4月7日。


63年前のこの日。


戦艦大和が沈没しました。





1945年4月7日、天一号作戦のもと、沖縄救出に向かった大和は、


米軍機動部隊386機の猛攻撃を受け、


2時23分、鹿児島県の坊ノ岬沖で、撃沈されました。




伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下、2,740名が戦死。

生存はわずかに、269名でした。


大和の沈没により、連合艦隊は解体。外戦部隊は壊滅しました。

日本海軍が立案・決行した、最後の水上作戦となりました。

このあとは、燃料不足もあり、「回天」などの特攻兵器に頼った攻撃のみとなります。



4月7日は、事実上、日本海軍が、最後を迎えた日でした。




実際、このあとの6月23日、とうとう沖縄も陥落。

大田中将の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」が打たれ、

いよいよ次は本土決戦と迫ります。

(参考:私の沖縄への想い http://ameblo.jp/tanuma/entry-10054317637.html




●大和は、制空権、制海権とも米軍に握られてる中、出撃しました。


「米軍の制空権下に、護衛となる航空部隊なしで出撃すること」は、自殺行為でした。

考えればわかることですが、丸腰です。軍艦は、対軍艦のために造られたもので、対航空機には向いていません。

ゆえに、航空機による神風特攻隊と同様、「海上特攻」と言われました。


当初、この特攻作戦がつたえられたとき、伊藤長官は「無駄死にだ」と反論、会議は紛糾しましたが、

「一億総特攻のさきがけとなってもらいたい」といわれ、ついに伊藤長官もうなずいたそうです。



なんともつらい、会議です。

戦わねば負けてしまう。しかし無駄死にになるのは目に見えている・・・

日本を守らねばならない。しかし大切な部下たちの命を簡単には差し出せない・・・

敗戦の局面でこそ、切実な、大義と現実とのぶつかり合いがあり、人間の器が問われます。




★4月6日の午後、大和以下十隻の第二艦隊は、山口県徳山沖を出撃しました。


連合艦隊司令長官の、激励訓示が、読まれました。


帝国海軍部隊ハ陸軍ト協力空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対スル総攻撃ヲ決行セントス


皇国ノ興廃ハマサニ此ノ一挙ニアリ


ココニ海上特攻隊ヲ編成壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ、帝国海軍力ヲコノ一戦ニ結集シ、光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルトトモニ、此ノ光栄ヲ後ニ伝エントスルニ外ナラズ


各隊ハソノ特攻隊タルト否トヲ問ワズ愈々決死奮励 敵艦隊ヲ随所ニ殲滅シ モッテ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ




吉田満氏の名著『戦艦大和ノ最期』では、「美文ナリ」とされています。

必敗の戦地に赴く運命と、美しい言葉とのコントラストが、大変印象的です。



また、『戦艦大和ノ最期』では、現場の兵士同士の不安な心理が描かれています。

士官学校(軍人養成校)出身者と、学徒動員兵の間で、言い争いが起こる。

そのとき、白淵大尉は、こう話し、いつも場は収まったそうです。





「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」




こういった想いで、散っていった若者がいることを、後世の私たちは忘れてはいけないと思っています。




★実は、大和の航路は、沖縄に直行せず、西に進みます。


米軍は当初、戦艦による迎撃を考えていました。

しかし大和が西進したのをうけ、逃がさない・艦隊では追いつかないため、

機動部隊に航空攻撃を命じたと言われています。


もし大和が沖縄に直行していれば、世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていたかもしれません。

その場合は、当時世界最大の46㎝砲をもつ大和です、もう少し互角に近い戦いができたのではないか。

素人憶測でしかありませんが、大変残念です。



★翌7日は、天気が悪く、一面が雲で覆われていました。


そこに12時過ぎ、386機の米航空機が出現。早くも戦闘開始です。


米軍は左舷に集中的に攻撃を加えます。応戦するも、火災の発生や航行能力喪失で、ほとんど反撃できません。


まさになぶり殺しに近い壮絶な戦闘の結果、わずか2時間で、大和は大破、沈没します。


このすさまじい戦闘シーンは、私の筆力ではお伝えしきれません。

前述の『戦艦大和ノ最期』の描写、あるいは映画『男たちの大和』をご覧ください。


 






こうして大和は、多くの兵員たちとともに、その悲劇の運命を終わりにしました。

それが本日、4月7日です。

この日は、大和、および第二艦隊で犠牲となった多くの兵員たちを、鎮魂をすべき日であり、

そして日本の敗北を決定づけた日として、

私たちの記憶に長く刻んでおくべき日であると私は思っています。





●歴史を感じるには、現地に行く・近づくのが、私はベストだと思っています。

そこで、以前、呉の、大和ミュージアムに行きました。


yamato1  江田島からの帰りのフェリーから撮影。

(江田島についてもいつか書きたく思います)



yamato3 いまでも水深345mの海中に眠る、大和。

その海中写真がありました。

艦首の、菊の御紋が、本物の迫力をうかがわせます。



yamato2 1/10モデルの大和がありました。これでもかなり大きいです。



yamato8  ところかわって、尾道。大和の実物大の、『男たちの大和』のセットが、残されていました。やっぱりそこも行きました。


とにかく大きい! 人間と比べて下さい。


yamato9 主砲。これは映画セットですので中身はありませんが、それでも本当に巨大です。


以前、私は、ハワイにある戦艦ミズーリ(実物)を訪問しました。ミズーリの主砲は44㎝。それでも本当に巨大でした。しかも本物の、重さ、迫力は、既に退役しているミズーリであっても、ひしひしと伝わってきました。

(参考;http://blog.livedoor.jp/ttanuma/archives/50731864.html  )


それよりも大和は巨大だと思うと、実物は本当にすごかったんだろうなと、察します。



yamato11 艦首もセットにありました。巨大です。



以下、映画で使われたセット。


yamato5  yamato6

yamato7




●少しだけ脱線すると、、、大和ミュージアムには、人間魚雷「回天」の発案者、黒木大尉の展示もありました。


yamato4



この回天は、あまりに悲劇的な特攻兵器ですが、米軍には相当の脅威を与えたそうです。

停戦調停のとき、米軍が日本政府に言った第一声が、「回天はどこにいる?やめさせろ!」だったと聞きました。

命懸けの兵器が、相応の効果を持ったのは、英霊に報告できる、不幸中の幸いです。


この回天のことを扱った『出口のない海』という本もあります。

映画もあり、主演の市川海老蔵の演技が、泣かせました。

(この回天についても、いつかまた書きたいと思います)








●すべての日本人に知ってもらいたい歴史の一つ。

それが、戦艦大和です。



もちろん、この作戦自体は、決して誉められるものではありません。

航空機による特攻隊も、あってはならない作戦であるのと同様、

この大和による海上特攻も、その失敗を、二度と起こらないよう、よく分析せねばなりません。



しかしながら同時に、この戦局終盤のときに、祖国防衛を果たす手段が、非常に限られていたことも、我々はある程度は理解してあげなければなりません。

「勝たねばならない。しかし戦力はない。そして敵は迫っている。かくなる上は決死の作戦を…」となった心理は、一方的に批判はできないのではないでしょうか。私たち人間ひとりひとりでも、そういう、命を捨てて戦う場面が、ときにはあるのではないでしょうか。



もちろん、繰り返しますが、これは弁護できるものではない。

しかしながら、単純な批判だけで終始しては、盲目となる恐れがあると思います。

特に忘れがちなのが、「勝ちたい」「勝たねばならない」「日本を守りたい」「いまは危機だ」という当時の人々の想いです。

多くの軍部批判者は、これを決定的に見落としている。



当時の軍部首脳も、私たちと同じ人間。

本当に同じ立場、同じ状況のときに、より良い判断ができるかどうか、丁寧にたどらねばと、私は思っています。でなければ歴史に学ぶ意味を大きく失います。

批判する資格があるとすれば、せめて説得的な代替案を出し、かつそれを勇気をもって断行できる人間力をもっているときでしょう。私も含めて、それはなかなかできることではないと、自戒しています。




そしてなにより、このあまりに過酷な運命を、受け容れ、戦い、散華された、

前線の兵士たちに、

深い感謝と哀悼の意を表したいとおもいます。





4月7日。

日本の運命を振り返る、大切な鎮魂の日です。