さて。


こうしたことで、 密教 と、 山岳信仰 は、タイアップすることで、共に日本の信仰の一つとして、発展したのですね。


こんな風に、日本の宗教の特徴として、信仰同士が、排他的にならず、認め合い、果ては融合するような傾向を感じます。


信仰って神様を信じるわけだから、有る意味、自分の神様を信じている以上、他の宗教の神様は、ニセモノで、神の名をかたる不届き者なワケじゃないですか。


でも、日本は、和の精神なのかな、


それとも、複数の宗教が併存するのに合理的な理由をつけたがるのかな、


信仰同士が、様々な理由をつけて、併存する道を選ぶんですね。


もともと、日本の信仰が、唯一神を信仰するのではなく、八百万の神様を信仰することも、その背景にあるのかも知れません。


そうしたことの、顕著な現れが、 神仏習合 です。


神仏習合 の流れを知っておこうか。


日本に、仏教が伝わった 538年 または 552年 。


ご存知の通り、仏教は、朝鮮は百済の 聖明王 から日本の 欽明天皇 に伝えられたモノですが、日本には、古くからの宗教がありました。


それが、 神道 です。


今も、この二本立てだよね。


仏教 と 神道 。


仏教は 寺 。


神道は 神社 です。


で、別々の宗教なんですが、これが、奈良時代に融合を始めるのですね。


神仏習合と言います。


例えば、神社の境内に寺を建てるのです。


これを 神宮寺〔じんぐうじ〕 と言います。


そこで、お経を唱えるんです。


変なカンジ?


神社の境内なのに、お経が聞こえてくる...


神前読経〔しんぜんどきょう〕 と言います。


神社内に、寺を造ることで、神に守られながら、安心して、仏教修行出来ますよ、という思想。


神様も、ありがたいお経を聞いて、気分を良くするんだ、という思想です。


なんて、都合の良い解釈ッって思いますけどね。


日本人らしい?


こういう神様のことを“ 護法善神 ”って言ったりします。


また、寺の近隣に、神社を建てて、寺を守ってくれる神様、、、


そういう発想で建てられた神社を 鎮守〔ちんじゅ〕 って言います。


滋賀 は、比叡山延暦寺のふもとに建てられた 日吉社〔ひえしゃ〕 、


和歌山 は、高野山金剛峰寺の 丹生社〔にふつしゃ・にうつしゃ〕( 丹生明神 ) などが代表的な鎮守です。


他にも、いっぱいあります。 


こんな風に、神道と仏教が、共立しているんだね。


共立って言うか、この融合は、仏教サイドの戦略という見方も出来ます。


だって、神道、すなわち神社は、地域に、結構あります。


日本に新たに伝わった仏教にとって、この神社というインフラ、、、利用しない手はない。


すでにある神社と融合することで、具体的には、神社の境内に 神宮寺 を建てさせて貰うことで、仏教は、日本各地に、広がっていくことが出来た、と捉えることも出来るんです。


そういう言い方すると、なかなか、したたかでしょ、仏教。


でね。


この 神仏習合 の風潮が始まった奈良時代。


まだ、仏教の方が立場が上だ、とか


神道の方が上だ、


とか、そういうのはありません。


あくまで、対等。


ハイ。


弘仁貞観文化になりました。


対等は続いています。


この弘仁貞観文化期の、神仏習合についての特筆すべき点は、一つ。


神仏習合をカタチにしたような、仏像が作られました。


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薬師寺僧形八幡神像 と言います。


八幡神 っていうのは、第15第応神天皇が結びついて、まつられた神様です。


神様って、基本、人間の姿をしています。


見てみて。


この像は、人間のカタチでしょ。


だから、八幡神なんですが、袈裟を着て、僧侶の格好をしています。


神と仏のフュージョンだ。


神秘的。


ね。


弘仁貞観文化にぴったりの、神秘的な 薬師寺僧形八幡神像 でした。


さぁ、これが、国風文化になります。


平安時代中期です。


この国風文化になると、仏教が上で、神道が下...


という 本地垂迹〔ほんじすいじゃく〕説 という考え方が、広まります。


奈良時代、弘仁貞観文化は、イーブンだったのにね。


上、下っていうよりも、仏が、真実の姿で、神は、別の姿として現れた存在だってこと。


つまり、日本に居る神様は、仏様が日本人にわかりやすい姿に変身して、現れた姿なんだ、、、と考える思想です。


つまり、神様は、仮の姿ってこと。


ホンモノは、仏様なんだ。


“仮の姿”のことを、 権現〔ごんげん〕 と言います。 


例えば、 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕 という天皇の祖先神がいる。


この神様は、 大日如来 の仮の姿である...


という理解です。


他にも、和歌山の 熊野三山 は、日本古来の神が宿る山として信仰されてきましたが、真実の姿は、仏なのだと言うことで、


本宮 が 阿弥陀仏


新宮 が 観音菩薩


那智大社 が 勢至〔せいし〕菩薩


といった具合です。


( 阿弥陀仏 … ブッダと同様に、もとはインドの王子。念仏を唱えれば極楽浄土に行けますよ、と説く存在)


( 観音菩薩 … あらゆる苦しみから救済してくれる、様々なモノに変化する)


( 勢至菩薩 … 智慧の光明で全てを照らし、地獄へ落ちないよう人々を救う)


( 白鳳文化 の 阿弥陀三尊像 は、この阿弥陀如来・観音・勢至のセット)


さて。


この、仏が真実の姿...という、本地垂迹説という考え方、逆転する日がやってきます。


鎌倉時代です。


ビックリしますが、日本の神こそ、世界の、いや、宇宙の中心で、インドの仏は、神が仮の姿で現れたモノ、、、とする考え方です。


これを 反本地垂迹説 と言う。


または、神本仏迹説 と言います。


どーして、こんなことになったんだ?


ヒントは、鎌倉時代ってこと。


そう。


神様の地位があがる出来事があったよね。


鎌倉時代の


1274年 文永の役


1282年 弘安の役


二度、モンゴルに攻められていますが、日本は、撃退しています。


イヤ、撃退って言うか、台風が直撃して、モンゴルの船が沈んだんだ、勝手に。


モンゴルが攻めてくる時、幕府も朝廷も、メッチャ、神社に拝んでいました。


結果、“ 神風 ”が吹いた!


日本は、神の国である!


そんな意識が高まったんだね。


それで、神が中心で、仏は仮の姿...


なーんていう、反本地垂迹説 が鎌倉時代に、生まれたんだね。


この考え方に基づいた神道に、 伊勢神道 があります。


伊勢神宮の神官 度会家行〔わたらいいえゆき〕 により、創始された神道です。


度会家行は、この理論を『 類聚神祇本源 』にまとめました。


ただし、鎌倉時代になって、仏が主という、 本地垂迹説 が一切、なくなったワケじゃないからね。


本地垂迹説 もあります。


その考え方に基づいた神社も、鎌倉時代にあります。


天台宗系 の 山王神道( 日吉神道 ) や


真言宗系 の 両部神道 です。


忘れずに。


ちょっと、仏教から、神道を中心とした話になっていますが、鎌倉以降の話もカンタンに。


神道にとっては、嬉しい、 反本地垂迹説 ですが、この傾向は、鎌倉以降、室町も続きます。


朝廷に神道の講義を行ったりした 吉田兼倶〔よしだかねとも〕 は、神道を中心に儒教や仏教の教えをミックスさせた 唯一神道 を成立させています。


京都左京区の 吉田神社 は彼の神社です。


さらに、江戸時代。

神道に 朱子学 の考え方を加えた 垂加〔すいか〕神道 が、 山崎闇斎〔あんさい〕 により唱えられまし

た。


天皇家を中心とした君臣道徳を協調し、仏教のエッセンスを抜いた 吉川神道 が、 吉川惟足〔これたり〕 により唱えられました。(最初、京都に出て吉田神道学び、後に、幕府の神道方)


儒学、仏教のエッセンスをぬいた純粋な 復古神道 が国学者の 平田篤胤〔あつたね〕 により唱えられました。


平田篤胤 は、国学の大成者、 本居宣長 の没後門人(死後、弟子となった)なんて名乗る人です。


国学は、古事記や万葉集など、古い日本の古典を学んで、日本人が元来もっている精神とはどんなモノか、探究する学問です。


平田篤胤の弟子には、越後国柏崎で乱を起こした 生田万〔いくたよろず〕 が居ます。


生田万も国学者。


大塩平八郎 が1837年に大坂で乱を起こしますが、それに影響されて、生田万の乱 が起きています。


ちょっと、全くカンケーない話までしてしまいましたが、


良いかな。


整理しとくね。



神仏習合。



〈奈良〉


神仏習合スタート。


神宮寺

鎮守 の建設


神前読経

護法善神 の考え方


仏も神もイーブン




〈弘仁貞観〉 


薬師寺僧形八幡像 が作られる


まだイーブン




〈国風文化〉


本地垂迹説 広まる


仏が主で、神が従


神は、仏が姿を変えた仮の姿

= 権現




〈院政期〉


とくになし




〈鎌倉〉


反本地垂迹説 広まる


… 伊勢神道(度会家行)




〈室町〉


… 唯一神道(吉田兼倶)




〈江戸〉


… 垂加神道(山崎闇斎)


… 吉川神道(吉川惟足)

… 復古神道(平田篤胤)




という流れ。


しかし、神仏習合にも終わりが。




〈明治維新〉


1868年 神仏分離令 。


よーするに、明治政府は、明治天皇中心。


つまり、神中心。


神社を超タイセツにしないと。


その尊い神社に、他の宗教が融合して入り込んでいるなんて...


不純物は除かねばッ


ってことで、神仏習合の風習をやめるように、政府が通達をだしたのです。


これが、神仏分離令〈1868〉 。


神仏判然令 とも言います。


さらに、 明治政府 は、 大教宣布の詔〈1870〉 を出して、神道を国教化しました。


ここに、 神仏習合 は終わるのです。


そして、“ 不純物 ”扱いをされた寺は、神社の神官や、神社を重んじる国学者などから、攻撃を受けました。


仏像は壊され、寺の建物も破壊されました。


廃仏毀釈と言います。


日本全国の半分の寺が潰れた、と言います。


とんでもない話。


興福寺の五重塔が


民衆も、江戸時代、寺請制度などで、寺に縛られていた過去があるので、国学者に先導されるがママに、破壊に加わった集団も居たようです。


なんとも、極端な、日本人の行動...。


しかし、1875年に政府が「信教自由の保護」という通達が出され、また仏教界でも、浄土真宗僧 島地黙雷 による仏教復興運動が起きて、廃仏毀釈 の嵐は過ぎました。


神仏習合は、現在、なくなったわけではなく、今も、ゆるいカンジで、続いています。


それは、神宮寺や鎮守が残る...ってことだけじゃなく、君、そのものが神仏習合じゃないですか。


いや、違うかも知れないけど。


大晦日に来年の幸せを祈って除夜の鐘をつきに 寺 に行き、


翌朝には、今年の幸せを祈って初詣に 神社 に行きませんか。


行かなかったら、ゴメン。


そんな風に日本人は、ゆるーく、神仏習合を受け入れて、今に至るのです。


さぁ。


神仏習合で、近代まで喋ってしまいました。


戻れ、戻れ、


弘仁貞観文化に戻れ。


平安前期 の 弘仁貞観文化 です。


絵画ね。


やはり、密教の影響そのままです。


密教は、極楽の仏と直接繋がって、この世で、仏と一体化しようという教え。


しかし、極楽の仏とどうやって繋がるんだ。


仏のイメージが出来ないと、頭にも浮かべられないぞ。


そこで、仏のイメージ。


仏の教えのイメージを絵にするんです。


これが、“ 曼荼羅〔まんだら〕 ” 。


「 神護寺両界曼荼羅 」


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神護寺は京都の寺です。


これは、「 教王護国寺両界曼荼羅 」


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教王護国寺は、東寺とも。


空海が、嵯峨天皇から賜った寺だ。


両界曼荼羅の“ 両界 ”とは、2つの世界のイメージです。


一つは、胎蔵界 。


一つは、金剛界 です。


胎蔵界は、仏の慈悲をイメージした世界の様子です。


母体の中で胎児が慈しみ育てられていくように、仏の愛にみちた世界の中で、人が成長していく...悟りを開けるように...そんなイメージです。


金剛界は、仏の強い力をイメージした世界。


金剛石のような強い力で煩悩をうち破るのだ、そういうイメージ。


密教の修業には欠かせない、 曼荼羅 でした。


そして、 曼荼羅 と並んで、“ 不動明王 ”図も欠かせません。


不動明王は、さっき出てきた菩薩につぐ格の存在です。


もともとは、インドのバラモン教やヒンドゥー教など異教の神だったのですが、仏に従うことになり、大日如来の命令で、従わない連中を力づくで従わせたり、修業の邪魔をする輩をぶっ飛ばす役割をもっています。


なので、すごい、コワイ顔。


密教にピッタリ?


三つ紹介しましょう。


園城寺不動明王像


通称 黄不動


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高野山明王院不動明王像


通称 赤不動


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青蓮院不動明王像


通称 青不動


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実は、 黄不動 については、 園城寺 のモノではありません。


園城寺のモノは秘仏中の秘仏で、印刷物としても、なかなか表に出てこない代物です。


この絵は、12世紀に、つくられたコピーです。


京都の曼殊院〔まんしゅいん〕 に有ります。


赤不動は、平安前期とも、鎌倉時代初めの作とも言われ、


青不動は、11世紀頃か、と言われ、ハッキリしません。


黄不動は、弘仁貞観文化、それだけ、ハッキリしているので、抑えておいてね。


それから、弘仁貞観文化期の有名な画家として、 百済河成〔くだらのかわなり〕 という人物も抑えておいてください。


平安時代の世俗画を描いたと言われます。



次、弘仁貞観文化の仏像。


特徴は、何と言っても、


一木造 で


翻波式 だと言うこと。


一本の木から、コツコツ彫りだしていって、製作した像です。


山に籠もる密教の世界にピッタリ。


現実的な話、密教の神秘的な像を造るのに、そういった技法が一番、表現力豊かにできるんですよね。

木って、彫れば、かなり細かい表現できるし。


立体感のある、まるで、動き出しそうな、仏像。


一木造 だからこそ出せる感じです。


そして


翻波式 。


仏像は、衣服を身にまとっていますが、ヒラヒラの部分とか、超リアル。


これが、 翻波式 。


やはり、 一木造 が故に出来る表現技法だね。


では、代表的な仏像を紹介。


ボクの一番好きな仏像。


観心寺如意輪観音像



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観心寺は大阪府の寺。


空海の一番弟子が開基とも。


日本で唯一、北斗七星を祭っていると言う神秘的な寺。


この如意輪観音像の腕の自由な動き見てよ。


ボクもこうなりたいと常々思っています。


腰が痛いので、ムリか。


次。


法華寺十一面観音像


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法華寺は奈良の寺。



次、2つまとめて。


左 神護寺薬師如来像

右 元興寺薬師如来像


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両方とも薬師ね。


病気を治してくれる。


片手に薬壺をもっているので、注目。


も1こ、薬師如来を。


新薬師寺薬師如来像 です。


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僕が言うのも失礼ですが、実に、良い目をされていらっしゃる。


見てみてくださいね。


そして、やはり左手に薬壺をお持ちです。

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そしてラスト2つ。


弘仁貞観文化と言えば、奈良の 室生寺 です。


室生寺金堂釈迦如来像

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室生寺弥勒堂釈迦如来像

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以上です。



仏像の次は、 書道 いきますか。


どんな書か。


カンタンに説明して。


決まってる。


モチロン、 唐風 だ。


弘仁貞観なんだから。


これを 唐様〔からよう〕 と言う。


空海

嵯峨天皇

橘逸勢


が、 三筆〔さんぴつ〕 と言われて、書の名手です。


中国の 王羲之〔おうぎし〕 や 顔真卿〔がんしんけい〕 という書家を手本に、堂々とした、しっかりした書が特徴です。


空海 『 風信帖〔ふうしんじょう〕 』




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嵯峨天皇 『 光定戒牒〔こうじょうかいちょう〕 』

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などが代表作。


特に、空海の書は、手本として後世まで伝わり、


字の上手い空海は、今でも人々に知られるところです。


“ 弘法も筆の誤り ”、なんて小学生でも口にする言葉だもんね。


弘法大師って空海のことね。


空海の書は、大師流〔だいしりゅう〕 とも呼ばれます。


さて。


国風文化になると、かな文字の影響で、流れるような書体になります。


これを 和様〔わよう〕 と言う。


上代様〔じょうだいよう〕 とも言いますね。


この名手も三人。


三蹟〔さんせき〕 と呼ばれる3人の書のプロ。


小野道風〔おののとうふう(みちかぜ)〕


藤原佐理〔さり(すけまさ)〕

藤原行成〔ゆきなり(こうぜい)〕


これは、 藤原佐理 の 『 離洛帖〔りらくじょう〕 』。

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さっきの唐様に比べて、流れるような文字になっているでしょ。


作品を整理しておくと、



小野道風 

『 秋萩帖〔あきはぎじょう〕 』

『 屏風土代〔びょうぶどだい〕 』

『 三体白氏誌巻〔さんたいはくししかん〕 』




藤原佐理
『 離洛帖 』





藤原行成

『 白紙誌巻 』

『 蓬莱切〔ほうらいぎれ〕 』



小野道風は、遣唐使を嫌がって島流しになった 小野篁〔おののたかむら〕の孫です。


って言うか、小野妹子 の子孫だ。


その方が分かりやすいか。


小野道風の兄が、 小野好古〔よしふる〕 だからね。


源経基 と一緒に、 藤原純友の乱〈939〉 を鎮圧したことで有名。


こんな、やらかい字を書いて、身長180センチもあったらしい...って意外だけど、小野好古の弟って聞けば、なんか、納得いく?


カンケーないか。


藤原行成 の書は、世尊寺流〔せそんじりゅう〕と呼ばれ、


ここから、鎌倉時代~室町時代に活躍した 尊円法親王(伏見天皇の第六皇子) が 青蓮院流 を派生させます。


世尊寺流 は1500年代に衰退しますが、


青蓮院流 は江戸時代においても、御家流 と呼ばれ、現在の 和様 書道に繋がっています。


この流れは、和様の話ね。


というワケで。


弘仁貞観文化の 三筆 、唐様 。


国風文化の 三蹟 、 和様 。


整理しておいてね。



ちょっと、国風まで進んでしまいましたが、またまた、弘仁貞観に戻って。


戻って。


弘仁貞観文化の文学ね。


まず、詩です。


ポエム。


ポエムでポンです。


詩と言われたら、2バージョンね。


漢詩



和歌


で、弘仁貞観文化は、どっちが流行るの??


もう、いいよね。


弘仁貞観は、唐風 なんだから、 漢詩 でしょ。


初めて、勅撰漢詩文集が作られました。


『 凌雲集〔りょううんしゅう〕 』と言います。


嵯峨天皇 の命で、小野岑守〔みねもり〕 らが、814年に編纂。


小野岑守 は先ほど出てきた、小野篁 のお父さんだ。


つまり、小野道風の、ひいじいちゃん。


『 凌雲集 』は、初の勅撰漢詩文集だからね。


え?


それって、『 懐風藻 』じゃないの?!


って思ったあなた、なかなか良い。


『 懐風藻 』は、最古の漢詩文集なんです。


初の漢詩文集って思って貰っても、まぁ、いい。


で、それは、奈良時代です。


今回は、初の“勅撰”漢詩文集だから。


天皇の命ってコト。


整理すると。


〈天平文化( 奈良 )〉

初の漢詩文集

『 懐風藻 』〈751〉

編者は、淡海三船 か、 石上宅嗣 か。


〈弘仁貞観( 平安 )〉

初の“勅撰”漢詩文集

『 凌雲集 』〈814〉

編者は、小野岑守


いいかな。


この初の“勅撰”漢詩文集のあと、


立て続けに、さらに2つ出ています。


つまり、


『 凌雲集 』〈814〉


『 文華秀麗集〔ぶんかしゅうれいしゅう〕 』〈818〉


『 経国集〔けいこくしゅう〕 』〈827〉


という、勅撰漢詩文集の流れです。


やっぱり、弘仁貞観は、漢詩の時代だね。


何事も唐風を重んじた 桓武天皇 ・ 嵯峨天皇 。


良い文学を国をあげて、やれば、国は安定する、、、


そんな思想も持っていました。


そんな思想が、『 凌雲集 』の序文に書いてあるんだけど、


これを 文章経国〔もんじょうけいこく〕思想 と言います。


仏教を大事にすれば、国が安定する...


鎮護国家の、文芸版って感じ。


今、文芸部の人。


国を安定させるつもりで、部誌でも高文祭でもガンバッテ下さいね。


そして、漢詩文集としては、この3つにプラスして、


『 菅家文草〔かんけぶんそう〕 』。


これは、 菅原道真 の個人的な漢詩文集


醍醐天皇 に献上したそうです。


で。


その他、漢詩以外の文学ですが、



薬師寺の 景戒〔けいかい・きょうかい〕 による『 日本霊異〔りょうい〕記 』。


日本初の説話集でした。


仏教説話が中心。



菅原道真の『 類聚国史 』。


これは、漢詩じゃなくて、歴史書。


720年『 日本書紀 』から『 日本三代実録 』までの日本の歴史書6本、すなほち、 六国史〔りっこくし〕 を記事別、年代別に並べ直して編纂したモノです。



最後に、教育。


文芸が大事にされた時代ですから、当然、もっと大きなくくりで、学問も大事にされたんです。


貴族の弟が通う都の学校を 大学 と言います。


地方豪族の子弟が通う地方の学校を 国学 と言いましたね。


大学は、 式部省 の管轄。


国学は、国司 により統轄されています。


でね。


弘仁貞観文化期、すなわち、平安前期ですが、貴族たちは、学問を大事にする流れの中で自分たちの子弟が、大学に通いやすいように、大学の近くに、寄宿舎を建てました。

あのね、大学に一つ建てられたワケじゃなくて、貴族ごとに建てられたんだよ。


大学に通わせるため、大学付近の土地を手に入れて、別荘みたいの建てたんだ。


大学別曹〔べっそう〕 と言う。


今なら、大学生は、一月5万円とかで、アパート暮らしでしょうが、貴族ってスゴイよね。


すげーリッチ。


代表的なモノをあげとくと、


藤原氏 - 勧学院


和気氏 - 弘文院


在原〔ありわら〕氏 - 奨学院


橘氏 - 学館院


僕は、高校生の頃、


富士山で考えて


ワケの分からぬ英語構文


奨学金あり


学館院で立ち話


というので覚えてました。


すごく、すんなり頭に入ったんだけど、どうでしょう。


藤原氏の勧学院については、 藤原冬嗣 。


そこまで、抑えておいてね。


さて。


そんな別荘持ちという、リッチな大学生が、学ぶ教科は...。


明経道〔みょうぎょうどう〕


コレ、どんな教科だ?


そう、 儒学 です。


明法道〔みょうぽうどう〕は?


そう、 律令 だ。


紀伝道は?


そう、中国史や中国文学だね。


この紀伝道は、文章道〔もんじょうどう〕 とも言うよ。


教官は、 文章博士 だ。


菅原氏や大江氏が歴代の 文章博士 ね。


数学とかないの?


あるよ。


算道 と言います。


教官は、算博士と言う。


小槻〔おづき〕氏や三善氏です。


こうして見てくると、弘仁貞観文化は、やはり貴族の文化だね。


それは、前代の 天平文化、白鳳文化、飛鳥文化からの流れと一緒。


でも、徐々に、文化が、個人的な営みで、行われてきている感じが感じられたでしょうか。


文学にしても、宗教にしても。


これが、やがて、民衆レベルまで、下っていく、、、そういう流れ。



では、それを意識して、国風文化を見てみましょうか。