一つだけ、小沢問題に関して。


-----------
●首相「漆間発言は誤った報道」 午後に答弁修正
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090309AT3L0903Q09032009.html


 麻生太郎首相は9日午前の参院予算委員会で、漆間巌官房副長官が「西松建設の献金事件は自民党には捜査は及ばない」と発言した問題について「オフレコ記者懇談会での発言が誤って伝えられた」と述べ、報道機関側に問題があるとの見方を示した。


 その後首相は、同日午後の参院予算委で、「漆間副長官の記憶と記者の受け止めとの間にズレがあった。誤解を招きかねない発言だった」と述べ、午前中の「誤って伝えられた」との発言を事実上、修正した。〔NQN〕(14:08)
-----------





「報道機関に問題がある」というのは、いまひとつわかりにくいかもしれないが、これに関する花岡氏の論文を読むと、背景がよくわかる。




-----------
●<<政治取材の現場は・・・>>
http://www.melma.com/backnumber_142868_4408518/


 「政府高官」発言が政治問題化した。政治取材の現場がこれを引き起こした。信義を喪失した政治メディアの堕落を憂う。

 「西松献金」問題で民主党の小沢一郎代表の公設第1秘書が逮捕されたことに関連して、この「政府高官」は5日、自民党には拡大しないだろうという見通しを述べた。

 これが重大発言だというわけで、まず、朝日が「政府高官」に対して名前を明らかにして報道したいと申し入れ、これに内閣記者会が同調した。

 その結果、「政府高官」が誰であるか、瞬く間に政界に知れるところとなり、河村建夫官房長官は8日、テレビで漆間巌官房副長官であることを明らかにした。

 民主党は漆間氏を国会で追及するとしている。「国策捜査だ」といきり立った鳩山由紀夫幹事長は「内閣のど真ん中と検察との間でやりとりがあったとしか思えない」と言っている。

 さて、この一連の経緯をどう見るか。

 政治取材の現場では、記者会見のほかに「懇談」という決まりごとがある。懇談にはメモを取っていい「メモ懇」、発言者の名前を特定しないで報道する「オフレコ懇」、内容を明らかにしてはいけない「完全オフレコ」などがある。

 通常、いわれている懇談は、首相官邸の場合、官房長官は「政府首脳」、官房副長官は「政府高官」、首相秘書官などは「政府筋」などとして報じていいことになっている。

 官房副長官はわれわれが現場にいたころは「政府筋」だったはずだが、漆間氏のような「大物」が来たためか、「政府高官」と呼ぶようになったらしい。

 漆間氏は警察庁長官経験者で、その体験をもとに記者団に事件の今後の見通しを喋った。いわゆる背景説明というものだ。

 オフレコを前提としての懇談なのだから、終わってから、発言者を公開するように求めるというのは、信義に反する。河村官房長官も、テレビという公共の場で漆間氏であることを明らかにしてしまってはいけない。政界で知られてしまった上でも、どこまでも「政府高官」でおし通さないと、筋を曲げることになる。

 懇談というのは、長い間の政治取材の現場が積み上げてきた「知恵」である。建前本位の記者会見だけでは、ものごとの裏側、背景はわからない。そこを補うために、会見のほかに懇談という手法が導入された。

 だから、「〇〇官房長官は・・・と述べた。これについて政府首脳は・・・を明らかにした」といった記事が出ることがある。両方とも同じ人なのだが、あえて発言者を特定しないことで(業界では分かるのだが)より突っ込んだ言及が可能になる。

 国民の知る権利を担保するための手法なのだ。それを根底からひっくり返すようなことをメディア側がやってはいけない。自分で自分の首を絞めるようなものだ。

 これをやられたら、「政府高官」は今後、あたりさわりのないことしかしゃべらなくなってしまう。それでは政治報道の深みがなくなる。

 民主党やほかの野党が「政府高官は漆間氏だ」と政権攻撃に使うのは、この世界のことだから当然といえば当然だ。政治メディアはその片棒をかついでしまったのである。
 
 漆間氏は国会から呼ばれても、「政府高官にお聞きください」と突っぱねればいい。
-----------



確かに、オフレコ懇談を、急に手の平を返して攻撃材料に使うというのは、信義にもとる行為といえる。



内容が、関心が高いとはいえ、やはり情報発信者は(政治家も含め)信義を守るべきと思う。そうでなければ、内部情報を知る人間は口を割らなくなり、尚更情報の質が低下するだろう。



いやそれ以前に、信用できない人間は、その言葉も信用できない。

マスコミはもう面白ければなんでもよくなっている。信頼や義理など関係ない。

情報化社会の悪弊もここまで来たか、という感じだ。



※参考:「政府高官」としか書けない 「オフレコ懇談」とは何か

http://www.j-cast.com/2009/03/09037308.html

(この記事でも、マスコミ側が、オフレコ解除の努力をすべきと結論付けている。同感だ。いまは嘘つきだ)





いつも書いているが、私は自民党も民主党も、それぞれ好き嫌いがあり、どちらも支持できない。


この件や、麻生氏・小沢氏についても、いろいろ思うところがあるが、明確な支持はどちらもできない。



しかしながら、現状のマスコミは、政治自体よりもはるかに問題があると考える。


政治は、すべてが妥当とは限らないにしても、批判をちゃんと受け、責任を取ったり、自己成長をしようとしている。みな思った以上に真剣で真摯だ。


行政も、司法も、ちゃんと批判を引き受け、発言や行動に責任をとっている。だからこそ私も信用できる。


しかしマスコミは、批判を受けていない。反省もない。責任を取っていない。誤ることも時折あるが、小さな紙面だけ。要は、無責任なのだ。


私は無責任な発言が、最も嫌いだ。たとえ思想信条が異なろうとも、リスクを取って一生懸命やっている人は、私は誰でも一定の敬意を抱いている。しかし自己の権力の大きさを利用しつつも、責任は小さくしか取らないのは、人間として、組織として、おかしい。




日本をおかしくした一番の元凶は、マスコミだと、私は確信している。

情報通信の発達を利用して、無責任な発言を横行させてしまった、いや無責任な大人の姿を見せてしまった。

この現状の日本社会に対し、私は非常に危機感を持っている。というより、もう怒りの領域である。



これからも、おかしいものはおかしいと、一人でも言っていきたいと思う。