国会版林塾…西郷隆盛

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先月の勝海舟講義に続き、今月は官軍側の、西郷隆盛です。

私が最も尊敬している偉人が、西郷さんですので、今日は大変楽しみに参加しました。

世話人挨拶は、先輩同志の、沖縄一区、國場幸之助議員でした。


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どんな人にも、原点がある。
原点から伸びていかないと、伸びない。また、厳しいときに立ち直れる。

西郷さんは、16歳のとき「郡方書役助」となった。ここで、いかに農民が苦しい生活かを知った。これが後年、国民のことを常にまず考える、原点となった。

26歳のとき「江戸屋敷庭方役」これは藩主の個人的秘書。
これは、西郷が建白書を出したから。黒船到来について、島津斉彬藩主は、建白書を応募したところ、西郷のものが目にとまった。島津公はすべてのものに目を通し、返事まで書いた。だから薩摩藩は発展したのだろう。そして西郷を抜擢した。西郷はマンツーマンで指導を受けた。
西郷はお使いによく出された。藩主が思うことを、「庭方役」という低身分のものが伝えるのが、有効だった。そして西郷の成長にもよかった。




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30歳のとき、藩主島津斉彬が急逝。西郷も迷い始めた。
月照を共に、海に身を投げた。月照は亡くなるが、西郷は助かる。
ちょうどそのとき、西郷同様の巨体の罪人が、処刑されていたので、これを西郷だと偽って、西郷は追っ手から逃げられた。奄美大島へ身を潜めた。

安政の大獄は、雄藩連合潰しだった。
幹事長役の橋本左内は処刑され、西郷も奄美大島へ行くこととなった。
西郷は幕末中期の5年間、ほとんどが遠島にいた。

沖永良部島への島流しは、当時は死刑とほぼ同じ。
実際、牢獄で衰弱したが、番人が助けてくれた。
この苦しい時期に心胆を練った。

(安倍総理は戦後からの脱却を目指しているが、アメリカを無視はできない。むしろ圧力を受けざるを得ない。
次の日本を目指す人達が、薩長連合を起こすべし。)



そのあと、西郷は後期に復帰した。
復帰できたのは、
1…西郷でなければ、激化した若い連中をまとめられない。
2…西郷の名前は雄藩連合時代に知れ渡っていた。他藩の指導者と絆をつくれる、外交をやる人材が必要だった。全体を踏まえて、薩摩藩の方向性を出せる人。本当は藩主島津久光はイヤだったが、皆が言うなら仕方ない、となった。

(現代も、党派を超えて、私心を捨てて、日本のために団結できる指導者。それらを結ぶことを、いまやらねばならない)



島津久光は、公武合体を進める急進派志士を討つ、寺田屋事件を起こした。
帰りに生麦事件。トラブルだった。
この間、西郷は、”巻き込まれずに済んだ”
天の意思が、西郷をここで殺すわけにはいかない、となったのだろう。
ただし天の意思は厳しい。この環境に耐え抜いてみよ、と言う。天の愛情はある、あるが、厳しい。


36歳のとき「軍賦役兼諸藩応接係」
これは実質、薩摩軍のトップ。すごいこと。
時代の変化が早いとき、出番がやってくる。

庄内藩が江戸の取り締まりをしていた。その庄内藩が「江戸の薩摩藩邸焼き討ち」
実はこれは西郷が、悪さをするよう指示を出していた。




45歳、朝鮮派遣使節団問題。自分が行って、斬られたら、そのときは武力で迫ればいい、とした。これはつまり、武力開国派を抑えるためだった。

49歳、西南戦争。西郷の望みは、新政府を変えることだった。
あまりに西欧になびき過ぎている。役人はみな利権に走り、堕落している。
「新政府に、尋問の筋これあり」


平田源吉・うなぎ屋の亭主。西郷が店に来たとき、気付かず失礼した。そのあとの西郷の包容力に感激した。西南戦争のとき、西郷さんの食事をすべて応接した。
人間は感動すればどこまでも尽くす。


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「西郷南洲翁遺訓」

責任を伴う地位に、軽々しくつけないこと。辞めさせられなくなる。


武道を学び、論語、孟子を学んでも、堕落する。
普段が大事。いざというときでないときに、侍であることを忘れない。その方が大切、大変だ。