まず、 姉川の戦い 。

 

信長 は、天下統一をする上で、強烈なライバルが居ました。

 

その一人が、 上杉謙信 です。

 

上杉謙信 は、越後国( 今の新潟 ) の戦国大名。

 

これを牽制する意味で、越後国の手前の 越前国( 今の福井 ) の朝倉氏を抑えておくことは必要でした。

 

信長 は、朝倉氏に、上洛し、従うよう、再三、手紙を出しますが、朝倉氏は、無視、、、。

 

そこで、信長は、越前に向い、武力で、朝倉氏を従わせようとしたのです。

 

その時、信長が味方に付けていたのが、 近江国( 今の滋賀 琵琶湖近く ) の 浅井長政 でした。

 

浅井長政 に、信長は、妹の お市 を嫁がせていて、同盟関係にありました。 

 

お市 は“ 戦国一の美女 ” と言われた人です。

 

しかし、この信長の朝倉攻めに協力すると見せかけて、 浅井長政 は裏切りました。

 

浅井 と 朝倉 は、古くからのつき合いがあり、 浅井 は、板挟みにあっていたのです。

 

結果、越前に攻め込もうとする 信長 の背後から、協力するフリして、ついてきた 浅井長政 は、信長に襲いかかったのです。

 

でも、信長は、この裏切りを事前にキャッチするんだよね。

 

有名なエピソード。

 

裏切ることを決めた 浅井長政 の妻で、信長の妹 お市 から、信長に、差し入れが届く。

 

あずき。

 

袋に入れられて居るんだけど、両端が縛ってある、、、。

 

これを見た信長は、今、越前の 朝倉 を攻めに北上しているけど、背後から、浅井が裏切って襲ってくることを察知したんですね。

 

お市 も、夫を取るか、兄を裏切るか、それもと夫を裏切るか、、、

 

悩みに悩んだでしょうね、、、

 

という、よく、ドラマで用いられるエピソード。

 

これが、ホントの話かどうかは定かではありませんが、戦国の世にあって、同盟の道具として嫁がされた女性たちの悲劇の一端を物語っています。

 

さて、この時に、株を上げたのが2人居ます。

 

秀吉 と 家康 です。

 

秀吉 は、浅井が裏切ることを知って、大慌てで、引き返す際、“殿〔しんがり〕”を務めました。

 

部隊を逃がす際、一番、タイヘンなのが、“殿〔しんがり〕”です。

 

すなわち、逃げる部隊の一番、後ろ。

 

前の方の人は、いいよね。

 

ただ、一目散に逃げるだけだから。

 

でも。一番後ろは、戦っては、逃げ、戦っては、逃げを繰り返さなきゃイケナイ。

 

一番、死ぬ可能性が高いです。

 

でも、秀吉は、見事、それをやってのけた。

 

そして、1ヶ月で、武器、食糧などを調達し、陣を立て直した信長は、再び、朝倉に戦いを挑みます。

 

浅井・朝倉連合軍と戦った、、、これが 1570年 姉川の戦い なんだけど、このリベンジ戦で、株を上げたのが、 家康 。

 

信長は、3万5000人の兵で、浅井長政3000人の軍と戦いました。

 

そりゃあ、勝つよね。

 

で、信長は、家康に、朝倉義景 との戦いを任せたんだけど、

 

家康軍5000人に対して、朝倉軍1万5000人だよ。

 

1対3です。

 

でも、勝ったんだね。

 

家康は。

 

この姉川の戦いの功労者になりました。

 

最終的に、 浅井長政 は 近江 の 小谷〔おだに〕城 で自刃。

 

朝倉義景 は、越前 の 一乗谷 で自刃し、信長の勝利が確定しました。

 

この時、浅井長政の妻で、信長の妹 お市 は、3人の娘を連れて、小谷城を出て、兄、信長のもとに下りました。

 

お市 は、のち、 柴田勝家 の妻となり、

(賤ヶ岳の合戦で、勝家と共に自害)

 

娘のうち、 茶々 は 秀吉 の側室に、

 

お江 は 徳川秀忠 の妻になりましたね。

 

これも、よくドラマで見るシーンだね。

 

大河ドラマ 『 江 』 の歴史考証された静岡大学の 小和田哲男 先生の講演会を見に行った時、面白い話を聞きました。

 

脚本に、燃えさかる小谷城から、お市とその娘たちが出てくる、、、と書かれているのですが、小和田先生曰く、「小谷城は、燃えていない」とのこと。

 

最近の発掘調査の結果、出土する小谷城の瓦が、ことごとく、焼けた跡が、ないそうな。

 

だから、さすがの 信長 も、妹の お市 が嫁いでいった先の 浅井長政 の 小谷城 は攻めにくく、火をかけるなんて事も出来なかったんだろう、、、信長の新たな人間性、人間味有る所が見える、、、ということで、小谷城が、燃えているシーンは、実際には、なかったんだから、やめてくれ、と言ったそうなんですね。

 

でも、プロデューサーから、やっぱ、燃えてないと、悲劇的なシーンにならないから、“ ちょっと ”だけ、燃やさせてくれ、と懇願されたそうです。

 

小和田先生は、不承不承、“ ちょっとなら ”と黙認したようですが、後日、OAを見ると、轟々と燃えさかる小谷城、、、、となっていて、唖然とした、という 小和田先生の話は、結構、笑いました。

 

まぁ、持ちネタとして、数々の場所で喋っているんでしょうが、僕は初めての話だったので、実に、面白く聞きましたよ。

 

小和田先生、曰く、歴史考証、時代考証は、史料に載っていれば、「それは違う」と指摘できるそうですが、(、、、、と言っても、小谷城は燃えましたが)、史料がなければ、いくらでも、演出してしまう、、、、それが、歴史ドラマだということです。

 

まぁ、やっぱり、あくまで、ドラマはドラマということですね。

 

さて、話を戻しましょう。

 

こうして、 1570年 姉川の戦い を経て、越前、すなわち 北陸方面を平定し、上杉に対して、にらみを利かせることに成功した信長です。

 

でね、この姉川の戦いのあと、何が起きたか、、、

 

これをキッチリ、抑えてね。

 

比叡山延暦寺 の焼打ちです、、、。

 

根本中堂 など、比叡山の4500の建物を全て焼き、僧、尼など数千人を殺害しました。

 

比叡山は、3日間、燃え続けた、、、と言います。

 

何故、信長は延暦寺を攻めたのか、、、

 

それは、この浅井・朝倉との戦いにおいて、延暦寺が、浅井・朝倉に味方したためです。

 

今と違って、寺は、武装していました。

 

僧兵と呼ばれる武装集団を形勢していたのです。

 

だから、比叡山延暦寺なんていうと、ひとつの戦国大名クラスの存在です。

 

で、信長は、延暦寺が、浅井・朝倉に味方していたため、焼打ちにしたんですね。

 

〈1570〉姉川の戦い

 

〈1571〉比叡山延暦寺焼打ち 

 

というのは、セットにしておいて下さい。

 

次。

 

室町幕府の滅亡の様子を見よう。

 

姉川の戦い の後、

 

延暦寺 を焼打ちにした後、

 

信長 は、京都から、 足利義昭 を追放します。

 

これが、 1338年 以来、続いてきた 室町幕府の滅亡 です。

 

足利義昭 は最初は、信長に感謝していました。

 

だって、兄の13代 足利義輝 を殺害され、足利義昭は京都に入れず、流浪の身でしたから。

 

それを、担いでくれて、京都に入れてくれて、将軍にならせてくれたんですからね、信長は。

 

足利義昭 は、信長のことを3つしか、年上じゃないのに“御父”と慕い、信長が京都から離れ、一時的に岐阜に帰る時など、信長の姿が見えなくなるまで、見送っていた、、、というようなエピソードは有名。

 

でもね、信長は、最初から、足利義昭のために仕える、、、なんていう気持ちはありませんでした。

 

足利義昭 が、15代将軍になった時、喜んで、信長に感謝し、「 管領 か 副将軍 」にしよう、と言ったんですけど、信長は、辞退しています。

 

足利義昭の下につくつもりなど、毛頭無かったのです。

 

足利義昭擁立は、あくまで、京都に入るための、口実でしかなかったのですね。

 

信長は、足利義昭に、「殿中御掟」なるものを突きつけ、守らせます。

 

これは、信長の許可なく、領地を家臣に与えてはならない、裁判の結果を覆してはならない、など、将軍としての権力を、著しく制限するモノで、足利義昭という将軍が、信長の操り人形にしか過ぎないことを表しています。

 

不満をもった 足利義昭 は、信長のライバルの一人、 武田信玄 に密書を送り、信長を倒してくれるよう依頼します。

 

で、武田信玄は、挙兵してくれました。

 

京都の信長を攻めてやろう、という動きを始めたのです

 

武田信玄の軍は強く、 遠江〔とおとうみ〕( 今の浜松 ) で信長の同盟者 徳川家康 をうち破っています。

 

家康は、討ち取られこそしませんでしたが、惨めな敗北を喫します。

 

三方ヶ原の戦い と言います。

 

これを見た、足利義昭は、ヤッホーと大歓喜!

 

自ら挙兵して、信長を倒そうとしますが、なんと、武田信玄の軍は、京都に来ないで、甲斐〔かい〕( 今の山梨 )へ帰っちゃいました。

 

なんで~~

 

武田信玄 は、病に倒れたのです。

 

拳をふりあげた、足利義昭ですが、逆に、信長に京都を追われました。

 

そして二度と、足利家が将軍につくことはありませんでした。

 

これが、室町幕府の滅亡です。

 

1573年。

 

そして、武田信玄が亡くなった後、その息子の 武田勝頼 との戦いに、信長・家康の連合軍は挑みます。

 

1575年 長篠の合戦 。

 

場所は、 三河国 ね。

 

家康 としては、自分の家で、武田と信長が殺し合うワケですから、良い迷惑ですが、まぁ、仕方ない。

 

信長に味方して、武田と戦いました。

 

信長・家康は、勝ちますね。

 

武田勝頼 も決して、弱いワケじゃない。

 

1万3000の武田騎馬隊は、やはり、恐ろしい存在でした。

 

しかし、このとき、信長・家康軍は、新兵器を使いますね。

 

鉄砲です。

 

1543年 にポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲は、撃つまでに時間がかかりすぎるとか、なかなか実戦で効率良く、使えなかったのですが、3000丁の鉄砲を持たせた足軽部隊を3列に分け、間断なく、撃ちまくったというのも有名なエピソード。

 

これも、ホントにあったかどうか、諸説ある話なんですけどね。

 

近年では、鉄砲も威力を発揮したけど、武田騎馬隊が突進して来れないように、あらかじめ、 馬防柵 という柵をたてて、騎馬隊の足止めをしたというのが、効果がでかかったんじゃないか、、、などと言われます。

 

最終的に、 武田勝頼 は信長に本拠を攻められ自刃しています。

 

それは、 1582年 の 天目山の戦い と言います。

 

さて、話を戻し、

 

1575年 長篠の合戦 で 武田勝頼 を退けた 信長 は、最大のライバルが一人倒し、ふーっ、一安心。

 

ってことで、新たな拠点となる城を築きます。

 

これが、安土城。

 

だから、

 

〈1575〉長篠合戦

 

〈1576〉安土城築城スタート

 

もセットで抑えようね。

 

さぁ、信長は、この後、朝廷から、 大納言 兼 右大将 という位を もらい絶頂に。

 

大納言 は 足利尊氏 がもらった位。

 

右大将 は 源頼朝 がもらった位。

 

まさに、上り詰めた 信長 です。

 

が、ご存じのように、道半ばで、倒れます。

 

1582年6月2日 本能寺の変 で、家臣の 明智光秀 により謀叛を起こされ、自刃するのです。

 

この時、信長は、西国の毛利を討とうとして、 秀吉 を前線に送っていました。

 

でも、 秀吉 は、毛利方を攻めあぐねていて、それを援護しに、自ら出陣しようとしていた直前に 信長 は家臣に裏切られたのです。

 

本能寺 は京都の寺ね。

 

100人という手薄な兵で、宿泊していた所を、 明智光秀 に襲われたのです。

 

この時、信長 49歳 。

 

今川義元 との桶狭間の戦い直前、武家が愛好していた踊り 幸若舞 の演目の一つ「敦盛〔あつもり〕」を踊ったという 信長 。

 

「人間50年 下天〔げてん〕のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度〔ひとたび〕生を得て滅せぬ者のあるべきか」

 

この舞を舞ながら、こんなフレーズがあります。

 

意味は、

 

人間の命は、50年あまり、夢か幻のようでしかない、一度生まれた者は、必ず死ぬ、それは当然だ、、、、

 

まさに、そのフレーズ通り、信長は、50歳近い生涯を、道半ばで、終えたのでした。

 

ちなみに、この時、信長と一緒に命を落とした人物に、

 

森覧丸 18歳

 

坊丸 17歳

 

力丸 16歳 

 

という小姓たちもいました。

 

また、信長 に黒人の家臣が居たの知ってる?

 

「弥助」という名前の、モザンビーク出身の黒人です。

 

モザンビークは、アフリカ南部東海岸ね。

 

宣教師に奴隷として連れてこられてたのを、信長が珍しがって家来にしました。

 

最初、肌が、真っ黒なのが信じられなくて、服を脱がせて、ゴシゴシ洗わせのは有名な話。

 

光秀が本能寺を襲撃した時、居ました。

 

脱出し、二乗御所で、信長の長男、 信忠 が戦っているのに参戦しますが、信忠は敗れ、自刃、、、。

 

黒人 弥助 は、明智方に捕らえられますが、処刑はされず、南蛮寺に送られたそうです。

 

その後、どうなったかは、不明。

 

まぁ、本能寺で、信長の多くの家臣が失われた、、、という話です。

 

さて、この後は、秀吉が、天下統一の続きをしますが、それは、次回のお楽しみにして、信長の諸政策について、見ておこうね。

 

まず、信長の宗教政策。

 

ポイントは一つ。

 

仏教弾圧 、

 

キリスト教保護 、

 

です。

 

まぁ、仏教も、全宗派を弾圧したワケじゃない。

 

一向宗 と 日蓮宗 。

 

そして、先ほど見た、 比叡山延暦寺 だ。

 

一向宗 は、当時、完全に武装集団だからね。

 

別に、批判をしているワケではなく、当時、宗派間の争いが活発でしたから、よっぽど、権力者に保護されているのなら、いいけど、そうでないなら、武装しなきゃ、やられちゃうんでね、仕方のないことではあったんです。

 

室町文化の所で見たように、室町時代、本拠だった本願寺を延暦寺に焼かれ、北陸方面に出向いた本願寺8世 蓮如 は、 吉崎道場( 御坊 ) を創設して、庶民を中心に、教えを広めます。

 

分かりやすく教えを書いた 御文〔おふみ〕 を配り、

 

庶民に、一向宗の勉強会 講 を結成させ、宗教的団結を深めさせます。

 

当時、惣村として、村は、団結する傾向にありましたから、それを上手く、利用したとも言えますね。

 

また、惣村の結合に一役買った、、、そういう味方もできます。

 

とにかく、室町時代は、一揆を結成して、権力者に要求を突きつけていく、庶民が元気、惣村の活発な時代ですから、それとタイアップして、一向宗は、勢力を拡大していったのです。

 

で、信長は、彼らが従わないので、力づくで、制圧しにかかったのですね。

 

1574年 は 伊勢長島の一向一揆 と戦い、

 

1575年 は 越前の一向一揆 と戦っています。

 

なかなか、強敵で、伊勢長島の一向一揆との戦いでは、 柴田勝家 が、負傷している程。

 

長島は、木曽川と揖斐〔いび〕川に挟まれた輪中〔わじゅう〕に一向一揆勢が根拠地をなしたのですが、信長は、数百の船で取り囲み、2万人を殺害しています。

 

また、越前の武生〔たけふ〕では、前田利家に命じて3~4万人の一向宗門徒を壊滅させ、1千人を生け捕りにし、磔や釜あぶりにさせています。

 

そして、信長が一番、苦労したのが、石山本願寺に立てこもった一向宗門徒との戦いです。

 

本願寺11世の 顕如〔けんにょ〕 は、信長に徹底抗戦をしますが、1570年から80年まで続いた戦いの結果、 顕如 は、 石山 をおり、ここに、 石山戦争 は終結しています。

 

本願寺 の跡地には、その後、 秀吉 によって 大坂城 が築かれています。

 

僕は、2011年12月に、大阪城に行って来ましたが、すぐ近くに、 難波長柄豊碕宮 の跡地があります。

 

乙巳の変で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、大化改新政府を始めた都だね。

 

この石山本願寺のあった場所が、飛鳥時代から、拠点だったんだなぁ、と感じました。

 

さて、信長が、弾圧したのは、一向宗だけじゃないよ。

 

日蓮宗モネ。

 

日蓮宗も、法華一揆を結成し、武装化していたので、信長の弾圧対象になりました。

 

もともと、過激な布教活動が特徴だしね。

 

ある時、浄土宗の僧侶と日蓮宗の僧侶が、もめて、トラブルを起こした時、 信長 は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧を呼び、どっちの教えが正しいことを言っているか、討論をさせました。

 

これを 安土宗論〔しゅうろん〕 と言います。

 

1579年。

 

この討論、信長が、ムリヤリ、日蓮宗側の負けと断じて、二度と、他宗派を攻撃したりすることがないように、証文を書かせました。

 

ちなみに、その後、日蓮宗は、江戸時代になっても 、不受不施派 など支配に従わない姿勢をとったので、弾圧の憂き目に遭っています。

 

一向宗、日蓮宗、こうした宗派が、信長の弾圧の対象で、あとは、 1570年 姉川の戦い で 浅井長政 ・ 朝倉義景 の味方をした 比叡山延暦寺 の焼打ちね。

 

1571年のこと。

 

信長 は、これらの宗教勢力が、戦国大名並みの力をもっていることを警戒し、反信長勢力に利用されることを恐れていたと思われます。

 

そして、この仏教勢力に対抗させるため、日本に伝来してまもない キリスト教 ヲ保護する姿勢をとりました。

 

1581年 安土 に神学校である セミナリオ が設立されますが、建物と土地は、信長が提供したモノです。

 

まぁ、この後、キリスト教の勢力が拡大して、信長が天下を統一していたら、弾圧されていたかも知れませんけどね。

 

けれども、信長のキリスト教に対する姿勢は、「保護して、布教を許可した」です、そう抑えておいてね。

 


最後に、信長の経済政策。

 

ズバリ、 楽市楽座 です。

 

だから、信長の魅力の一つに、新しいことをした、既存の権益をうち破ったという、清々しさがありますが、鉄砲の使用やキリスト教の認可と共に、この 楽市楽座 は、そういう 信長 の清新さあふれる魅力の一つになっているのかも知れませんね。


 

〝 定 安土山下町〔さんげちょう〕中

一、当所中〔とうしょちゅう〕楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく免許の事。

一、普請〔ふしん〕免除の事。

一、分国中徳政これを行うといえども、当所中免除の事 〟


 

この史料は、有名な、楽市令です。

 

信長 が 安土山下町、すなわち、安土城の城下町に出した 楽市令 。

 

これまでは、特定の商人が、寺院や公家に営業税、 座役 、 市座役 を払うことで、営業の独占を認められてきました。

 

でも、これじゃあ、新規参入の商人が、入って来れないよね。

 

もっと、魅力有る商品を販売しよう、、、というような商業の発展も鈍くなる。

で、信長をはじめ、戦国大名の中には、こうして、それまでの 座 をやめ、 楽市 を宣言し、商人の活発な出入りを奨励して、自分の城下町を豊かにしようという試みが見られたという話です。

 

関所 も撤廃して、商人が動きやすくなるように、、、という工夫も。

 

また、史料を見ると、土木工事などで、ムリヤリ働かせたり、

 

徳政令が発令されて、借金が免除になっても、この町では、それは無効だよ、カネを貸していたのが、チャラになることはないよ、

 

と商人にPR。

 

是非、うちの城下で商売してよ、という分かりやすい 楽市令 は、商人たちに、自由な営業活動を認める法令だったのです。

 

信長 による、既存の勢力の否定は、こうして、商業の世界にも現れたのでした。

 

でもね、 信長 が、商人たちに、自由を与えまくっていたワケじゃありません。

 

信長 は、 安土 以外にも、 美濃加納 で楽市令を出していますが、その他の都市では、座の継続を認めることもしていますし、鉄砲の生産で有名な和泉国 堺 に矢銭〔やぜに〕(軍資金)2万貫を要求し、拒否をすると、力で制圧して、その自治権を奪っています。

 

だから、 楽市令 だけ見ると、何か、すごい自由を与えているようですが、そういう面だけではない、ということも抑えておきましょう。

 

さて、次回、秀吉です。

 

今日は、ここまで。


 

[ 参考文献 ]


石井進ほか『改訂版 詳説日本史B』山川出版社〈2010〉
全国歴史教育研究協議会編『改訂版 日本史B用語集』山川出版社〈2009〉
全国歴史教育研究協議会編『改訂版 世界史B用語集』山川出版社〈2008〉
鳥海靖編『詳説日本史研究』山川出版社〈1998〉
詳説日本史図録編集委員会編『詳説日本史図録』山川出版社〈2008〉
坂本賞三ほか監修『詳録新日本史史料集成』第一学習社〈1991〉
朝尾直弘ほか編『新版 日本史事典』角川書店〈1997〉
京大日本史事典編纂会編『新編 日本史事典』東京創元社〈1990〉
菅野祐孝『菅野の日本史B講義録2 中世』代々木ライブラリー〈2000〉
石川晶康『石川日本史B講義の実況中継5』語学春秋社〈2006〉
久留島典子『日本の歴史13 一揆と戦国大名』講談社〈2001〉
高橋慎一朗『Jr.日本の歴史3 武士の世の幕あけ』小学館〈2010〉
鳥海靖監修『天下統一に向けて』学校図書〈1990〉
永原慶二ほか監修『増補ジュニア版 日本の歴史2 武士の社会』読売新聞社〈1987〉
古川清行『読む日本の歴史5 戦国の世と統一への動き』あすなろ書房〈2009〉
古川清行『日本の歴史8 天下統一への道』小峰書店〈1998〉
河合敦監修『週刊マンガ日本史19 織田信長』朝日新聞出版〈2010〉
河合敦監修『週刊マンガ日本史20 明智光秀』朝日新聞出版〈2010〉