先日の私の以下ツイートに関して、いろいろなご意見があった。




ハフィントンポストでも特集記事。

⇒高校教諭が入学式を欠席 「息子の入学式に出席のため」という理由は許されるか http://huff.to/1ieeuWL




この問題は、賛否が拮抗しているようだ。
私の友人やFBでよく知る人からは、私と同じく反対が多い。
私を知らない、フォローもしてない人からは、欠席を弁護する人が多い(ついでに私への非難(^^;))


まず、弁護する人のかなりの人は、論点がずれている。私は全く、親子の愛情を否定していない。家族が大事なのは当然。
しかしそれは私情。私(わたくし)と公(おおやけ)、どちらかを優先させるべきかという問題だ。


これも絶対どちらか、というものではない。バランスの問題。
私は、担任を持たない教師なら、自分の子の入学式のため、勤務校を休むのは理解できる。


しかし、ある意味親代わりである、クラスの担任を引き受けたにもかかわらず、休むというのは、やはり逸脱と感じる。気持ちはわかるが、やはりダメなものはダメと言わねばならない。


そうでないと、事(こと)は個人の問題で収まらない、みんなが踏ん張ってやせ我慢して頑張っている、公としての秩序、ルールが、崩壊してしまうのだ。だから私はあえてきつい言葉で「論外」と言った。


例を考えた方がわかるかもしれない。
有事の際、国防の最前線にいる自衛隊員が、職場を休んで入学式に行くだろうか?潜水艦で何か月も帰ってこない隊員など、その可能性すら考えず、任務に努めているだろう。そういう人のことをどう考えるか?


国会議員だって、議員しかできない法案の採決があるとき、それを休んで我が子の入学式に行くことを国民は納得するだろうか? 議員は公職だから当然ダメ、という人もいるのかもしれないが(どこまで知っていてそう言うのかはわからないが)、担任教師も行政職員も、広義には公職だ。事実、みな、非常に公的な使命感の中で勤務しているのが実態だ。


みなが頑張って、私情よりも公的使命を優先して、組織・ルールを維持する。それが公職。
この場合も、クラス担任という役割が、どこまで大切、崇高と、思っているかによって、その職務を放棄し私情を優先したことへの評価が、変わるのだろう。


私は民間企業にいたから、私の原理で動く世界と、公の秩序で動く世界の違いを、肌で感じている。
公的世界の方が、より一層、ルールを守らねばならない度合が強い。それだけ公というものは、もろく、はかなく、そして尊いものなのだろう。

一定の犠牲心、ボランティア精神がなければできない仕事なのだ。


極端に言えば、みなが、公より私、と言い出すと、国防する人もいつ欠けるかわからない、議員やる人もいつ欠けるかわからない、教師だっていつ不在となるかわからなくなる。それでは公組織は成立しない。


だからやはり、公職にある人には、「私より公」であってもらわねばならないのだ。
気持ちはわかるが、やはり「論外」と言わねばならないのだ。


そして、そうやって私を犠牲にして、公職に尽くす人を、私は尊敬しているし、みなが尊敬する社会であって欲しいと思う(そうでないと公職に奉仕する人は出てこなくなる)。



ゆえに、やはり私は、この教諭の行動は、ダメなものはダメと、言わざるを得ないと考えている。
(なお、教師が悪い、いや認めた校長が悪い、などは別論点なので割愛する)