岡田幹彦先生「勝海舟」


今朝は8時から都内で、政経倶楽部の例会です。

講師は毎度素晴らしい講話を頂ける、政策センターの岡田幹彦 先生です。


テーマは勝海舟。

私も「氷川清話」を愛読してきた、ファンで、地元の偉人伝連載でも取り上げてきました。

http://ameblo.jp/tanuma/entry-12094030960.html

http://ameblo.jp/tanuma/entry-12150094919.html

今朝も楽しみに参加してきました。



今回も、素晴らしい講話でした。

勝海舟のような、大人物を目指さねば、いまの政治は人間学・人物論が足りない、と改めて思いました。

「狂」の言葉は、松陰先生も、高杉晋作も、愛した言葉。私も「命も要らず、名も要らず…」の精神を、日頃からもっと磨かねば、と思いました。

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なお講演に先立ち、長島昭久・衆議院議員が挨拶。私も久しぶりにお会いできました。大連立もあり得るような、保守の2大政党が必要とのことでした。

また講演後は、林英臣政経塾報告をさせて頂きました。

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勝海舟の父親は、はぐれ者だが、愛情深かった。海舟はこれを色濃く受け継いだ。


剣術修行に打ち込んだ。当時の江戸有数まで上達。よく、西郷は器、勝海舟は知恵、と思われるが、違う。勝海舟も気迫あふれる武術家。

蘭学修行も打ち込んだ。貧しい時代の苦労が、強さをつくった。

長崎海軍伝習所では、オランダ人に深く信頼され、通常2年任期を4年やった。


軍艦奉行になる。海軍奉行(=海軍大臣)の次。神戸海軍操練所。

佐久間象山は兄弟子だが、佐久間同様、幕府本位ではなく日本本位。ゆえに幕臣でも外様でも庶民でも誰でも入れる操練所を作った。


「海外は、優れた人材が上に立つ。日本はそうではない」など直言してしまい、叱られた。

徳川慶喜も勝海舟を嫌い抜いた。「こいつは薩長とつるんでいる」

こんな調子なので、出世は苦労した。



偉大な人物だけが、偉大な人物をわかる。

勝海舟は西郷を一見して「天下に俺は恐ろしいものを2つみた。薩摩には卓越の人。純一、至誠、常々敬服」

坂本龍馬も「西郷はお寺の鐘のような人。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」この評価にまた勝も坂本を見直した。

坂本は勝のことも「勝先生は日本第一の人物。学問見識は佐久間象山というが、実際の行動・手腕は勝先生。ひどくほれ申し候」


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江戸城無血開城…

当時、だれも幕府が倒れるなど思っていない。

幕府主流派は、薩長をつぶして徳川本位の統一国家つくる狙い。小栗忠順など。本来はこれが大勢。

薩長は、幕府中心では日本は護れない、と倒幕を訴えた。当然、少数派。


慶喜は恭順。しかし旧幕臣は徹底抗戦をさけぶ。上野の彰義隊もある。

慶喜は悩んだ。和戦両様の構えで、勝海舟に、対官軍交渉の一切を委任する。

勝海舟も、江戸の火消しに「談判が決裂したら江戸に火をかけてくれ」と話をつけてから、臨んだ。背水の陣だった。


勝・西郷談判に先駆けて、山岡鉄舟が静岡にいく。

「慶喜公は心の底から恭順を決めている。それをなぜ滅ぼすのか!」

西郷は山岡鉄舟に感激し、「命もいらず〜」と評する。


しかし山岡鉄舟は慶喜公の立場のみ。幕府全体ではなかった。

一番もめたのは、幕府の軍備をすべて渡すこと。それをやったら、幕府内の反対派が反発してしまう。半分で許してくれ、と勝は西郷に訴えた。

またトップに腹を切らせるのが通常。しかしそれも免除してくれと願った。

西郷から見たら、恭順を本当にやり切るかの一点。前述のように、幕府側にまとまりがなく、その姿勢がはっきりしなかった。

しかし勝海舟を信じて、要求をすべて飲んだ。


2人に共通していたのは「インドや清の二の舞になってはならない」

当時、幕府方のフランスも官軍側のイギリスも、戦えとたきつけていた。


2人とも、日本の国のあり方…皇室、朝廷こそ、日本の中心だと認識していた。

当時、日本は最大の危機だった。強国である、英仏米露が日本を狙っている。そのときにいかにして日本民族を守るか?を考えていた。

この一点で、西郷と勝は一致していた。

アーネストサトウ・英大使が「幕府がフランスと組んで攻めてきたら、イギリスは薩長を支援する」と言うと、西郷は「日本の国体を貫く上で、外国人に相談するつもりはない」


最近、西郷や明治維新を否定する作家がいるが、では明治維新がない方がよかったのか?!西郷がいなかった方がよかったのか?!を問いたい。

西郷がいなければ、独立国家を保てたかわからない。



西郷あっての明治維新。西郷こそ、明治天皇に最大の忠誠を尽くした人。

ゆえに西郷の名誉回復のため、勝海舟はその後の人生を尽くす。

明治12年の記念碑でも、お互いをよく知るのが勝海舟と西郷と書いた。


また、慶喜にも尽くした。

明治31年、徳川慶喜がはじめて皇居に参内、明治天皇に拝謁。

お互いに残っている恨みを、拝謁によって、溶かすためだった。

これはすべて勝海舟が尽力した結果だった。

翌日、慶喜が自ら、勝海舟の家までお礼に訪問。「先生の目の付け所は衆人に及ばず」と言い、「楽天理」と書いて欲しい。

徳川家伝来の名刀を捧げる。

心の底から、勝のおかげだと感謝し、涙を流した。勝も流した。

翌年、すべてを終えた勝は、亡くなる。また慶喜は公爵を授かる。



勝海舟がいかに大人物だったか?

勝もまた、「狂」に生きた人だった、と松浦玲は書いている。




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・吉田平理事長

加計学園問題は疑問。自分も許認可事業だが、もし前川前事務次官が「歪められた」と思うのなら、現職のときに切腹覚悟で総理に訴えればよかったのではないか?

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・谷口郁子支部長

勝海舟は面白い言葉が多い。

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岡田先生のご著書。まさに日本の若者が知るべき歴史。


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中村麻美さんの絵本は素晴らしい内容に見受けました!