先日出席した、小野田寛郎さん講演会について、敬愛する西村眞悟代議士が触れていた。



○我が国内外の情勢はイスラエルより厳しい
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=429



私が小野田少尉の講演で、最も心に残ったのは、トビ職さんのことだった。



「いまは、政治行政軍事外交経済教育なんでも、すべてにおいて、覚悟がない。


いつでも、命懸けの覚悟、死の覚悟がないと、自分の能力は発揮できない。


トビ職は、高いところで細い道でも歩ける。落ちたら死ぬという覚悟があるから、能力が最大限に発揮されて、実際落ちないのだ。


一般人は、落ちたら死ぬということを「覚悟」しないで、くよくよ考えているから、本当に落ちてしまうのだ」




死の覚悟。

これが生を輝かせる。

上杉謙信の「常在戦場」の教えもそうだった。


26年間、ルパング島で死の覚悟とともに生きてきた小野田少尉からすれば、いまの日本はすべからく「死の覚悟」が足りないように見えるのだろう。

私も「命に懸けてもやる」と常に思えるような政治を、創っていきたい。




あるガン患者の、手記の本の言葉も、胸に残っている。大意は以下だ。


「自分がガンと告知された直後、病院の外を歩いたら、町が一変した。


全てが輝いて見える。買い物をしに自転車に載っている普通の主婦の方も、行き交う町の人も車も川も建物も。


道端の石でさえ輝いて見えた」




いまの大切さ、素晴らしさは、私たち自身が内側から気付くものなのだ。



現代は、医療が発達した。もちろんそれは良いことだ。

だが一方で、死を生活から切り離し、自分と無縁のものとした結果、生きていること自体の素晴らしさを、忘れがちになってはいないだろうか。



私は20代の頃、親しい友人が何人か亡くなった。

あるいは友人のお父様が亡くなられたこともあった。

(死生観についての、3年前の投稿)

http://blog.livedoor.jp/ttanuma/archives/50493142.html

http://blog.livedoor.jp/ttanuma/archives/50500339.html

http://blog.livedoor.jp/ttanuma/archives/50493109.html


私自身、祖父は両方とも亡くなり、叔父も若くして亡くなった。親戚の子も亡くなった。




亡くなった人たちは、私に、大切なことを教えてくれている。

私は本当に、心から、そう思っている。

私が出馬の勇気を持てたのも、特攻隊の若者たちや幕末志士たちの、命懸けの偉業に、「私は何をやっても死ぬわけじゃない」と思えたからだ。

じいちゃんたち出征者の苦労があって、戦後日本の繁栄があると思っているからだ。




苦労、病気、死。

仏教では四苦八苦などという。

こういうものは、もちろん無い方がいい。

しかし、身近にあることで、生の素晴らしさを、教えてくれる、大切なものでもある。やはり無くなってはいけない。そして、人間は幸か不幸か、なくならないようにできている。



だから私は、その人が苦労を知っている人かどうかを、一つの重要なポイントとしている。

言葉の裏側にある、他人の苦労への共感力、痛みへの想像力が、その人の深さ、優しさになると思っている。

人間の幸福は、苦労から抜け出すこと。ただその苦労を知らないと際限の無い欲望肯定や冷酷・傲慢な判断をしてしまう。

生、今、普通の、有難さ、素晴らしさを知らず、机上の理論や浅い情報だけで判断をしてしまう、そういうリスクが常に人間にはあるものだと思う。



特に政治家は、痛みがわかる人、弱い人や苦しんでいる人のことをわかる人でなければならないと、思っている。

力があるがゆえに。

映画「スパイダーマン」でも言っている。「大いなる力には、大いなる責任を伴う」。



私自身も、まだまだ修行中である。

政治家として、力を預かるに値する、人間の深さ、大きさ、器を、磨いていかなくてはならない。

まだまだまだまだだ。

頑張らなくては、と思う。