岡田幹彦先生「西郷隆盛」

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東京の政経倶楽部にて、政策センターの岡田幹彦先生による、西郷隆盛の講話を聴いてきました。

敬愛する西郷先生の講話ですので、なんとしてもとの思いで参加しました。


私は西郷隆盛を、心から尊敬しており、地元ミニコミ紙に連載している「夢と感動の偉人伝」でも、たびたび取り上げてきました。

http://www.tanuma.info/katudou/idobata.html
(平成22年末頃をご覧ください)



岡田先生の、西郷さんを好きな気持ちが溢れる、心に染み入る講話でした。
やはり歴史は、感情移入して、追体験として学ばなければ、伝わらないと、感動と共に改めて感じました。


そして、私自身も、西郷さんの大人物に近づけるよう、修行を重ねたく思います。
西郷さんも、5年間島流しにあった人ですから…
落選し、苦難の道ですが、私も志を貫きます!


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各国の歴史でも、最大の偉人がいる。フランスならナポレオン、ドイツならビスマルク、といった具合。
日本で一人あげるなら、西郷隆盛。内村鑑三の「代表的日本人」でも、西郷をその先頭に挙げている。この人がいなければ維新は成就しなかった。


明治維新はなぜ可能だったのか?
奇跡の歴史。
外圧がなければ不可能だった。佐久間象山「日本をインド、清の二の舞にしない」が合言葉。


264年続いた徳川幕府の存在の重さ。これだけ続くと、当時は不滅の存在だった。それを倒し王政復古など、正気の沙汰ではなかった。しかし西郷はじめ志士たちは、徳川幕府ある限り日本の独立はない、亡国あるのみ、として、尊皇倒幕に立ち上がった。


当時、幕府主流派は、幕府を強化し中央集権国家をつくろうと考えた。よって、徳川慶喜の大政奉還はもってのほかだった。
慶喜の狙いは、奉還後の諸侯会議の指導者に徳川家がなることだった。策略だった。


当初、王政復古の大号令が出ても、薩長につく藩はほぼなかった。成功を信じなかった。鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍15000、薩長軍5000。当然幕府側が勝つと思われていた。ここで官軍となり、勝った。それで西日本諸藩は朝廷についた。


東日本の戦い。
徳川慶喜は、恭順の意を示していた。と同時に、徳川家を潰すわけにはいかない。
この難しい局面の、陸軍総裁として、勝海舟に全権を委ねた。


当時、幕臣の大半は恭順反対。勝海舟のほか、大久保一翁や山岡鉄舟などしかいなかった。国賊、逆臣、売国奴、薩長の犬、などと罵倒された。


勝海舟も、西郷との談判が決裂したときは、江戸で戦う決意だった。八方から火をかけて、焦土作戦を予定していた。江戸の住民を船で対岸に運ぶことなども事前に準備していた。


勝と西郷は4年前に一度会っていた。
勝海舟は当時自信満々、尋常ではない人だった。その勝からして、西郷はすごい、日本ですごい人は西郷と横井小楠ただ2人だ。
西郷も、佐久間象山を超える天才が勝海舟だと大久保に手紙している。


勝と西郷の談判。
すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していた。
「日本が欧米の植民地にならないためには、国内の抗争をしている余裕はない」その一点で、共に合意した。
合意7か条。
・徳川慶喜の謹慎。これは山岡鉄舟が命懸けで訴えたこと。西郷はこれに心打たれた。
・江戸城を官軍に引き渡す。
・武器をすべて引き渡す→ すべてだと幕府がもたない、半分にしてくれ
・鳥羽伏見の戦いの責任者を免罪に。当時の日本的決着は、責任者の切腹。


これは当時、常識外。木戸孝允ならまとまらなかっただろう。恨みが深い。
西郷も苦労した。薩長でも議論は紛糾したが、そのとき西郷は、わかりました、薩摩軍は薩摩に帰ります、と言ったので、なんとかまとまった。


西郷は、事前にイギリスからは、内戦となったら応援するよ、と言われていたが
「日本の国体を貫くのに、外人に相談はしない」と拒絶。


明治天皇の人格を形成した最大の理由は、西郷隆盛。
明治陛下は、西南の役で、西郷を死なせたことを、長らく悔やまれた。