はじめに明言致します。



私、田沼隆志は、あくまで自分の信念と合致する方しか、応援はできません。
そして、それができる、無所属という立場があります。
あくまで、純粋に、貫かせて頂きます。
政党のしがらみで、応援することは、100%ありません。ありえません。


私の信念とは、皆さんがご存知の通りです。
業界や団体・労働組合からのしがらみを持っていない、そして日本の大切な心を守る、改革的保守系の方を、応援したいと考えています。


業界利権とも、団体癒着とも無縁な、そして日本を愛し、故郷を愛し、命を懸けて戦う政治家。そういう方を、応援します。



もちろん、本来ならば、政治浪人という半人前の私には、応援する力などないことはわかっています。
ですがそれでも、政治が悪化するのは、避けたいのです。その強い焦りがあるのです。
「応援したい人がいないから、選挙に関わらない」という態度は、無責任に思えるのです。


もちろん、白票や投票棄権などの「今の政治に丸ごと反対!」という意見は、ありと思います。
関心をちゃんと持っているからです。
もっとも良くないのは、無関心だと、私は考えます。現在を生きる私たちには、未来を選ぶ責任が、あるからです。


(だから「投票もせずに政治家に文句だけ言うな!」という政治家の意見は、半分は賛成ですが、半分は疑問です)


たとえ消去法になろうとも、この人ならプラスになる、そう思える人を応援する義務が、私たち有権者(私も一有権者です)にはあると、思っています。
私たちが、未来を選ぶのですから…





さて、最近、白石真澄さんが出馬表明をし、その関連でドタバタしています。


○白石氏推薦取り消しへ/知事選で民主県連
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000901090003



実は私は、既に昨年から、白石さんには疑問を感じておりました。


以下の文章は、12月後半の報道を受けて書いたメモです。驚くほど予見していたというか、今でも通用するので、そのまま掲載します。

(自分用に書いたので、ちょっと断定口調で恐縮ですが、ご容赦を)



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○知事選相乗りめぐり続く駆け引き 千葉、総選挙の前哨戦
http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008122301000387.html


率直に言って、白石さんは、なぜ出馬するのか、なぜ県知事なのかが、わからない。



政治は、一種の戦争だ。仲間とは危機であっても戦い抜く団結が必要だし、ライバルとは違いをはっきりさせて有権者に訴えなくては、有権者を騙すことになりかねない。



そういう業界である政治に、自民にも民主にも公明にもお参りするというのは、軸足がよくわからない。ゆえに仲間ができないだろう。というか、軽い。そういう人は、命を懸けていない。だからたとえばもしどこかの政党がやはり推薦を見送るなどとなったら、出馬をやめるのではないか。

政治経験がない弱さというか、政治界をどこかへの転職と勘違いしているような、軽さを、感じる。



たとえ一人でも、無所属であっても、やりぬくという夢、理想、信念、覚悟、つまり「大義」がなければ、大きな改革などできない。

それが口で生きる評論家と、身体で生きる政治家との、最も大きな違いである。



大義なく政治家となった場合、その政治家はいずれ、自分の職業安定と組織維持が一番の大義になるだろう。だから私たち有権者が政治家をみるときは、その候補者がどれだけのものを犠牲にしてきているかを、やはりチェックする必要がある。本気の度合いがわかるからだ。たとえばお金についても、選挙資金をある程度は自腹で出さなければ、その政治家は本気でないとみなされても仕方ないだろう。ましてや落選後の職業が安定したから出るなどという人間は、政治家を腰掛けとしてしか見ていない。



そう、大義が最も大事なのだ。出馬する原点、動機、何をやりたいかが、言うまでもないことだが、なによりも大切なのである。
しかし今回の騒動では、公明の推薦ははやばやと決まり、民主の政策協定は非常に断片的で、しかも本人は自民に推薦願いに行くし、自民党はなぜ白石氏を推す(かもしれない)のかが曖昧。どうも勝敗見込みから判断しているというか、組織力から判断しているようである。



つまり、大義がないのである。それが致命的であり、私が不信を抱く点だ。今回の一連の騒動では、なぜ公明が推薦するのか、民主が推薦するのか、自民が推薦するのか、その大義が一言も話されないまま、勝てるか勝てないかで推薦可否を判断しているように思われるのである。



それは全くもって、最悪である。政党の無節操さもさることながら、政治家がまずい。そういう政治家は、勝てないとみるや、厳しいとみるや、妥協するだろう。
政治は評論とは違う。それだけは私は身をもってわかる。たとえ一人でもやり抜く、不退転の決意、熱い魂がなければ、参謀はいいかもしれないが、リーダーにはなってはいけないのだ。少なくとも危機のリーダーではない。いや、なれるはずがないのだ。なれるはずがないのに候補になっているのは、政党や組織が勝手に権力闘争をしているのであって、千葉県民の未来を考え身を捧げることとは全く別のものなのである。



県民不在の権力闘争。大義、原点、覚悟なき政治。既成政党による不毛な争いは、どうやら国会だけではないようである。

私は、党の推薦有無は関係なく、本気の信念を持って、千葉県民のことを考えている人を、まず候補者の資格としたい。そしてその上で、政策的には、千葉県から日本再建、日本の心を取り戻す政策を実践する候補者を、応援したいと思っている。


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実際、8日に発表された白石氏のマニフェストでも、、、


「私は今から12 年前、子育てしやすい環境を求め千葉に引っ越して参りました。これまで県教育委員や小中学校でのPTA 活動などを通じ、地域資源に恵まれた千葉の素晴らしさと、発展可能性を実感してきました。私の民間企業や大学教授としての経験、さらには政府・自治体の公職経験を活かし、このたび千葉に何らかの貢献と恩返しをしたいと考え、千葉県知事選挙に立候補する決心をいたしました。」


http://www.shiraishi-masumi.com/




この、挑戦の原点や動機は、、、

学者くさいといか、他人事のようというか、、、

私にはあまり、心に響きませんでした。






以上が、私の、見方です。

今後のどの選挙でも、この本質は、変らないと思います。



そして私の予見が、現実のものとなってきているように、思えます。

引き続き、注視します。





付け加えるなら、大手メディアは、こういう政治界の物の考え方も、伝えるべきと思います。

特に国政が顕著ですが、結果的な権力闘争のことばかりが報道され、

なぜ争うか争わないかの大義や、信義が、見えないのです。

(政治家がそもそも発信していない面もあるでしょうが…)



それでは「政治なんてこりごり」「信頼できない」という国民が増えるのも当然です。



たとえばいまの、定額給付金を閣僚が受け取るかどうかをめぐって、「麻生内閣迷走」などと各メディアは騒いでいます。

しかしこのことは、わたしたちの脳みそを占めるだけの価値のある、本当に重要なことなのでしょうか?



そんなことよりも、トヨタですら創立初の営業赤字であるこの重大な経済危機をいかに乗り切るのか、そのことに賭ける各政党や政治家の思いや、具体的な政策内容の良し悪し、世界経済の見通しなど、

未来を私たちが選ぶために知らなくてはならない重要な情報をこそ、報道すべきではないでしょうか。



いま政界にもっとも影響力があるのは、みのもんた」といわれるように、

ワイドショーの影響力が高まっています。

しかし伝統メディアまで、ワイドショーになってしまっているように思えるのです。

大臣の絆創膏や、首相のホテルバー通いなど、ワイドショーに任せればいいのに、

すべてのメディアがワイドショーの視点になってきているように感じるのです。



ワイドショーにはワイドショーの役割があり、私はそれを否定しません。

しかしワイドショーは、誤解をおそれず、一言で言うと、「無責任」です。社会の理想を、持たないメディアです。

伝統メディアには、少なくとも発言者の軸足、言い換えれば理想を、持っていて欲しいです。

そうでなければ、私たち視聴者が困ります。信頼が、できないからです。



もちろん、私たち自身が、どうでもいい報道は無視し、重要な報道を選べばいいのですが、それは簡単ではないとも言えますし、これだけマスメディアがそろって同じように無責任な報道を圧倒的に繰り返していれば、どんな人でもそれに影響されます。



「ひとつのニュースをどう報道するか」

以上に、

「何を報道するか」で、そのメディアの質は決まります。

そして私たちはそれに、思った以上に、振り回されていると思います。



このことが、政治への信頼が損なわれている背景にあると、私は思います。

残念です。



私たちは、メディアに振り回されないよう、メディアを突き放してみなくてはいけない、

そして見るときは注意深く、仕入れなくてはいけない、

決して粗末に適当に情報を扱ってはいけない、と思います。

テレビのつけっぱなしで、なんとなくワイドショーの言うことを鵜呑みにするなどは、もってのほかです。




情報化時代に生きるとは、そういうことだと、私は思っています。