国会版林塾…小村寿太郎!

 

 

先週、月例の、国会版林塾があり、テーマは「小村寿太郎」でした。

 

 

 

小村の偉大さ、信念と大局の大切さを、身近な部分からも含めて改めて理解でき、自分に省みる点多数、大変勉強になりました。

 

 

やはり「誰がなんと言おうと!」という気骨こそが大切であり、それは武士道教育と、苦難を乗り越えた経験に依ると、感じました。

 

 

私も、いまの苦節こそ、将来の開花につながると信じ、気骨を磨きたいと思いました。

 

 

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<以下要点録。文責不問にて>

 

「小村寿太郎」

 

これまで日本は、アメリカについていけば、何とかなる、でやってきた。

しかしこれからはどうなるかわからない。

とりあえず日米首脳会談では激しいやり取りもなく、ホッとしたかもしれないが、歴史研究家としては油断はできないと思っている。

アメリカは、表ではにこやかに握手していても裏では叩く計画を持っていたりする。戦争もビジネスと捉えてやってきうる。

厳しいときほど、歴史の人物に学ぶことが大切。

小村寿太郎はその意味では、外すことのできない人物。

 

 

いまの価値観ではなく、当時の価値観、当時の見方で、学ばねばならない。

当時、戦争は、よくあることだった。

もしも戦い自体が悪なら、織田信長も武田信玄も徳川家康もみんな悪で、学ぶものがないことになってしまう。

 

 

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当時の日本は、清、朝鮮に隣接。

清は末期。

清を宗主国として仕えたのが、李氏朝鮮。

どちらも政治の腐敗・堕落、国民の道徳心の低下が激しく、政治の統一力がみられない。

 

 

日本は朝鮮に、仲良くしていきたいと、国書を送った。

しかし、文言が悪いなど、書き直しを何度も迫られた。侮辱が甚だしく、国際標準からみて、もう戦争も当然となったとき、それを止めたのが、西郷隆盛。自分が行く、と言った。

が、大久保らに止められた。

 

 

 

ゆえに当時の日本から見て、李氏朝鮮は、だらしなく見えた。社会秩序として高齢化していた。

高齢者が動きが緩慢なのを見るようなもの。

それで日本は、朝鮮を馬鹿にしてしまった。

本来なら、今は今ひとつでも、育てよう、と日本も思えればよかったかもしれないが…

 

 

それよりも我が国にとって重大だったのは、ロシア。

ロシアも社会秩序は高齢化していたが、伝統的に南下政策をしてきていた。

明治の政治家が最も心を砕いたのは、強大なロシアの南下を、いかにして食い止めるか、だった。

日清戦争勝利の果実も、三国干渉(露仏独)で奪われ、苦しい時期だった。

 

 

老大国の清、統一力のない朝鮮、強大なロシア、若々しいが貧しい日本。

この中で日本は、なんとかして自国の独立を目指していた。

 

 

近い国は当てにならない… しかし侵略されない平和を作らねばならない。

そのときどうするか? 

自分が政治家ならばどうするか?

どういう議論をしたらよいのか?

どう決断するのか?

どう国民啓蒙をするのか?

当時の人たちの気持ちになって考える、とは、そういうこと。

 

 

ーーー

 

小村寿太郎は、宮崎県出身。

1855年、小さな藩の下級侍として産まれた。黒船が来た直後。

江戸の教育、武士道教育を受けた。桂太郎、高橋是清らも。明治の指導者は武士道教育を受けていたのが、ポイント。

 

 

小村寿太郎の特長は、大局的にモノを見て、相手の国の狙いを捉え、核心をつくところ。

相手の意図、狙いを捉えて。キーパーソンを見抜くことなども。

以下、公職の概要。

 

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●清国臨時代理公使(38~39歳)

訓令を待たずに国交断絶した。

本来なら重罰。しかし小村は情勢をよく把握しており、1日でも早く始めないと、犠牲が大きくなると判断し、独断でやった。

あとになって、陸奥宗光外相から「国交断絶せよ」との指示が来たが「もうやってあります」

そういう手際の良さを、発揮していた。

あとで陸奥に「いかなる処分も受けます」と言ったが「お前の判断でよい」

 

 

●外務大臣(46~51歳)

まず、日英同盟を締結。ロシアへの備え。

日露戦争中も外相を務め、ポーツマス条約の日本側代表。

 

 

●外務大臣(53~56歳)

関税自主権の回復。

韓国併合。当時韓国は、まったく自国をまとめる力がなかった。韓国の指導者も、それ以外ない、と認めた。韓国の閣僚で日韓陛下に反対したのは1人だけだった。

 

 

 

小村は、別当屋敷で生まれた。

情報の集まる場所で生まれたことは、大きな意味があっただろう。

その後、藩校、東大に進む。そして文部省第1回留学生として、ハーバード大に進む。

 

 

小村は、細かいことにこだわらず、全体を捉えて議論するので、アメリカ人からも尊敬された。小村にだけは、帽子を取ってお辞儀をするほど。

 

 

帰国し司法省に勤めるが、自己PRが下手で、下積みを経る。29~38歳くらいまで。

外務省に移っても、公信局、翻訳局など、閑職だった。

 

またその頃、父の会社が破産し、その借金を負うことになった。10年分の給料が差し押さえられ、その取り立てが役所に来たほど。

 

また、娶った奥さんは、人生観が全く違った。

小村は「天下のために…!」

妻は「ごく平凡がいい」ノイローゼの持病もあった。

息子たちも「我が父の人生最大の失敗は、母を妻にしたこと」

 

閑職に回され、借金取りに追われ、妻にも苦労した。

世の中の底辺を知り、人間修養をした。38歳のときには、まるで違う人物になっていた。

 

 

同じような、苦節を経たのが、西郷隆盛。

ここで死ね、という意味の、島流しを2度。しかし天が死なせなかった。

見えない世界の、我々に対する愛情は、厳しい。

苦しさで潰れてしまったら、それまで。しかし潰れなければ、天が引き上げた。

 

西郷も小村も、この時期よく本を読んだ。

不遇のとき、自己研鑽するのか?腐るのか?それを天はよく見ている。

 

 

38歳で清国臨時代理公使になったが、それも登用した陸奥宗光は、小村を見込んだのではなく、代理だった。はじめ陸奥は小村に「こんなとこに呼んで申し訳ない」と言ったほど。

しかしそこからが転機。陸奥は有能な人が大好き。小村が優秀なので、外務次官、大臣と引き立てた。

 

元々小村は身体も強くない。身長も156センチ。

命を削り、日本外交の基礎を作って、56歳で亡くなった。

住まいは、10年間借りていた借家だった。功成り名を遂げた公爵とは思えないような、貧しい家だった。

 

会いたくない人には会わなかった。誰か来たときも、取次する者に、小さい家なので小村自身が「小村は留守だと言え」と大声で言った(笑)

公爵、伯爵となっても、勲章などはまったくつけなかった。

 

全人生を祖国に捧げ切った人物。こういう人物がいたから明治はすごかった、と思わせてくれる人。

 

 

 

<資料>

30p、33p

 

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小村はことあるごとに、武士道が大切と言っていた。

お祖母さんの「熊女」に、小さい頃、教えられた。

いじめを受けたときも「算盤なんてやってるのか?軟弱になるぞ」と木刀で斬りかかってきたときも、相手のふところにスッと入って制した。

そばにいた熊女も「一本!もし寿太郎が刃物を持っていたらお前はもう死んでいるぞ。退がれ!」と言うような人だった。

武士道教育があってこそ、相手に斬られるところまで入り込む勇気を養った。

 

 

135p

小村はハーバード大に留学したときも、相手の良し悪しを的確に把握していた。

日本の信仰は、太陽信仰。キリスト教にはそれはない。

日本は、先祖崇拝。これも違う。

日本はモノと心を分けない。あらゆるモノに霊性を認める。これも違う。

日本は多神教の国。一方キリスト教は、一神教。

極めて冷静に反論した。

 

 

 

 

139p

 

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小村は帰国しても、西洋かぶれしなかった。

義務は、正義の務め。

自由は、自らに由る。

権利は、根拠があってこそ、行使できる。ただ単に権利があると訴えるのは、社会が混乱する。

 

 

106p

当時でも、外交官としての赴任先は、横文字の国が第一級。アジアは恥とすら考えられていた。

ゆえに現地でも、いやいや赴任している外交官が多く、情報収集も不十分だった。

小村が清に赴任したときは、たくさんの日本酒の樽と器、皿を持っていき、酒を振る舞って、まず仲良くなることを目指した。

 

韓国は、とても独立は保てないだろう。その宗主国である清もボロボロ。ロシアは虎視眈々とここを狙っている。

 

 

114p

「外交官はウソを言ってはならない」

一流の詐欺師も、9割は本当のことを言い、核心部分だけどんでん返しする。

普段ウソを言っている人は、注意不要。普段本当のことを言っている人こそ、要注意。

日本人は本当に騙しやすい。お人好し。敵に塩を送る国。本来は傷に塩を刷り込むのが外交。

だから日本人は外交が苦手だろう。小村のような人間が必要だ。

 

 

 

 

 

115p

 

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「鹿島立つ」…命懸けで行くこと。

終戦時、国民は勝利に沸いていた。賠償金をもらえると当然思っていた。

しかし当時、実は日本はお金が底をつき、もう戦争継続はできない。

ロシアからすれば、本土に踏み込まれたわけではない。局地戦で少し負けた感覚。

小村は賠償金を得られるよう、必死の交渉をしたが、本国からも諦めろと指示が出て、断念した。

 

小村は腸チフスだったため、条約締結後、アメリカで体調回復させてから帰国した。

その間に、唯一に近い権益である、満鉄が、アメリカに盗られそうになっていた。米の鉄道王ハリマンからの共同経営の提案に、政府・重鎮がなびいていた。

一億ドル。かかった戦費の8分の1と、わずかだが、枯渇していた日本政府にとっては有難いと重鎮たちは考え、仮契約まで進んでいた。

 

1人も戦死者を出していないアメリカが、お金でその勝利権益を買い取ってしまうというのは、小村には耐え難いことだった。

アメリカの野望は、なんとか東アジアに入り込むこと。

それを知る小村は、排除せねばと考えていた。

せっかく必死にポーツマス条約を結んできたのに、もうアメリカになびいている。なんのための戦いだったのか…!帰国後大至急反論を張り、この仮契約を破棄させた。

 

外交は「内交」とも言う。

自国内の人に納得させる方が、むしろ大変。

 

 

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このハリマンとの共同経営に乗っていれば、日米開戦は将来なかった、という意見もある。

しかしこれと別に、オレンジ計画が立てられていたことも忘れてはならない。

国論が二分するようなとき、内交に忙しくなって、外交に手が回らなくなり得る。

 

 

 

現在も、保守は親米、リベラルは親中。

しかし本当は、アメリカの力が残っているうちに、中国を封じ込めなければならない。と同時に、アメリカの代理戦争は避けねばならない。

小村のごとく、よく世界を掴み、日本の針路を導かねばならない。

 

超党派の、本当の保守勢力が必要だ。

誠を貫き、日本を守り世界を救う、政治勢力を作っていかねば、ならない。

皆さんには、小村寿太郎の生まれ変わりとなって、日本を守る道筋を、描いて頂きたい。