの 聚楽第 を譲っていますが、最終的に、 秀次 を自害に追い込むことになり、その時に、この 聚楽第 も取り壊しています。

 

九州平定 と 関東平定 の間に 聚楽第イベント を入れといてね。

 

さて、では、天下統一を果たした秀吉の政治について、最後に見ようか。

 

まず直轄領の呼び名です。

 

秀吉政権の直轄領は 蔵入地〔くらいりち〕 と呼ぶよ。

 

これ、抑えてね。

 

鎌倉幕府は 関東御領 。

 

室町幕府は 御料所 。

 

秀吉政権が 蔵入地 。

 

江戸幕府が 幕領(天領) ですよ。

 

蔵入地 は全国に広がり、約 200万石 です。

 

ちなみに、徳川家康の幕領は 400万石 ね。

 

また、秀吉は直轄鉱山を持ちました。

 

佐渡金山

 

石見大森〔いわみおおもり〕銀山

( 今の島根 )

 

但馬生野〔たじまいくの〕銀山

( 今の兵庫日本海側 )

 

などです。

 

こうした鉱山からの金銀を使って、秀吉が何をやったか。

 

お金の発行です。

 

天正大判〔てんしょうおおばん〕 と言う。

 

表面にデザインされた桐〔きり〕が菱形に囲まれているので、 菱大判〔ひしおおばん〕 とも呼ばれます。

 

デカイ。

 

重い。

 

1枚165グラム。

 

ふつーのお金みたいに使うのではなく、進物用として用いられたようです。

 

秀吉 はこの 天正大判 を京都の金工 後藤徳乗〔とくじょう〕 に命じて鋳造させました。

 

また、 天正大判 の他に 天正通宝( 金や銀 ) や 文禄通宝( 銀や銅 ) も秀吉政権では鋳造されました。

 

天正通宝 や 文禄通宝 は、賞与のために鋳造されたようです。

 

あのね、秀吉の貨幣鋳造事業、、、コレって、結構、すごいことなんだよ。

 

だって、これまで、日本政府が造った貨幣って、飛鳥、奈良、平安の頃の 皇朝十二銭 シリーズで止まっているからね。

 

708年 の 和同開珎 から

 

958年 の 乾元大宝 までの12の貨幣。

 

それ以降、日本政府でお金を発行することはなくて、後醍醐天皇が乾坤〔けんこん〕通宝というのを発行しようとしましたが、計画倒れ、、、で、秀吉の時代に現実に発行されたんですからね。

 

ただ、庶民の流通用としての貨幣は、徳川政権の 〈1600〉慶長金銀 や 〈1636〉寛永通宝 からで、秀吉の頃は、やはり、鎌倉・室町と同じく中国からの輸入銭( 明銭 )が使われていますけどね(寛永通宝の発行により、輸入銭の流通は終わる)。

 

でも、日本が独自に貨幣の発行をやるんだ、という秀吉の方針が、後の江戸幕府にも永享を与えてそうなったと考えることも出来るワケですから、やっぱり、皇朝十二銭以来の 天正大判 などの発行は、非常に価値があることなんです。

 

だから、経済政策に力を入れた秀吉政権と捉えることも出来る。

 

実際、直轄都市を重要な経済基盤にしていますよ。

 

京都

 

大坂

 

 

伏見
( 京都南 )

 

長崎

 

などです。