保守系の新聞「青年運動」に、田沼の主張が記事として掲載されました。

タイトルは「教育委員会は解体的に出直しすべし」。

全文を掲載しましたので、ご覧ください。

$千葉から、日本再建! ~千葉市議会議員・田沼隆志の挑戦


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「教育委員会は解体的出直しすべし」

千葉市議会議員 田沼隆志




 教育行政の最大の問題点を一言で言えば「治外法権」である。責任と権限が一致せず、問題が起きても誰も責任をとらない。その結果、事なかれ主義・無責任行政・隠ぺい体質になる。大津のいじめ自殺事件においてもこの点が露呈した。


 本来、教育行政の最高責任者は教育委員である。しかし実態は、多くの自治体で名誉職、つまり「お客様」になっており、責任を果たせていない。その結果、現場出身で常勤の教育長に実質的な権限が集中し、監視の目は届かないという、独裁状態となっている。官僚支配の典型である。


 こうなるには理由がある。


第一に、選定のプロセスの問題である。教育委員の要件として、地方教育行政法第4条に「人格が高潔で、教育、学術および文化に関し識見を有する」と定められている。教育行政の最高責任者であるから、当然である。また条文に文言はないが、教育に対して熱意を有する識者を選任する必要があることは疑いようがない。この教育委員の選任権は市長にあるのだが、その選び方が前例踏襲的で思考停止しているのだ。例えば、医師の後任にまた医師、という具合である。しかもその実態の多くは、将来の部下である委員会事務局が提示してきたものを、市長部局がただ追認するだけとなっている。千葉市においては、市長は候補者に事前に会ってもいない。それでどうやって前述の要件を満たすと判断できるのか、全く理解できない。教育に無責任・無関心な首長だと、そうなってしまうのが現状である。


第二に、議会の思考停止的姿勢である。教育委員に就任するためには議会の過半数の同意を得なければならない。当然、人格高潔等の要件を満たすかどうかを、議会も判断しなければならない。しかし議員に提示されるのは、名前・住所・数行の経歴が書いてある一枚の紙だけ。千葉市では顔写真が貼ってあるが、それすら無い自治体も多いとのことである。面接する機会も無い。教育への思いのわかるような論文等も無い。それで要件を満たすかどうかを判断できるはずもなく、ましてや教育に対する熱意など全くわからない。私は愛国心を育める教科書の採択をライフワークとしてきたが、採択権者である各教育委員の歴史観や愛国心なども一切わからないまま、同意を求められるのである。しかし多くの自治体の議会は、これに異議を唱えることもなく、思考停止的に人事に同意してきた。


結果として、教育に対する識見・情熱等が一切審査されないまま教育委員は就任する。就任後も、専用の部屋・椅子・机も無く、仕事と言えば月に何回かの会議に来るだけ。結果として、教育行政のことを全く知らない「お客様」になってしまう。大阪の橋下市長が指摘したように、大津のいじめ自殺事件においても、会見で説明に出てくるのは教育長だけであり、他の教育委員は一切出てこない。


教育行政の最高責任者である教育委員が機能不全である以上、官僚支配を防ぐためには、公選職である首長に大きな役割が求められる。しかし「教育の政治的中立」の名の下に、首長が教育行政に関われる部分は制限されており、教育委員の選任や予算権ぐらいしか権限が無い。大津のいじめ自殺事件で越市長が遺族に謝罪を行ったが、市長はいじめを防止する施策を行う権限はなく、ただ謝罪という責任だけを負った形になる。


これらが現在の教育行政の問題点である。


この背景には、そもそも教育委員会制度自体の、発足以来の矛盾がある。教育委員会制度は、大東亜戦争敗戦後、アメリカ教育使節団による勧告で設置された。GHQによる「日本が二度と軍国主義化しないように」との目標の下、教育の民主化と中立化を意図したものだった。本来はアメリカ当地で行われていたように、自治体首長とは独立した公選職であり、予算や条例の送付権などもあった。しかし発足直後から、首長のライバルによる教育委員への立候補や、教職員組合による選挙活動など、様々な問題が起こる。そこで公選制から首長選任制への変更など「教育の政治的中立」への部分的改正がなされた。つまり概観すると、日本の伝統にも根付かない制度思想から始まり、そして責任の所在が不明確な制度設計となって、組織体質の無責任化・教育長独裁を許す結果となってしまった。


この状況を打破するためには、教育委員会制度そのものを解体的に出直しする、法改正が必要である。具体的には、まず現在の合議体による決定方式を改める。合議制はアメリカ伝来のものであり、我が国においてこれが適切であるかは非常に疑問が残るからだ。そして教育委員会全体を首長部局の中に統合し、公選職が最終的責任を負う形とすべきである。これによって、官僚支配から脱し、民意を教育行政に反映することができる。仮に教育行政に問題があった場合、現行制度では手の打ちようがないが、公選職である首長を選挙で変えることで、対応することができる。


とは言うものの、法改正は時間がかかると思われる。よって地方の側でも、現行の法律の範囲内で、今できることをやるべきである。そういった点で、大阪の教育行政基本条例は極めて画期的である。


その概要は以下の通りである。市長が教育目標を決定する。さらに市長はそれらを達成することができるよう教育委員を選任する。そして、その目標達成具合に応じて、教育委員を、罷免を含めて評価するというものである。この条例によって、教育委員の「お客様」化防止、教育行政への民意の反映、そして最終的に首長が責任を負うことによる責任と権限の一致と、現在の教育行政の問題の多くを改善することができるだろう。


われわれ地方で政治を行う者は、大阪のような条例の制定を急ぐべきである。これによって、現行法制度の欠陥をフォローすることができる。また、この条例は首長に大きな権限を与えるものであるから、それを最大限に活かすためには教育に対して熱心な首長を選ぶことが必要である。そうでなければ条例が形骸化してしまうからである。間違っても、千葉市の熊谷市長のような教育に不熱心な市長を選んではいけない。


また条例の制定が不可能な自治体であっても、首長による教育委員の選任をもっと責任をもって行うことや、議会の同意においてより厳しく審査するなど、方法はいくつかある。たとえば議会に委員候補を招いて質疑することも、法的には不可能ではないと、私は6月議会において答弁を引き出した。仮に議会が同時人事を否決すれば、首長側の選任プロセスは間違いなく改善する。それぐらいの気迫が必要だろう。


この教育委員会制度の問題解決のためには、我々一人ひとりが他人事と考えずに、自分達ができることを地道にやっていくことが重要である。全国の同志の皆様と共に、地方から問題提起をしていき、大きなうねりをつくっていけることを、切に願っている。


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