呉竹会が発行をしている、「青年運動」の第973・974号に、私の主張が掲載されました。

是非ご覧ください。

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「青年運動」平成26年1月15日(第973・974合併号)


「教育行政の最大の問題点を一言で言えば「治外法権」である。責任と権限が一致せず、問題が起きても誰も責任をとらない。その結果、事なかれ主義・無責任行政・隠ぺい体質になる」

私が初めて貴紙に論考を寄稿した際の書き出しである。当時は千葉市議だった。その時代から、ライフワークとして教育委員会改革に取り組んできた。衆院選に挑戦した理由も、「教育委員会制度をなんとしかなければならない!それは国政でしかできない!」と心底思ったからだ。

昨年の6月に、「教育委員会廃止法案」を、日本維新の会単独で提出した。未だ審議すらされないままであるが、今年の通常国会で、政府の教育委員会改革法案が提出され、いよいよ教委改革の議論が本格化する見込みである。それに先立ち、これまでの議論を総覧しておきたい。





教育委員会改革論の隆盛



私の原点は、「脱自虐史観」「教科書改善」。市議時代、教育委員会とは幾度となく論戦をしてきた。その度に、事なかれ主義・無責任体質に悩まされ、怒り、時に涙した。そして、脱自虐史観のためにも、教育委員会改革が必要であることを徐々に理解していった。

ただ、当時は教委改革というテーマは極めてマイナーであり、私に共感してくれる人は少なかった。市議会議員時代は、教育委員の同意人事に、ただ一人だけ反対したこともあった。

教委改革が矢面に立つようになったのは、平成24年、滋賀県大津市で発覚した、いじめ自殺事件がきっかけではないかと思う。警察が入るまで、自殺が隠ぺいされ、説明に出てくるのも事務方の教育長。市長も謝罪はしているが、権限がどこまであるのかよくわからない。現行の教委制度の欠陥部分が、顕著に露呈した形となった。

これと前後する形で、大阪維新の会が「教育基本条例」を成立させ、教委改革への一歩を踏み出す。私は感銘を受けた。条例の内容を引用して市議会で議会質問をするのと同時に、維新の会を勝手に応援し始めた。

そして、総選挙に突入。私は「教育委員会廃止」を掲げ、辛くも当選。教委改革に真正面から取り組める環境が整った。





「教育の政治的中立」という美名



当選後、文部科学委員会の所属となった。もちろん最初の質問のテーマは教委改革だ。自民党も、維新に追随するように教委改革を掲げていたため、下村文部科学大臣とは比較的議論がかみ合った。しかし、現場感覚の有無によるのか、どうにも踏み込みが足りないと感じた。

私と大臣とで決定的に異なっているのは、「教育の政治的中立性」に対する姿勢だ。大臣は、中立性を重要視し、首長に権限を移して民意を直接反映させるべき、とする私の提案には、首を縦に振らない。確かに、共産党系の首長が就任し、左翼教育が行われるのを恐れる大臣の気持ちも理解できなくはない。

しかし、私としては、心配が過ぎると言わざるを得ない。まず、枠組みとして、教育基本法があり、学習指導要領の規制がある。「愛国心を育む」という基本法の理念に反するような教育はそもそも違法だ。また、各地方議会のチェックもある。非常識な偏向教育が行われれば、住民の声があがる。これらで十分に、適正な中立性は保たれると考える。

そもそも、文科省は、自治体の教育行政に対して大きな影響力を持っているが、そのトップたる大臣は政治家だ。政治的中立性等など、実は既に崩れている。下村大臣は「国の役割と自治体の役割は違うため、一様に語ることはできない」と言うが、納得できる説明は頂けなかった。大津市の越市長も「なぜ地方だけ」と批判している。

そして重要なことだが、現場ではすでに左翼教育が跋扈している。ジェンダーフリー教育、過度な人権教育、自虐史観を植え付ける歴史教育…。政治的中立の名の下に、指揮命令を受けない教育委員会事務局と日教組は、やりたい放題だ。「政治的中立性」にこだわるあまり、特定の政治勢力の活動を助長してしまうとは、なんと皮肉なことか。この実態を、大臣は看過していると言わざるを得ない。





画期的な「教育委員会廃止法案」



政府・与党を批判するだけではなく、対案が必要だ。昨年65日、日本維新の会単独で、「教育委員会廃止法案」を、衆議院事務総長に提出した。

青年画像1


私も作成の中心メンバーだ。

現行の教委制度の問題点は、大きく2点。






 首長に教育政策を実行する権限がなく、教育行政に民意が反映されない。
 ② 権限が分散し、責任者が曖 昧。思い切った決断ができず、隠ぺい体質や前例踏襲的対応になりがち。
 これらの問題点を一気に解決するのが、この「教育委員会廃止法案」だ。
 



 まず、民意の反映については、教育委員会を廃止し、教育部()長を新設、首長の部下とする。首長と教育部()長とは指揮命令関係になり、選挙による民意で選ばれた首長の意向が、ダイレクトに反映される。また、議会への報告義務を強化し、隠ぺいや目標未達成が無いか、より深いチェックが可能になる。

権限の分散については、現在、予算権(首長)と執行権(教委)とが分かれてしまっているが、これも首長に一本化する。教育行政の最終責任者は首長になる。

また、現場においては、教委事務局からの指導を廃止し、各校長に権限を委任して、しっかりと学校をマネジメントさせる。現在、校長は予算権や人事権等の権限は全くないのに、責任だけとらされる。一方で教育委員会事務局所属の指導主事は、「指導」という名の、実態的には指示をしているが、その責任は取らない。このような理不尽な仕組みとなっているのは、やはり責任と権限が一致していないからだ。これを改める。

「教育委員会廃止」と言うと物々しいが、要は、教育行政を福祉や保育、道路行政等、自治体内の各部局と同じ扱いにしよう、教育部局だけ特別扱いするのはやめて、普通の組織にしよう、ということである。

元々、教委制度は、GHQが日本弱体化のために、導入した制度だ。そして日教組と実態的には結び付き、いわゆる“戦後教育”が形成維持されてきた。すべての諸問題の根源はこれだ。それを戦後初めて根本的に改める、まさに「グレートリセット」を掲げる維新ならではの提案が、この法案であり、画期的なものだと自負している。





通常国会の展望



満を持して提出した私達の法案であるが、昨年の通常国会、臨時国会、と審議すらされないまま、今日に至る。文科委員会も与党理事が多数であり、法案審議に応じてもらえない。非常に不満だ。

しかし今年の通常国会では、政府から、教育委員会改革法案が提出される。こちらの法案は必ず審議されるため、ようやく教委改革の議論が本格化する。

維新の会は何でも反対の野党ではない。政府提出の法案が納得できるものであれば、もちろん賛成に回る。しかし、政府案が、現場感覚に基づいた、抜本改革ができるものなのかは不安が残る。

政府案の元となる、中教審の答申。結論から言えば、維新案に近い案(以下、A)と、現行制度の延長でしかない別案(以下、B)の、両論併記になってしまっている。

A案は、教育委員会こそ存続するものの、首長に、教育に関する大方針を定める権限が認められる。その方針の下、首長が、事務の執行者として教育長を選任する。首長が方針を定める際に、教育委員会の議を経た上でないといけない、などの規制はあるものの、教育行政に民意を反映させることが可能になる。教育行政の最高責任者も首長になり、責任の所在が明確化する。

現状、事務局の追認機関となってしまっている教育委員会をなぜ存続するのか、責任が曖昧になるだけではないか、といった不満もある。それでも、現行制度よりははるかに良くなる。こちらの案を元に政府案が出てくるのならば、賛成に回る可能性は十分にある。

対して、B案。こちらは論外である。「政治的中立性」にこだわりすぎて、現行制度とほとんど変わらない。こちらの案を元に政府案が出てくるのならば、絶対反対だ。

与党が多数を握る現在の国会の状況では、政府案として出されたものを止める術はない。維新案に近い政府案が出されることを願う他はない。安倍総理も、下村大臣も、愛国議員だ。問題意識は共有しているはずである。国会質疑の中で、全力で説得する。野党内でも同志をつくり、加勢してもらう。とにかく、なんとしてでも抜本改革になるよう取り組む決意だ。

平成26年は、教育委員会改革、決戦の年だ。私も全力を傾注する。読者諸兄のご理解・ご支援を切に願う。