1428年 です。


正長〔しょうちょう〕の徳政一揆 と言う。


正長は当時の年号ね、今は、平成だけど。


さて。


日本で初めての一揆は、 近江国 の 馬借〔ばしゃく〕 たちが起こしました。


馬借 って、今で言えば、運送業者だ。


当時は、トラックとかないからね。


馬の背に荷物を乗っけて運ぶ 馬借 や、


牛や馬で引かせた車で運ぶ 車借〔ししゃく〕 という業者が居たんです。


で、近江。


さっきも言ったように、日本海航路と京都を、琵琶湖の水運で結ぶ、流通の盛んな所。


運送業者も活発に活躍したんです。


しかも、彼らは、移動しまくるからね。


各地の情報にも詳しい。


しかも、集団で仕事をしているから、団結もしやすい。


で、初めての一揆を起こしたんです。


ここでの一揆は、皆のイメージ通りの一揆ね。


暴動です。


具体的には、彼ら、借金で、苦しんでいたんで、


金貸しを襲ったんですよ。


「あいつらの金貸しは、利子が高すぎる! 横暴だ!!」


ってね。


鎌倉時代に、 永仁の徳政令 ってあったでしょ。


借金帳消しになるやつ。


あれを実施するんだ!! と言って、暴れたんですね。


鎌倉時代から 借上〔かしあげ〕 と呼ばれる高利貸し業者は居ましたよね。


やっぱり、 宋銭 や 元銭 や 明銭 などの輸入銭ですが、お金が流通すると、やっぱ、貸し借りは、必然的に出てくるようです。


「 講 」 を作って、互いに融資をしたり、受けたりする 頼母子〔たのもし〕(憑支とも書く) もありました。


で、室町になって、さらに、 倉庫業者 や 酒屋 なども金融を行うようになったのですね。


でも、一方で、高い利子を恨まれる場合もあって

土倉


酒屋


寺院


などが、集団で襲撃されたんですよ。


民衆は、徳政(借金の帳消し)を求め、借金してる代わりとして渡してある質物や、売買・貸借証文を奪ったんです。


そして、徳政令だ!! と叫びまわったんですね。


モチロン、室町幕府は、徳政令なんて出してないよ。


馬借 たちが勝手に、叫んでいるだけです。


こういうの、 私徳政 って言う。


この一揆は、近江だけじゃなく、近畿地方一帯に広まり、土倉や酒屋や寺院が襲われたのでした。


それだけ、当時、民衆は、借金をしていて、それが、生活を圧迫する原因になっていたってことですね。


近江国(今の滋賀) から始まった一揆は、山城国(今の京都) を経て、大和国(今の奈良) や 播磨国(今の兵庫)などにも広まっているのですが、その証拠があります。


これは、 大和国 の 柳生郷 という村に残された石碑。


石碑って言うか、地蔵を彫った岩なんですが、その隅っこに、1428年、正長の土一揆の様子が書かれています。


tanyのブログ


〝正長元年ヨリサキ者〔は〕カンヘ(神戸)四カンカウ(四ヵ郷)ニヲヰメ(負い目)アルヘカラス〟


つまり、


[ 正長元年以降は、この周囲の村、神戸の四つの村について、借金はない ]


という、まさに、私徳政、民衆の勝手な徳政令宣言ですね。


こんな風に、近江から始まった一揆が、運送業者を行う 馬借 が主体だったこともあって、どんどん、広がった様子が伝わりますね。


さて、この日本初の一揆。


一連の流れが分かる史料を見てみましょう。


『 大乗院日記目録 』 。


著者は 尋尊〔じんそん〕 というお坊さん。


大乗院 は 奈良 の 興福寺 に関連する有名な寺です。


尋尊 は筆まめなことで知られていて、何十年も生涯欠かさずに日記を書いていて、それが、当時の様子を克明に伝えます。(『大乗院寺社雑事記〔ぞうじき〕(尋尊大僧正〔だいそうじょう〕記)』)


また、興福寺に残されていた史料を整理して、この 『 大乗院日記目録 』 を編纂しています。


さて、筆まめ 尋尊 の記した 日本初の一揆の様子を見てみようか。


〝(正長元年)九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、雑物等〔ぞうもつなど〕恣〔ほしいまま〕にこれを取り、借銭等〔しゃくせんなど〕悉〔ことごと〕くこれを破る。官領〔かんれい〕これを成敗す。凡〔およ〕そ亡国の基〔もとい〕、これに過ぐべからず。日本開白〔かいびゃく〕以来、土民蜂起〔ほうき〕是〔こ〕れ初めなり。〟


〝日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり〟


で、ああ、正長の徳政一揆だな、日本始まって以来だし、、、と思ってくださいね。


〝蜂起〟って良い言葉だね。


蜂の巣をつついたように、蜂が一斉に飛び出してくる様ですから。


状況が見えるようだね。


で、酒屋・土倉・寺院を襲って、借金証文とかを破った、と。


あ、ちなみに、寺院が、襲われているのは、やはり、金貸しをしていたからですよ。


祠堂銭〔しどうせん〕 と言って、カネを貸し付け利子をとり、それを元手に、寺院の修築をしていたんですね。


〝官領これを成敗す〟


と書いてありますが、成敗できていません。


先ほどから、見ているように、なかなか鎮圧できず、室町幕府は、徳政令を出したりはしませんでしたが、勝手な徳政、私徳政は、またたくまに、近畿周辺に広がったのです。


ちなみに、このときの管領は、 畠山満家 です。


細川 ・ 斯波 ・ 畠山 が管領を務める家だったね。


また、侍所の所司 である 赤松満祐 も鎮圧に乗り出して、兵を出しています。


そんな所も抑えておいて。


ちなみに、将軍は?


実は、当時、5代将軍 足利義量〔よしかず〕 が早世し、後見であった4代将軍の 足利義持 が後継者を決めないで、死去したため、将軍が居ませんでした。


やがて、クジ引きで、6代将軍 足利義教 が就任するのですが、そういった政治的空白をついた、なかなか巧妙な一揆だったのです。


さすが、馬借。


情報通。


そして、天候不順で、人々の生活が苦しかったこともありますし、代替わりには、徳政令を出すモノだ! という考えも、当時にはあって、起きているという要素もあります。


そんな色んな要因があって、起きた日本初の一揆でした。


ちなみに、この史料で、 尋尊 は、一揆を、〝亡国の基〟として、批判的に見ていますね。


アタリマエ。


だって、彼、興福寺の僧でしょ。


興福寺って言ったら、すげー荘園もってますからね。


民衆にとっては支配者だし、圧迫する存在でもある。


さっき見た、奈良柳生郷の四ヵ郷、大柳生、柳生、坂原、邑地〔おうち〕という4ヵ村は、春日大社の荘園の一部でしたからね。


春日大社と言えば、興福寺の真ん前の神社。


興福寺がタイアップしている存在でもある。


ね、尋尊は支配者側なんですよ。


だから、 尋尊 から見れば、民衆は、おとなしく、年貢を納めとけよってカンジなんです。


ちなみに、この正長の一揆は、民衆が、徳政令を求めたので、徳政一揆と呼ばれますが、正長の“土一揆”という呼び方もある。


土民の一揆って言うこと。


土民は、支配者側からの、民衆に対する侮蔑的な呼び方ですからね。


その呼び方を一つ、とってみても、当時の支配者側、抵抗する側の関係が感じ取られます。


さて、この 1428年 正長の徳政一揆 を皮切りに、バシバシ、一揆が起きていきます。



〈1428〉正長の徳政一揆


〈1429〉播磨の土一揆


〈1441〉嘉吉の徳政一揆


〈1485〉山城の国一揆


〈1488〉加賀の一向一揆



じゃあ、次は、 播磨の土一揆 だ。  


播磨国 は、今の兵庫あたりね。


これは、徳政一揆じゃない。


徳政令を求めていません。


なんと、民衆が、播磨国の守護、 赤松氏 に対して、


「守護などの兵隊、支配者はイラナイ、出てけ!」


と要求しています。


すごくない?


兵庫、超カゲキ。


史料、見ようか。


京都の公卿 中山定親 の日記 『 薩戒記〔さつかいき〕 』 です。


〝(正長二年正月二十九日)・・・・或人〔あるひと〕曰はく。播磨国の土民、旧冬の京辺の如く蜂起す。国中の侍を悉〔ことごと〕く攻むるの間、諸庄園代(荘園の代官)加之〔しかのみならず〕(だけではなく)守護方の軍兵、彼等の為に或いは命を失ひ、或いは追落さる。一国の騒動希代の法なりと云々〔うんぬん〕。凡〔およ〕そ土民侍をして国中に在らしむべからざる所と云々。乱世の至なり。仍て赤松入道発向し了〔おわ〕んぬ。〟


〝凡そ土民侍をして国中に在らしむべからざる所と云々〟


ここみて、ああ、播磨の土一揆だな、とピーンときて下さいね。


侍を播磨国からなくすって、すなわち、荘園の代官だけでなく守護やその軍兵も、一揆のターゲットになったということですから。


でも、これは、侍所の所司 赤松満祐 により、鎮圧されています。


赤松氏 の家督相続争いに乗じ、守護の軍兵退去を求める非常に政治的な色合いの強い一揆でした。


ちなみに、〝正長二年〟ですからね、 1429年 だ。


正長の徳政一揆の翌年。


〝旧冬の京辺の如く〟って書いてありますから、正長の徳政一揆の影響を受けて、起きたって書いてありますね。


やはり、作者の 中山定親 は支配者側ですから、〝乱世の至〟と書いているように、一揆を批判的に見ています。


次。


1441年 嘉吉の徳政一揆


さぁ、いよいよ、盛り上がって参りました。


とうとう、幕府が、一揆に屈するときが、、、。


だって、


1428年の 正長の徳政一揆 の時も、幕府は 徳政令出しませんでしたし、


1429年の 播磨の土一揆 も鎮圧しました。


でも、今回は、、、


幕府は、一揆の要求に屈して、徳政令だしちゃうんだね。


というのも、当時、室町幕府の混乱は、最悪でした。


6代将軍 足利義教 が、守護の 赤松満祐 に殺される 嘉吉の乱 が起きています。


で、将軍が代わるわけですから、民衆としては、またまた、“代初め”だ! ってことで、起こすわけですけど、今回は、将軍が殺されての、代替わりですからね。


とても、一揆を鎮圧する余裕がありません。


結果、徳政令を出してしまうんです。


コレ、ある意味、室町幕府の“おわり”を意味します。


室町幕府は、土倉や酒屋から、土倉役、酒屋役などという税を取る一方、納銭方に彼らを登用して、ある意味、金融業者とタイアップする形で、運営をしてきました。


徳政令を出して、借金を帳消しにするっていうのは、彼らを敵に回すことになりますからね。


嘉吉の徳政一揆 の史料をみよう。


京都の公卿 万里小路“までのこうじ”時房 の日記 『 建内記 』 です。


〝近日、四辺〔しへん〕の土民蜂起す。土一揆と号し、御徳政と称して、借物を破り、少分を以て押して質物を請く。ことは江州〔ごうしゅう〕より起る。・・・・今日、法性寺の辺に此事有りて火災に及ぶ。侍所多勢を以て防戦するも猶〔なお〕承引〔しょういん〕せず。土民数万の間、防ぎ得ずと云々。賀茂の辺か、今夜時の声を揚〔あ〕ぐ。去る正長年中(普広院殿の初めの比〔ころ〕)此事有り。すでに洛中に及び了〔おわ〕んぬ。其時〔そのとき〕 畠山管領たり。遊佐故河内守出雲路に於いて合戦し、静謐し了んぬ。今土民等、代始に此の沙汰は先例と称すと云々。言語道断の事なり。〟


〝四辺〟って言うのは、京都周辺ね。


〝ことは江州より起る〟と言っています。


〝江州〟から、この一揆は始まったってこと。


〝江州〟ってどこか、わかる?


そう、


近江国 だ。


琵琶湖周辺。


惣村 が盛んだった近江国。


正長の徳政一揆も、近江の馬借だった。


そのことも、史料の中に書いてあるね。


〝去る正長年中〟って。


普広院殿 っていうのは、 6代将軍 足利義教 のことね。


彼の将軍就任の前後で、 1428年 の 正長の土一揆 は起きていましたからね。

管領の 畠山満家 が鎮圧に向かいましたが、なかなか苦労した。


そんな復習もさせてくれる 嘉吉の徳政一揆 の史料です。


というわけで、


1428年 正長の徳政一揆 も


1441年 嘉吉の徳政一揆 も、 近江国 。


今は、琵琶湖、でかー、なんて、のどかだけど、当時は、日本一、カゲキな民衆の動きがあった地域なんだね。


侍所も、これを鎮圧しようとするんだけれど、あまりに、多勢で、鎮圧しきれない。


一揆は、数万にもふくれあがった、、、


そして、幕府は、徳政令出しちゃった、、、ということです。


あのね、6代義教が暗殺されたタイミングで起こしている、なかなか、民衆も巧妙なんですが、もっとすごいのは、この時、民衆は、自分たちだけじゃなくて、公家や武家の抱えている借金も帳消しにしろ! と叫んでいるんです。


え?


何それ?


つまり、そういう要求をすることにより、当時、公家も武家も借金で困ってましたから、彼らの指示を得ようということ。


なかなか、戦略的。


すごいね、室町の民衆。


結局、幕府は、民衆だけじゃなく、山城国一帯に、徳政令を出しました。


こういう徳政令を「一国平均」の徳政令と言います。


この後、幕府は、歯止めがきかなくなって、バンバン、徳政令を出すようになってしまいますよ。


8代将軍 足利義政 などは、13回も徳政令を出しているほどです。


でも、徳政令にも色々あって、民衆たちに、


「借金の1割を幕府に納めれば、徳政令を出してやろう」


なーんて、調子の良い徳政を出したりもしています。


こういうの 分一徳政令 と言う。


納めるカネは、 分一銭〔ぶいちせん〕 と言います。


1453年の 享徳の徳政一揆 では、この分一銭を納めさせて徳政令が出されていますよ。


また、逆に、幕府は、金融業者に、


「お前達の貸しているカネの何%かを幕府に納めれば、これから出す徳政令の対象外に、お前の業者をしてやろう」


という 徳政禁止令 も出しています。


もう、何が何だか分からない。


世の中、カネ、借金に振り回されています。


こういう状況を律しなきゃイケナイのが政府ですが、まぁ、幕府自体が、翻弄されているカンジがありますからね。


産業、経済、金融の発展に、幕府が対応し切れていない状況が、分かります。


これが、室町幕府の衰退の一因でもあるんですね。


さて、いよいよ、一揆もクライマックスです。


1485年 山城の国一揆 。


山城国 は、今の京都府のあたりね。


史料は、 尋尊 の 『 大乗院寺社雑事記 』 です。


〝(文明十七年十二月十一日)一、今日山城国人集会す。 上ハ六十歳、下ハ十五六歳と云々。 同じく一国中の土民等群集す。今度両陣の時宜〔じぎ〕を申し定めんが為の故と云々。然るべきか、但し又下極上の至なり。

 (同十七日)…中略…両陣の武家衆各引き退き了〔おわ〕んぬ。山城一国中の国人等申し合はす故なり。自今以後に於いては両畠山方は国中に入るべからず。本所領共は各々本の如くたるべし。新関等一切これを立つべからずと云々。珍重の事なり。
 (文明十八年二月十三日)一、今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法〔じょうほう〕猶〔なお〕以てこれを定むべしと云々。凡そ神妙。但し興成〔こうじょう〕(勢いが盛んになる)せしめば天下のため然るべからざる事か。〟



〝文明十七年〟は、 1485年 ね。


国人 ですから、地元に土着している上級武士。


鎌倉時代は、地頭や荘官などを務めた存在だ。


各惣村で有力な指導者でもある。


山城国に住んでいる 国人 が、集結したんだ。


上は60歳の老人から、15、6歳の若者まで。


さらに国人だけじゃなく、一般民衆も集まった。


そして、話し合った。


〝今度両陣の時宜を申し定めんが為〟


〝両陣〟とは、


畠山政長 と


畠山義就〔よしなり〕 の軍勢です。


彼らは、家督を巡り争っている。


ホラ、1467年から11年間に渡って、応仁の乱ってあったでしょ。


それで、争った二人なんですが、応仁の乱が終わっても、まだ、にらみ合って、戦っている。


戦いが行われている場所の民衆からすると、たまりません。


せっかく、農産物作っても、奪われるし、戦いに巻き込まれて、家屋は燃やされるし、、、。


もう、出てってくれよ!!!


ってカンジ。


それを、要求し、畠山両陣営を、山城国から退去させた、ということです。


さらに、荘園などはもとの領主に所有権を戻し、また、 関所 を、今後、新たに、たてちゃいけないぞ、としたのです。


(当時は、幕府や守護大名が、輸送上の要衝に関所を設けて、関銭という通行料をとるようなことをしていました)


すごくない?


さらにすごいのは、翌年 1486年 に山城国の国人たちが、京都南部の 宇治 の 平等院 に集まって、


「国中の掟法〔こくちゅうのじょうほう〕」を定め、山城国での自治支配をすること


を決めたんです。


まぁ、国人って上級武士だから、地元住民による自治っていうのとは、イメージが違うかも知れないけど、自分たちで、決まりをつくって、そして、山城国内について、国人たちから代表者を決め、これを 月行事 というのですが、月行事36人が交代で、行政を行うことにしたってことは、一種、“山城共和国”の誕生です。


惣村 という規模ではありません。


なので 惣国 なんて、言いますよ。


モチロン、幕府の支配なんて、受け付けない、、、。


それを、幕府が本拠を置く京都のある 山城国 でやっているのが、すごい。


だから、当時、そういう自治で、つまり、自分たちで、コミュニティー支配をするんだ、という風潮が、盛り上がっていたことが分かります。


でもね、やっぱ、皆で、自治で支配するっていうのは、ある意味、強力なトップが居ないワケで、国人同士の権力闘争を生みます。


結果、国人の中には、守護と結びついたり、幕府と結びついたりして、権力を得ようとする者もあらわれ、最終的には、 細川政元 が幕府で権力を握ると、彼と結ぶ 伊勢貞陸〔さだみち〕 を山城国の守護として迎え入れようということになり、 8年間 に及んだ、国人たちによる山城国の自治は終了しています。


8年間ではあるけれど、日本の中世において、自治支配を行った地域、時期があるんだ、というのは画期的なこと。


でも、トップの支配者を置かず、皆で自治でやっていく難しさも、歴史の中に刻みました。


さて、ラスト。


1488年 加賀の一向一揆 。


コレは、すごいよ。


加賀国、今の石川県の民衆が、加賀の守護を自害に追い込み、その後、100年間に渡って、守護の支配を受けず、自治支配をしたっていうんだから。


山城が8年間だったのに、加賀は100年。


すげー。


そのヒントは、宗教にあります。


そう、彼らは、宗教により、団結していて、その団結は、山城国より強かったのですね。


史料を見ましょう。


まず、京都の相国寺の日記 『 蔭凉軒日録 』 です。



〝(長享二年六月二十五日)…中略…今月五日越前府中に行く。其れ以前越前の合力勢〔ごうりきぜい〕賀州〔がしゅう〕に赴く。然りと雖も、一揆衆二十万人、富樫が城を取りまく。故〔ゆえ〕を以て、同九日城を攻め落さる。皆生害〔しょうがい〕して、富樫一家の者一人これを取り立つ。〟



〝長享二年〟は、 1488年 ね。


〝賀州〟は、 加賀国 のこと、今の石川県あたり。


で、加賀国の守護 富樫政親 の城、 高尾城 が、一揆勢に取り囲まれている。


越前から、救援に、守護 朝倉氏 が九向かったが、一揆勢は、20万人を越えていて、とても、太刀打ちならなかった。


結果、城は、一揆勢に、攻め落とされ、皆、自害しました、、、と書いています。


そして、富樫一族から 富樫泰高 が名目上の守護に選ばれた、ということ。


スゴイよね。


一揆が、守護 富樫政親 を攻め、自害に追い込み、次の守護を、擁立したということです。


カタチだけとして 富樫泰高 は、守護に就任するんだけど、実権は、民衆が握っているという、、、。


さらに史料です。


本願寺の関係記録である 『 実悟記拾遺〔じつごきしゅうい〕 』 です。


〝百姓とり立て富樫にて候間、百姓のうちつよく成て近年百姓のもちたる国のようになり〟


〝百姓のもちたる国〟っていうフレーズがキーワード。


ああ、加賀の一向一揆だなって反応してね。


で、〝百姓のとり立て〟と言っている。


だから、富樫泰高 は、百姓によって、守護に取り立てられたってこと。


まさに、天地逆転、下剋上の世の中の極みだ。


まるで、百姓が支配している国のようになった、、、と述べています。


この史料の『 実悟記拾遺 』の〝実悟〟とは、蓮如の子です。


この 蓮如 がポイントです。


実は、加賀国は、この蓮如によって、浄土真宗が、広められた地域だったのですね。


浄土真宗と言えば、鎌倉新仏教の一つだ。


親鸞が始めたんだよね。


「 悪人正機説 」が有名。


で、室町時代になると、京都で、信者を増やします。


今も、本願寺って京都にあるけど、アレが、浄土真宗の中心寺院です。


でもね、京都って伝統ある町。


やっぱ、昔からの天台宗の勢力とかが強いんです。


彼らから見れば、浄土真宗なんて、新興宗教だからね。


結果、京都の浄土真宗の寺は、天台宗の 比叡山延暦寺 に焼かれたりする。


そんな時、室町時代の 浄土真宗 の僧侶、 蓮如 は、勢力回復のため、いったん、京都を出て、北陸に向かいます。


そして、越前国(今の福井)に 吉崎道場 という浄土真宗の本拠地を作って布教しました。


蓮如 の布教の方法は、カンタンに浄土真宗の教えを書き記し、庶民に配る。


これを 「 御文〔おふみ〕 」 と言います。


さらに、庶民に、浄土真宗の勉強会を開かせて、学び合いをさせました。


この学習グループを「 講 」と言います。


今も、「講座」なんて、言葉で、普通に僕たち使っていますが、もとは、浄土真宗の学習会だったんですね。


で、当時、 惣 というまとまりのある村という社会ですから、そういう学習グループを組むのも容易だったんですね。


で、越前から、加賀に、浄土真宗の勢いは広まり、武装して、自分たちの宗教を弾圧するなと守護に抵抗したりします。


富樫政親 は、応仁の乱で、弟、幸千代と対立し、戦いますが、その時に、この浄土真宗の武装した民衆の力を借りて戦います。


結果、弟を倒すことに成功。


しかし、その後、富樫政親 は、勢力を強めた浄土真宗の民衆を弾圧し始めたので、今回のような、加賀の一向一揆を食らうことになったのです。


そう、 浄土真宗 は 一向宗 とも呼ばれたので、一向一揆 と言うんです。


さて、富樫氏を傀儡にして、百姓が、加賀国を実質的に支配する状態、いつまで?


1580年 織田信長 の命で加賀を攻めた 柴田勝家 により、その自治は終了させられています。


でも、1488年から、1580年だから、約100年間、加賀は、百姓たちによる自治がつづいたワケです。


8年間で自治を終えた 山城国 と違い、やっぱり、宗教で、一つに団結していたことが、瓦解せず、100年近くも続いた一つの要因でしょうね。


そして、こうした、民衆が、既存の支配者を恐れず、ぶち倒していくような、下剋上の風潮こそ、室町時代に続く、戦国時代の到来を後押ししたとも言えます。


ね、民衆が、時代を動かしたんだよ。


これが、室町時代という、波乱の時代なんです。


さて、民衆が、これだけの動きをしたのには、やはり、農業、産業の発達がありました。


それを最後に見ておきましょう。


農業の発達は、先ほど見ましたね。


鎌倉時代 に 二毛作 が、近畿、西国などの先進地域で始まりましたが、


その 二毛作 が、 室町時代 になると、 全国 に広がる。


さらに、 室町時代 には、近畿、西国の先進地域で 三毛作 も始まる。


三毛作は、米、麦、そして、、、ソバ でしたね。


これだけのことが出来るのは、水車などを使った大規模な灌漑技術があってこそだ、と感心して記録に残しているのが、1419年 の 応永の外寇 後、日朝関係修復のため 1420年 来日した 朝鮮使 の 宋希璟 『 老松堂日本行録 』 です。


尼崎で見た 三毛作 の様子です。


そして、三毛作が出来るようになったのは、米の品種のバリエーションが増えたから。


早稲〔わせ〕


中稲〔なかて〕


晩稲〔おくて〕


です。



5月前後に田植え、9月刈り取りという早い時期に蒔くのに適した品種が 早稲〔わせ〕 。


普通なのが 中稲 。


7月前後に田植え、11月末に刈り取りという遅い時期の品種が 晩稲 です。


君は、晩稲?


また、粒が細長く、日照りや災害に強く、多収穫がのぞめる インドシナ半島 など、 東南アジア産 の 大唐米 という品種が広まります。


大唐米 は 赤みを帯び 、 中国 から伝わったため、 赤米〔あかごめ〕 ・ 唐法師〔とうぼし〕 とも呼ばれました。


同じく多収穫の めくろ という品種もありましたね。


また、肥料も、鎌倉時代の 刈敷〔かりしき〕 ・ 草木灰〔そうもくばい〕 に加えて、室町時代には、人間の糞尿を使った 下肥 も広まります。


鎌倉時代から牛や馬を使って、田畑を耕す 牛馬耕 が行われていましたが、室町時代になって、牛馬に

引かせる 馬鍬〔まぐわ〕 も進歩して、さらに効率がよくなります。


こういう、農業生産力の向上が、民衆が活発になる背景にあったワケです。


さらに、こうして、農業生産力があがると、当時、 永楽銭(永楽通宝) など銅銭(中国から輸入した 元銭 や 明銭)が普及し、貨幣経済が進展してますから、農業だけでなく、他のことで、金儲けをしようという動きも民衆の中に見られます。


手工業ですね。


例えば、蚕 と蚕の食べる 桑 をを育てて、生糸をつくり、絹織物を作ろうという動き。


室町時代は、さまざまなブランドが生まれます。


丹後縮緬〔たんごちりめん〕


西陣織


加賀絹〔かがきぬ〕


などですね。


縮緬って言うのは、縮んで出来るシワを利用して、デザインを深めた高級な一品です。


西陣織は、応仁の乱で西軍が陣地とした地域で作られたので、そういうネーミング。


高級絹織物の代名詞だね、西陣織って。


そして、 加賀絹 は将軍にも献上されたことで知られる高級ブランドでした。


ただし、これらの絹織物は、残念、高級ブランドなんで、国内産の生糸を原料として、使うことは出来ませんでした。


まだまだ、日本製の生糸は粗悪だったんです。


明からの輸入生糸、白糸〔しらいと〕と言いますが、原料はそれに頼っていました。


だから、明からの重要な輸入品に生糸とがあるんだよ。


国産の生糸は、江戸時代以降、増大していきます。


さて、庶民が生産したのは、生糸、絹織物だけじゃない。


苧〔お〕〔からむし〕 と呼ばれる植物を育て、植物繊維の糸を紡ぎ、麻の織物を織りました。


越後縮〔えちごちぢみ〕 などが、代表的。


また、絹・麻、以外に、 綿 もあるよ。


日朝貿易で、木綿がもたらされ、保温性に優れた新たな衣料として、もてはやされますが、国内でも 16世紀 ころ、1500年代になると、 三河 を中心に生産が拡大していきます。


次、衣料の次は、 紙 。


楮〔こうぞ〕 や 三叉〔みつまた〕 という植物を育て、その植物繊維から、和紙 を漉くんだよ。


つまり、製紙。


讃岐・備前・備中など、瀬戸内海を挟んだ地域で、 檀紙〔だんし〕 、


播磨の 杉原紙〔すいばらがみ〕


美濃の 美濃紙〔みのがみ〕


越前の 鳥の子紙〔とりのこがみ〕


などが有名。 



また、 漆の木 を育てて、その樹液でお椀とかの塗料に使う。



藍という草 を育てて、その葉を発酵させ、染料にする。



茶を育てる。



灯明用の油である 荏胡麻 を栽培する。

(江戸時代以降は、菜種に代わられますが)



海では、塩をとる。


これまでの海水を汲んできて、浜にびちゃびちゃ蒔いて塩をとる 揚浜法 から、


海の潮の干満を利用し、囲いに塩水を引き込む 入浜法 が開発され、 入浜塩田 がつくられ、製塩技術もあがる。


備前長船〔おさふね〕 では、鎌倉以来の 刀剣 製作が継続して、有名。


さらに、美濃の関 でも大和国から志津三郎という刀工が移住し、関の刀剣 という有名な刀剣ブランドを生む。


こんな風に、産業が、活発になったんだよね。


売る物が沢山あるから、市場も盛況です。


鎌倉時代は、 三斎市 と言って、月に3回、市が開かれましたが、3回じゃ足んねー。


室町時代は、 六斎市 ですよ。


三重県の四日市市や


千葉県の八日市市場市


滋賀県の八日市市


島根県の六日市市


などが、当時のなごりを伝えます。


また、長期に開かれる 大市 も。


京都の 三条 や 七条 に設けられた 米場〔こめば〕 のように、


淀 の 魚市 のように、

 

特定の商品だけを扱う市も。


さて。


こうした市場では、行商人が、活躍。


「これ、いらんかね~」と呼び売りをする 振売〔ふりうり〕 、


背中に、売り物を背負って、行商をする 連雀〔れんじゃく〕商人 、


女性の行商人も居ましたよ。


頭に炭や薪を乗っけて、売りあるいた 大原女〔おはらめ〕 、


白布を頭に巻き挙げた桂包〔かつらづつみ〕が特徴の、 桂女〔かつらめ〕 、


桂女 は、鮎や朝鮮飴を売り歩きましたよ。


鮎を川で獲る鵜飼いの集団に属する女性たちでした。


定住し、 見世棚〔みせだな〕 と呼ばれる店舗を構えて、商品を棚に陳列し、販売を行う 店売〔みせうり〕 も居ましたね。


彼らは、商売を、独占的にやろうとし、有力な公家や寺社を 本所 と仰ぎ、営業税を払うことで、他国の商売人が入ってくるのを防ごうとしました。


これを 座 、その市場、丸ごと保護の対象であれば 市座 と言うね。


営業税は、座役 、または、 市座銭 とかって呼ばれます。


天皇家 関連を本所と仰いだ商人を 神人〔じにん〕


寺社 関連を本所と仰いだ商人を 供御人〔くごにん〕 と特に呼びました。


有名な関係は、


石清水八幡宮 に保護を求めた 大山崎 の 油座 です。


大山崎は、 山城国 ね。


畿内・美濃・阿波など10ヵ国近い範囲で油の独占的販売とその原料である 荏胡麻 購入の独占権を得ていましたよ。


ちょっと史料紹介。


〝石清水八幡宮大山崎神人の公事ならびに土倉役の事、免除せらるる所なり、はたまた摂州道祖小路・天王寺・木村・住吉・遠里小野ならびに江州小秋散在土民等、恣〔ほしいまま〕に荏胡麻を売買せしむと云々。向後かの油器を破却すべきの由、仰せ下さるる所なり。仍って下知件の如し
 応永四年五月廿六日 沙弥(花押)〟

史料は、 『 離宮八幡宮文書 』 。


石清水八幡宮 を 本所 と仰ぐ離宮八幡宮の人たち、すなわち 神人 らが、本来負担すべき、 公事 や 土倉役 を免除され、さらに、 油 の販売と、その原料となる 荏胡麻 の購入を行う権利を認めている内容が読みとれますね。


他にも、


京都の 北野神社 を本所と仰いで酒造りをした 北野神社麹〔こうじ〕座 、


京都の 祇園社(八坂神社) を本所と仰いで綿造りをした 祇園社綿座 、

(祇園の“祇”は、示+氏)


有力公家である 三条西家 を本所と仰いで 苧 の購入、 麻 の製造を行った 青苧座〔あおそ〕 、


朝廷の 近衛府 を本所として、米・鋤鍬・呉服の専売権を得た 四府駕輿丁〔しふかよちょう〕座 、

(彼らのルーツは、天皇の輿を担ぐ人々の集団)


興福寺 を本所として、絹、綿、魚の専売権を得た 興福寺絹座 、興福寺綿座 、 興福寺魚座 などがあります。


しかし、この室町時代の 座 のシステムは、やがて崩壊、、、。


1467年~77年の応仁の乱で、既存の権力者、権威であった有力公家、寺社が没落するからです。


また、応仁の乱後、展開した戦国時代において、戦国大名が、自国の商業を活性化するために、自由競争をさせようと、楽市令を敷き、他国の商人の出入りを許可する政策を採ったため、 座 による保護は、崩壊していきました。


江戸時代になって、商業、流通を統制するために、江戸幕府が、 株仲間 というのを商人たちに結成させて、営業の独占システムを再び、つくることになりますけどね。


最後に、流通について。


鎌倉時代、年貢の保管や輸送にあたった業者に 問(問丸)というのがありました。


これが、室町時代になって、細分化します。


陸上輸送 は 馬借 ・ 車借 、


交通の要地に居て、商品の仲介、委託販売もやった 問屋〔といや〕 、

(鎌倉時代に年貢や商品の保管・輸送にあたっていた 問丸 から 口銭 という手数料をとって売りさばく卸売業者)


そして、廻船〔かいせん〕 という船を使って行商を行った海運業者です。


また、鎌倉時代から、遠方に送金するさい、金を 割符〔さいふ〕 という紙に変えて行う 為替〔かわし(せ)〕 という制度が利用されてきましたが、それを扱う商人である 割符屋〔さいふや〕 ・ 為銭屋〔かえぜにや〕 も、この活発な流通を背景に、手数料を取って、ますます繁栄しました。


特に遠隔地では、都に年貢を納めるのに、現物では、不便。


一度カネに換えて、カネで納める 代銭納 も盛んになっていましたしね。


ハイ。


ざざーっと、鎌倉時代の復習も含んで、室町時代の農業、産業について、やりました。


すげー、多かったね。


まずは、この多さを実感しよう。


そして、ああ、室町は、産業、経済、流通の時代なんだと実感しよう。


そして、そうしたことを背景に、惣村や自治を標榜する国、惣国が生まれた、、、、。


室町時代のイメージ、立体的になってきたでしょうか。


続きは、また次回。



[ 参考文献 ]

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全国歴史教育研究協議会編『改訂版 日本史B用語集』山川出版社〈2009〉
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永原慶二ほか監修『増補ジュニア版 日本の歴史2 武士の社会』〈1987〉
古川清行『読む日本の歴史4 武士の世を築いた人々』あすなら書房〈2009〉
古川清行『日本の歴史7 室町幕府と民衆の成長』小峰書店〈1998〉
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木下康彦ほか編『詳説世界史研究』山川出版社〈1995〉
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三省堂編修所編『広辞林』三省堂〈1979〉