明治維新後も、西南戦争など日本は混乱が続き、多くの指導者が倒れました。そのとき国民の信望をつなぎとめたのが、明治天皇でした。

 混乱に深く心を痛められた明治天皇は、五箇条の御誓文の精神、すなわち「万機公論に決すべし」に則り、それまで一部の人に限られていた政治から多くの人が参加できる、国会開設を決断。更には憲法制定を命じます。

 岩倉具視や伊藤博文らによる必死の検討作業を経て、明治22年2月11日、大日本帝国憲法は発布されました。これはアジアで初めてでした。実に起草開始から10数年の歳月をかけたもので、伊藤などは憲法研究のため1年半も諸外国を視察しており、その行間からにじみ出る情熱には頭が下がります。

 三権分立や言論の自由など、外国の優れた点を参考としつつも、オーストリアのシュタインが
「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならぬ」
と指導したように、日本の国柄を十分に踏まえた内容となりました。
また発布も、天皇が首相に手渡すという、欽定(君主が定める)憲法の形でなされました。

 国民もこれに大いに沸き立ち、各地でお祝いのイルミネーションが飾られました。メディアや言論人も高く評価。まさに近代日本は、この欽定憲法を土台に、君民一体となって建設されていったのです。

 迷える現代日本。その中に暮らす私達は、今こそ、この時代の正しい歴史を知らなくてはならない、そう強く感じています。

(『いどばた稲毛』2012年11月号掲載)


千葉から、日本維新! 日本維新の会・田沼たかしの挑戦-大日本帝国憲法発布(写真の出典:Wikipedia)