戊辰戦争を勝利に導いた大村は、明治政府の軍制改革の中心メンバーとなりました。政府内では、国民皆兵を唱え、薩摩出身の大久保利通らと激突。大村は辞表提出にまで到ります。しかし、当時の政府内には軍事に関して大村に代わるべき人物はおらず、結局、兵部大輔(今の事務次官)に就任。大村は近代軍制の青写真を描くことになりました。

 ところが、その数か月後、京都の旅館で刺客に襲われ、重傷を負います。その傷が元で、志半ばでこの世を去りました。

 しかし、大村のビジョンは明治政府内で継承されます。大村が構想した、国民皆兵による徴兵令は、明治6年に制定。その他、鎮台設置・兵学校設置による職業軍人の育成等、大村が構想していた諸制度が次々と実施されます。このことから、大村は事実上の日本陸軍の創始者と言われました。
 
その後、日本陸軍は日清・日露戦争で奇跡的な勝利を果たしますが、これは大村の構想あってこその勝利だったと言えます。

「君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行末」。愛国心の表れとして、類希なる才能を発揮した大村益次郎。維新の時代を駆け抜けた強靱な意思と実行力をあわせもったテクノクラートでした。

(写真の出典:Wikipedia)