私が東大時代に、お世話になった、北岡伸一教授の、最終講義に、先日参加してきました。
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久々の母校、東大。
私も偶然私服だったので、学生時代を思い出します。
あの頃は…アホでしたf^_^;)
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以下、メモです。
乱文ミスは、ご容赦を。


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・外交史は、日本人が知らねばならない。

・佐藤総理が沖縄返還したとき、ベトナム戦争の中で沖縄が返ってくるというダイナミズムは相当だった。核抜き本土並みで返還

・野党は何をやっていたのか…京極純一先生は、野党は沖縄返還よくやったと言えばよかったのに、と言った。なるほど与野党抗争は難しいと納得した

・大学院生のときも、与野党関係について研究した。政友会と、反政友会で、政権交代をしていた。その論点は外交政策だった

・陸軍研究、満州政策、後藤新平や福沢諭吉など知識人研究、自民党研究などをやってきた。何でもやってるように見えるかもしれないが、一貫するテーマは、合理的な外交政策を生み出せる国内政治とは何か?内政と外交の結び付きが、研究テーマ

・ゼミでも長期的に歴史を学ぶ。いかなる内政が外交を変えるかをたどる

・戦後はほとんど政権交代なかった。その中で今回民主党が交代を果たしたのは、研究上は重要な事件。

・政権交代と外交政策。これは両方が影響する。

・政権交代度と、外交転換度。これを歴代内閣で数値化してみた。
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外交転換度も、政権の期間がある程度は長くないと、判断不能だが…

・政権交代に続いて外交転換したのは、1911~1918。二個師団増設問題や、対中政策で、大きく変わった

・1924~1931に、中国情勢流動化に伴って二転三転する

・1948~1954に、吉田対鳩山。鳩山は非吉田政策として、日中、日ソ関係を推進。日中は漁業問題。日ソは北方領土。二島返還はアメリカは認められない、と圧力。

・鳩山一郎は対米従属からの脱却を目指したが、うまくいかなかった



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・岸内閣も対米自立はテーマ。岸は元々親米だったはずはない。東条英機内閣で閣僚であり、その後も戦犯としてアメリカに巣鴨収監された。
大きかったのは、重光ダレス会談に同行したこと。
アメリカの懸念は、1.中立派になってしまうのでは?2.フリーライダーになるのでは?そのことを岸は理解していた

・岸は総理のとき、週に二回ペースで、マッカーサー大使と会談した。驚異的なペース。今ならあり得ない

・岸は、1.旧安保を改定して欲しい 2.沖縄返還して欲しい と申し入れる 総理就任後数ヶ月内

・岸にブレーンはいなかった。個人プレー。たまに福田さんがいただけ

・岸のペーパー。今も使ってる
国防の目的は~
1.国連活動を支持 2.民生安定、愛国心涵養 3. 4.外部侵略には米軍と連携して

・岸はまず南アジアに行き、支持を得てから、アメリカのアイゼンハワーに会った。ゴルフをやって仲良くなった

・外交三原則。国連中心主義、アジアの一員、自由主義諸国。アメリカと書かないのは画期的

・国連の非常任理事国として、加入して一年で当選。英国核実験で抗議したり

・1957の岸の動きは非常に戦略的だった。

・政権交代はあったが、外交転換はなかったのが、第一次桂から第一次西園寺。日露戦争で連勝と聞いてたのに賠償がなく国民が納得しなかったので、その不満を消すため、譲った。政権交代しても外交政策は変わらないケース

・村山富市内閣も、政権交代したが、外交政策は変わらなかった例。日米安保体制堅持した。それだけ村山は野党時代は適当に言っていたのだろう

・政権交代ないが、外交転換したケース。第一次近衛は、国民政府を相手とせず、声明。バカな声明だった。あとで近衛も気付く。そこで宇垣外相。東亜新秩序声明。中身は変わらない。要は汪兆銘対策。
これは大きな転換。門戸開放主義だった。アメリカの権益もはじめは守ろうとした。しかし転換してしまった。しかも当事者にその自覚がないのが問題

・自民党内の政権交代。
池田を分析し、Sオペ。で、沖縄問題をやってないことを突き始めた。
なお新聞はそれを書いてない。

・政権交代しても外交転換あるとは限らない。あるのは、世界をみて、戦略的に、自分の政治生命に重ねることのできる人。かつ、戦略的アプローチができる人。
また、党内基盤を持つことも条件。加藤は党財政の半分自分が出した。岸は弟が佐藤。佐藤の成功も直系が幹部だったから。
外交をよくしらないとうまくいかない

・今後この傾向はますます強くなる。かつての帝国主義的政策はできない。相互依存が強い。ゆえにかなり事務的な作業が中心。

・いま東大は学生400人。今日は聴いてもらえて嬉しい。日本のリーダーは日本政治外交史を学ぶべき

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