先日は、木更津の拓大紅陵高にて、藤岡信勝先生による「歴史を学び直す会」に、久しぶりに参加しました。
「ペリー来航」の単元で、私の大好きな幕末時代に入ってきましたので、大変興味深く参加しました。
ペリーとの交渉に応じた、幕府側の林大学頭が非常に優秀で、対等に交渉していたことを初めて知り、感動しました!
『墨夷応接録』が最近、現代語訳されたことが大きいとのこと。
これからも、生の現場の詳細を知り、当時の人々の息づかいや苦楽を感じ取れるような、真実の歴史を学んでいき、自らの生きる指針、政治の先例としていきたいです!
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<自分用備忘録>
- アメリカのペリーが日本に来た目的は…中国マーケットに入る拠点が欲しかった
- 当時イギリスがすでに中国に浸透していた。そこに勝つには、太平洋直行ルートが欲しい。ゆえに日本に寄港地が欲しかった
- 捕鯨船;クジラのことを“泳ぐ油“と言っていた。身は捨てて油だけ取って、帰っていた。産業革命で、油が必要になった。資本投下したら工場を夜中も動かしたいので、灯りが必要(獣の脂は悪質)となり、捕鯨業が盛んになった
- 当時日本は、異国船打払令(1825)、薪水供与令(1842)
- ペリーは海軍のエリート
- 当時、米 Street Times に、日本は野蛮な国だ、との誤解があった(捕虜を残虐に扱った??小さなカゴに閉じ込められた、木の根を食わされた、などの文化摩擦 笑)
- 黒船;タールを黒く塗っていた。腐食しないように
- サスケハナ号、ミシシッピー号は蒸気船。水車を回した。プリマス、サラトガは帆船
- 合計1000人の乗員。大軍団だった
- “泰平の 眠りを覚ます 蒸気船 たった四ハイで 夜も眠れず“ …しかし、日本が文明未開人だったような誤解を生んでおり、問題がある。すでに幕府は、相当海外に詳しかった
- ビッドルが来た(1846)時は、幕府首脳は驚かなかったが、ペリーには驚いた。攻撃力の高い“ボンベカノン(爆裂弾直射砲)“を搭載していたから。幕府役人は乗艦して直接確認した
- “オランダ風説書“を定期的に見ており、ペリーの来航も事前に知っていた
- ペリーも日本、日本文化をよく知っていた。識字率も。優柔不断なことも。そこで、脅すつもりだった。しかし大統領は、発砲してはならないと厳命していた。そこで、威嚇をちらつかせる(しかなかった)交渉術にでた
- 🔥アメリカ大使は、今でも植民地のつもり。LGBTQ法案も、アメリカに言われて。
- ロシアのプチャーチンが1853年末に日本を訪問していたため、ペリーは翌年すぐに再来日した
- 老中阿部正弘は、海防を準備し、優れた人材を登用
- 最初の日米交渉…日本側の記録が「墨夷応接録」 これは最近まで現代語に翻訳されてこなかった
- 林大学頭(林復斉)は“薪水供与や漂流民保護はすでにやってきた”“交易は不要”と言い返し、ペリーは反論できなかった(その後、挫折感を表明している)。すなわち、交渉では日本は勝っていた!⭐️
- 元々、林大学頭は、他国のことをよく調べていた。どう言われても反論できる準備をしていた
- 相手が言われたくない、怒るようなこと()は、外交では触れない方がいい。そこで林大学頭は“貴国は人命第一と言っているのだから、難破船保護ができたらそれでいいではないか” とやんわり、かつ相手が使った言葉を用いる戦法に出た
- 個人的には、双方とも、極めて友好を深めた
- 開国したというのも、“開国”の定義によっては、ペリーなのか、ハリスなのか?わからない。ペリーとの和親条約は、ほとんど現状と変わっていなかった。通商開始を開国の定義とするなら、ハリスによる修好通商条約こそが開国となる