今日の午前は、地元自治会主催による郷土史講演会。
「防空学校と戦後復興」
千葉はかつて軍都だったわけですが、私もそれゆえ、昭和20年7月7日の七夕空襲を忘れないようにする街宣を、10年以上続けています。
先人の尊い犠牲を忘れず、未来に向けてよい国作りをするためです。
ゆえに郷土史は非常に興味があり、自分なりに調べていました。
今日の講話は、特に稲毛地域の歴史が体系的かつ時系列で非常によくわかる、素晴らしい内容で、大変勉強になりました。
稲毛を愛する人は必聴ですね!
歴史を知り、郷土への愛情を持って、街づくりを皆ができるよう、特に教育の充実に私も力を尽くします!
※以下備忘メモーーー
明治維新後、千葉町が県庁所在地に指定。
明治28年総武線開通。
千葉と東京が結ばれた。
軍は、東京に近く、広大な畑が残っており、施設を移した。
鉄道連隊が、中野から来た。いまの医療センターに陸軍の病院。
大正10年、千葉町は千葉市に。県内第一番目。
京成電鉄ができた。混んでいた。
下志津演習場は、佐倉藩の大砲の演習場だった。
気球連隊。戦車学校もできた。
昭和13年、陸軍防空学校。14,15と拡張。18年に幹部候補生、演習場へ拡張
軍需工場も。
昭和12年、アルコール工場。
周辺の芋を工業用アルコールや、石油代わりのアルコールを作った。
加藤製作所、日本バルブも、大きな敷地。
昭和17年、東大第二工学部。
軍事的な技術者の養成。本郷はもう間に合わないため。
蘇我先に、日立航空機工場。零戦などを作った。最盛期は1万人以上が働いた。
西口稲毛台…加藤製作所
http://www.kato-works.co.jp
東口…日本バルブ
新向会…防空学校演習場
区役所…戦車学校
千葉大…東大第二工学部
小中台中…幹部候補生隊
防空学校…
なぜここに作られたのか?
元は、四街道にある、野戦高射砲学校から。
中央に近い。
下志津、習志野、高射砲第二連隊@柏などと近い。
東京防空によい
民間地が広く残っていた
昭和17年、昭和天皇は学習院学友と共に、稲毛に来た。
昭和13…156人
昭和18…3000人
高射砲は、上空で散弾。測量技術が非常に大切。
毒ガス対策でマスクしていた。
●七夕空襲