3月17日(土)に千葉市生涯学習センターにて、日本政策研究センターの主任研究員である岡田幹彦氏による歴史講座「乃木希典 高貴なる明治」の講演に参加してきました!
岡田先生の歴史講座は何度もお聞きしていますが、真に素晴らしいです。心を打つものがあります。

$千葉から、日本再建! ~千葉市議会議員・田沼隆志の挑戦

以下、備忘録。



・日本という国の歴史は驚嘆に値する。ゆえに日本は世界で一番好かれている国。 国難はこれまで四回あった。一回目は元寇、二回目は明治維新、三回目は日露戦争、四回目は大東亜戦争。
・世界の民族が独立したのは、ほとんどが第二次大戦後。彼らは日本のおかげと思っている。植民地支配を終わらせた。

・乃木希典大将は、これまでの教科書には載ってなかった。司馬遼太郎が、乃木は愚将と言ったため。坂の上の雲を読んだ人はみんなそう思った。 しかしいま、歴史に関心を持つ人で、乃木を愚将という人はいない。歴史通という雑誌でも、反愚将論を書いた。

・日本がロシアに開戦したとき、諸外国は、これで日本は滅ぶと思った。 戦っても亡国、戦わずとも亡国。 日本は有史以来、外からの圧力には、戦うことを厭わなかった。いざとなれば戦争も覚悟して断固交渉しなければ、やられる。 この日本人の気概を、今こそ取り戻すべき。

・戦争の勝敗をわける最大のものは、将の器。それがロシアに優っていた。そして海軍には東郷平八郎、陸軍には乃木希典がいたから、勝てた。 乃木希典は、少年時代、気弱だった。

・当初、旅順戦は大したことないと思われた。兵力15000、火砲200と見られた。しかし実は兵48000,火砲630だった。この誤報は致命的だった。攻者三倍の法則。 第一回総攻撃で、乃木軍五万のうち、死傷者16000と大敗北。そして敵が手強いことを知った。

・そこで護岸砲の28センチ砲を持ってきて撃ちまくったが、ビクともしない。ロシアの陸相クロパトキンは、いかなる敵でも三年支えられる、と言った。 フランスとドイツの戦いでも、ヴェルダン要塞戦でドイツは負けた。両軍で死傷者72万。要塞戦はそれほど難しい。

国民からは、乃木に大批判が起きた。さすがに山縣有朋も、更迭を考え、明治天皇に上奏した。しかし天皇は、乃木を替えたら乃木は生きてはおらぬぞ、と言い、山縣は引き下がった。 明治天皇は誰よりも、当時の政治家軍人のことをよくわかっていた。

乃木はこれに感動感奮し、二人の息子を死なせつつも、旅順を落とした。勝てるはずのない戦いだった。しかし第三軍は最後まで士気が落ちなかった。

静子夫人も苦悩していた。伊勢神宮に参拝し、水をかぶってひざまづき、神威をもって旅順陥落を祈願した。次男が亡くなり跡取りが断絶したときも「よく死んでくれた。これで世間の母人方に申訳が立ちます」報告した寺内陸相も慰めの言葉を失った。

・乃木も次男戦死を聞いて「よく戦死してくれた。これで世間に申訳がたつ」といった。この心情を思うべき。

・児玉源太郎も、なぜ第三軍に飛び、乃木を支えたかといえば、自分の責任だとわかってたから。このとき児玉は遺書を書いてる。そこまで覚悟していた。児玉の気持ちは、乃木すまない、俺が敵の戦力を誤報したからだ、だった。

・旅順は児玉が来て一日で落ちた。つまり、それまでの攻撃が効いていたから。児玉が落としたのではない。もちろん日本も大損害。北海道師団は一万のうち七千が亡くなった。 世界はこれに驚愕した。ここで日露戦争の大勢は決した。日本軍のみができた戦争だった。

・なぜ勝てたのか?戦力データからは絶対勝てない。この原動力は、乃木希典の人格力。通常、死傷率が3分の1から半分だと、その軍隊は壊滅と見なされる。乃木軍はほとんど全滅的だったが、士気を維持したのは、乃木の力。私は大将の手に抱かれて死にたいと思った、と生き残り兵も述べている。

・クロパトキンは乃木を恐れた。黒木為楨も強かったが、理解の範囲。乃木は理解できない。鬼神のような乃木に心底恐怖した。奉天会戦も、乃木による逆転勝利。戦争後、日本国民は、東郷と乃木を、全国民の英雄として称賛した。歌までできた。それが真実の歴史。

・乃木は敵将ステッセルに、帯刀での会見を許した。明治天皇も、武士の名誉を保つよう伝えた。これを全世界は称賛した。ステッセルは感銘し、自分の白馬を乃木に贈った。乃木は寿号と名付け、大切にした。

・ステッセルは帰国後、軍法会議で死刑判決。それを聞いた乃木は、いかにステッセルが立派に戦ったかを現地メディアに流し、減刑された。その後生活に苦しんだときも、乃木は無名で生活費を送った。後日乃木が殉死したとき、ステッセルは「モスクワの一僧侶」の名で、皇室に次ぐ弔慰金を贈った。

・乃木は陛下に報告したとき、涙を流し、陛下の赤子を多く死なせた責任をとり、自決を願った。陛下は許さず、お前が死ぬのは私が死んだ後にせよ。
・明治天皇は深く乃木を信頼し、参謀総長ではなく学習院長に任命し、孫の昭和天皇を教育させた。明治天皇にとって学習院長は参謀総長より大事だった。

・昭和天皇は後に、私の人格形成に最も影響を与えられたのは、乃木希典と言った。

・明治天皇が亡くなったとき、乃木は殉死した。そのとき静子夫人もお供した。なぜか?旅順陥落の祈りを伊勢神宮でしたときに、夫婦の命も捧げると哀願したから。この夫婦の殉死に、日本国民は皆、涙を流した。

・乃木、東郷は、日露戦争の勝利の英雄のみならず、世界的英雄。ポーランドなど各地でも、ノギ、という名前の子供がいる。