文化の日。この日には、強い違和感がある。


そのことについて、昔の田沼のブログで書いた文章があったので、引用する。
若干言葉遣いが甘いが、本質は全く変わっていない。



=================================================
【1】2005年10月14日 田沼投稿
=================================================


「カタカナ語と祝日」

-----------------
●リバウンド→揺り戻し、外来語言い換え例を中間発表
(読売新聞) - 10月6日21時44分更新


 分かりにくい外来語(カタカナ語)の言い換えを提案している国立国語研究所(杉戸清樹所長)は6日、第4弾として新たに35語の言い換え例を中間発表した。


 国民の意見を募り、来年1月に最終発表する。公表された言い換え例はこれで計176語となった。


 国語研は第4弾の最終発表を区切りに、言い換え例をまとめた「総集編」を作成する予定。その後は、環境や福祉、情報技術(IT)などの分野別にカタカナ語の言い換えを進め、漢語や和語などについても、分かりやすい表現を模索するとしている。


 今回の提案は、国民の理解率が4・2~68・9%のカタカナ語を幅広く対象にし、「リバウンド」を「揺り戻し」、「ヒートアイランド」を「都市高温化」などと言い換えた。


 国語研は、昨年10月に約1800自治体を対象に行った「外来語の言い換え提案に関するアンケート」の結果も公表。組織的にカタカナ語の言い換えに取り組んでいる自治体は、「これから行う」というところも含め全体の16%で、多くが「住民向け文書の作成」や「広報紙の執筆」で実践しているという結果だった。
-----------------



カタカナ英語の無批判な横行には、辟易している。そして国民も、どんどんその違和感が麻痺してきていると感じる。日本の財産である言葉を失いたくない。


せめて文化の日くらいには、メディアも国民も、全てのカタカナ英語を止める、などとできないか。「文化」の日なんだから。


しかし多分それも難しいだろう。なにせ文化の日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日らしいから。
なんだそれは? 「自由と平和を愛する」動機が、この日に生まれる、背景はなにかあるのか?


もうまどろっこしいし話も言葉からずれているので結論を言おう、現在の祝日には全く一貫した祝う気持ちがない。


11月3日。この日は何の日か? 実は、明治天皇の誕生日なのである。なぜそれを堂々と掲げず、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」などという唐突なコンセプトが生まれたのか?言葉を誤魔化して用いているとしか思えない。


そもそも国民が祝う気持ちを呼び起こすには、輸入品である「観念」などでは足りないのではないか。ぼくはやはり、歴史に思いを馳せることが最も大事と思う。この日、日本の歴史で重要なことがあった、それを思い出し追体験するからこそ、祝う気にもなり、連帯感も生まれるのではないか。

今の祝日は、何の文化的一貫性もない、バラバラ設定であり、休日と何の違いもなくなってしまっている。



このテーマは思ったよりもはるかに重要と考えているので、また後日正式に書く。
ただ、今すぐいえること。いつか、祝日を、真の祝日足らしめる。
憲法同様、ぼくの使命の1つだ。


※祝日一覧はこのサイトでわかる
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/syukujitsu.htm
※※もちろん、冒頭の言葉に関連しても、後日書く



=================================================
【2】2005年10月16日 上記投稿への友人Yからのコメント
=================================================


お久しぶり。^^ いつも読んでるよ。


「カタカナ語の無批判な横行に辟易」というのも、祝日が真に「祝」なものにならないか、というのも同感です。が、「日本の財産である言葉」に含まれる無数の漢語も、ある意味でカタカナ語よりずっと「無批判」に入ってきたんじゃないか、とか、文化の日が「"実は"明治天皇の誕生日」であるというところにまた歴史が刻み込まれているという見方もできるのではないか、ということを、私などはつい考えてしまいます。言葉にしても風景にしても、文化って「変えない」ことだけが「守る」ことじゃないよね?


このあたり、Tくんはどう考えているのかな?よかったら聞かせてください。



=================================================
【3】2005年10月17日 田沼の御返事投稿
=================================================


「続:カタカナ語と祝日」


久しぶり! はるばる遠くから読んでくれて&コメント、どうもありがとう!嬉しいです。この間一瞬おばちゃんとすれ違ったときも、「なんであのBlogの背景あんなにかわいいの?」とか言われて、恐縮です(ぼくは実は柄にもなく、結構かわいいのは好きなんです、心が和んで)。

そしてそして… おめでとう!!(何のことかは書きませんが)


さて、ポイントは3つですかね。せっかくなので、なるべくちゃんと書こうと思います。
①漢語はもっと「無批判」に流入したのでは
②"実は…"というところに歴史が刻み込まれているのでは
③文化は「変えない」ことだけが「守る」ことではないのでは




①漢語はもっと「無批判」に流入したのでは


これを論ずるには、国語国字史の研究に当るのが正統でしょうが、ぼくが知っている範囲では、文字を持たなかった頃の日本人は、七転八倒大変苦労して、自分たちの言葉として取り込んでいったようです。Yちゃんも当然ご存知のことで書くのも憚られますが、最初は万葉仮名とか音読み訓読みとか産みの苦しみを経て、「真名」である漢語と異なる、日本独自の平仮名・片仮名が生まれました。もともと日本人が話していた言葉に、漢語を近づけていったわけです。


ただ、では苦労して取り込んだのなら批判的であったかというと、ぼくの断片的知識と仮説含みですが、多分かなり無批判に近かったと思います。ただしその意味合いは、現在の「無批判さ」とは全く違う。


当時日本は統一的な記録文字を持たず、ゆえに国家・文明としての限界に当っていたと思います。特に統治を普遍的なものとするために、為政者や知識人は必死だったのではないか。もしぼくが同じ立場に居たら、そう考えると思います。

そのため、先進文明から記録文字を、たとえ日本人がもともと話している言葉とずれてでも、導入せざるを得なかった。国を創るという情熱と必要性があったからです。とても批判していられる状況ではなかった。

そう判断して積極的に遣隋使・遣唐使など派遣し、文化を摂取したわけですが、しかし導入してみると、やはりどうしても表現できないものがある。ゆえに、正規の行政文書ではなく日記文学という形で土佐日記が生まれたり、古今和歌集が真名と仮名で書かれたりしたんだと思います。そうしてようやっと、日本人は漢語を自分たちの血肉としていった。

これは本質的な意味で、批判的態度だと思います。決して無批判ではない。



大事なことは、そこに苦労の歴史があることです。土佐日記は西暦900年頃、一方遣隋使は第一回派遣が西暦600年です。300年かかった。飛鳥・奈良・平安時代は、国を産み文化を産んだ時代でした。


今のカタカナ語導入に、国を創ろうという情熱はあるでしょうか。その苦労を引き受け、歴史の中に位置づけようとしているでしょうか。ぼくには単なる拝外主義と、言語感の浅薄化しか感じません。



②"実は"というところに歴史が刻み込まれているのでは


この意見は、若干国民に期待し過ぎているように感じられます。そこまで国民は推察したり、史実を調べたり、裏を読んではくれないのではないでしょうか。大半の人々は「文化の日だから、名前の通り文化を祝う日なんだな」以上は考えないと思います。それは「文化の日」でも「天長節」でも、どんな祝日でも同じだと思います。


大事なのは「文化を祝うんだな、じゃあ日ごろ感じている文化を思い起こして祝おう」という感情の動きにつながるかどうかです。「文化の日」という名前から、想像力を馳せられるかどうかです。それが祝日の力だと思います。そしてそこに、現在の祝日は、危なさを感じます。


文化の日と聞いて、普通の人が、「自由と平和を愛し、文化をすすめ」よう!と思うでしょうか。自由? 平和? それらへの愛? 文化をすすめる? そんなことを、日常日本で普通に生活している人々が、わざわざ想像し、そのありがたさを祝うでしょうか。ぼくには全くそう思えないのです。


第一に、自由や平和といったものは「観念」であって、具体性に乏しい。自分たちが本当に苦労して勝ち取ったイベントや、愛情が湧くものであるならば、まだ観念でも許されるでしょうが、それもやはり具体的な史実に裏打ちされる必要があると思います。もっと具体的なものや風物や行事習俗に基づくべきではないでしょうか。そのときこそ想像力が働き得る。桃の花⇒桃の節句、墓参り⇒お彼岸、年明けの祝賀⇒初詣、という具合です。日本人なら、そういう具体的な自然や季節、我々の習俗こそ、祝いたいし、祝う気持ちが起こるのではないでしょうか。


第二に、明治天皇誕生日がどうして「自由と平和への愛」になるのか。そのつながりが全くもって理解できない。何かそういうイベントがあったのでしょうか。サンフランシスコ講和条約で主権を回復した日を「自由と平和への愛」とするなら、まだわかりますが、それは9月8日です。もっと素直に、戦前同様「明治節」にすればいいと思うのですが、なぜ「自由と平和への愛」などと誤魔化しをするのでしょうか。そんなひねくれたことをしている限り、永久に文化の日が根付かないどころか、文化への誤解を生むという意味では害悪ですらあると思います。



大事なことは、祝日とは何か、という本質です。ぼくはそれは、文化共同体の生活に、整理と折り目とリズムを与えるものだと思います。そして、それにより楽しんだり懐かしむことが、また我々の文化や情操を形作り、ひいては郷土愛や家族愛や愛国心の基盤となるのではないでしょうか。

そのためには、祝日はもっと具体的で、ストレートなものと、するべきと考えます。



③文化は「変えない」ことだけが「守る」ことではないのでは


そうですね。その言葉に異議はありません。

ただ、じゃあ今は、積極的に「変えない」ということをしているのか。無批判に、変えることばかりに目が行っていないか。むしろぼくはそう思ってしまいます。


文化的な、保守と革新の関係は、それぞれが非常に強い主張の元に実行されて、初めて文化の生命力、躍動感、そして心に染み渡る連帯感を産むと思います。さながら、結婚によって血族に新しい血を入れることで、一族が更に豊かになるのと似ています。

現在の血族を大事なものと思うことが保守ならば、でも新しい血、新しい人間を、愛情という絆で迎え入れたいという同時に避けがたい人間の気持ちがあり、それが革新なのだと思います。

あまりうまい例ではないですが、ここで要するに言いたいことは、革新にはそれを既存の共同体と結び続けるための強い絆が必要であること、そして革新は保守と両立しうることです。


それに引き換え現代は、「変えること」自体に価値があると勘違いしている。変えることには、相当の信条が必要ですし、かつ保守の力と効用を認めているべきです。最も保守的な国と言われるイギリスで、シェークスピアやビートルズ、民主主義や産業革命を生んできたのはその一例だと思います。緊張感のない、単なる安易な「変える」に終始していては、革新もなされず保守もなされず、血族全体が腐ってしまいます。既に今の日本は、そうなりかけてはいないでしょうか。



確かに「変えることが守ること」になることもあります。"We must change to remain the same."という『山猫』の言葉は、ぼくの大好きな言葉の一つでもあります。

しかし今までの革新は、文化の何を守ろうとしてきたのでしょうか、そして守れたのでしょうか。ぼくにはこれまでの革新は、そもそも文化とは何であるかがわかっておらず、従ってその照準も射程も狂って、誤射ばかりしてきたように見えます。その例が、たとえば①の国語問題や②祝日の問題ですし、一番問題なのは歴史観と歴史教育の混乱です。

日本の戦後60年を振り返ってみても、現代はむしろ、大幅に変ってきた、変りすぎた。変りすぎて「変えない」でいるべきものまで変ってしまったように見えます。言葉然り、祝日然り。そして最も致命的なのが、歴史の連続性を失ったことです。


要するに、文化政策が間違っている。その背景には、GHQによるWGIPや、アメリカ教育使節団による一方的な教育改革があるのは、ご存知の通りです。

依然として日本人は強力な一体感を保ってます。たとえば外国に住んでも、チャイナタウン同様、日本人村をつくっています。日本語の独自性や、日本料理への嗜好、日本的美観衛生観、日本人流の共同体内交流など、一言で言うと日本の文化があるからでしょう。

しかしとうとうそれが崩れつつある。ぼくは危機だと思っています。



Yちゃんは、いまこの時代、本当に「文化を守るには、変えることが大事だ」と思いますか? ぼくはまず、文化とは何か、守るべきものは具体的に何なのか、丁寧に知ることが先決だと思います。その上で、それを守るにはどう変えたり変えなかったりするのがよいのかを考えるべきです。

せめて、変えたいならば、「何を」変えたいのか、それは本当に今までのやり方=保守を超えられるのか、しっかり狙いを定めるべきと思います。そのとき初めて、力強い革新であれると思います。


よく、侵略されそうになった国では「侵略国と組んだ方がいい面がある!」などとそれらしく言い出す輩が出てくるものですが、その言葉は美しくてもその実は単なる妥協、敗北主義だったりします。命を賭けても守るべきものが見えていないから、妥協する気にもなれるのです。それに似ている。

「変えること」への安易な肯定を社会が続ける限り、文化は守れないと思います。それは単なる妥協だからです。根本が見えていない。そうでない限り、重要となるのはやはり保守だと、ぼくは思います。


=================================================



現行の祝日、祝日法は、改めねばならない。

今の祝日の問題点は、心が動かないことだ。「祝日」なのに、「祝って」いない。

ほとんどの国民は、国旗も全く掲揚していない。単なる休日と変らなくなってしまっている。

そのため、本来祝日がもっていた機能である、文化共同体の生活に整理と折り目とリズムを与えることが、できていない。それらを楽しみ懐かしむことが、また我々の文化や情操を形作り、ひいては郷土愛や家族愛や愛国心の基盤となったのだが、それが失われているのである。

たとえばキリスト教文化圏では、祝日はほとんどが、信仰や教会に関連するものであり、その日のイベントを通じて、国民精神の背骨を形作っている。

一方日本では、神仏事のお盆や初詣などを大切にすると同時に、キリスト教のクリスマスのお祝いも盛んであり、最近はハロウィンまでイベントになってきている。そのうち何人が、ハロウィンは元来が感謝祭であることを知っている/感じているのだろうか。そもそも自分が信仰していないキリスト教の行事を、遊びごととせずに、しっかり自らの心の教育・文化の養育に結び付けられるのだろうか。

つまり、日本の祝日は、大混乱しているのである。いや、その混乱を混乱とすら気づかないことに、日本の文化喪失の危機が見られるのである。何の一本筋もないのである。


ゆえに、田沼の政策は「祝日を、文化的一貫性がありつつ、季節風土と歴史に基づく祝日とする」ことである。
具体的には、たとえば以下のように、改廃する。

もちろん単なる私案であり、固まったものではない。一言一句とらえての反論はご容赦を。今後更に精緻な検討をしていきたい。


季節風土…新嘗祭(元;勤労感謝の日)、神嘗祭、春/秋季皇霊祭(元:春/秋分の日)、元服の日(元;成人の日)、五節句(元:こどもの日、他)

歴史…建国記念日、明治の日(元:文化の日)、大正の日、昭和の日、終戦記念日、開戦記念日、体育の日、主権回復日



なお、ハッピーマンデー制度は原則廃止と考える。

特に歴史的記念日は、“その日”という唯一絶対性が大事なのであって、その年の都合によってコロコロと歴史の日は変わらない。祝日こそ、最も、由来、理由が大切なのだ。


たとえば自分の誕生日が毎年違う日になるなんていうことは、理解できるだろうか? 「結婚記念日は、夫婦でちゃんと仕事が休めるように、毎年12月の第一日曜日です」なんて人はいるだろうか?? そんな実利的な日の決まり方は、そもそもその日の由来を大切にしていないし、日にちを動かせると考えること自体がもう歴史修正主義だ。


それをやっているのがハッピーマンデー制度だ。 昭和の日が毎年違う日になってしまったら、昭和天皇、および昭和の時代に想いを馳せることが、本当にできるだろうか? そんなコロコロ変わる日を、大切にできるだろうか?


もちろんすべてではないと思うが、単なる連休を増やしたいというだけで決まったハッピーマンデーの日は、歴史的な由来・正統性をすでに馬鹿にしているのである。日本の祝日を、誕生日ほどに大切にするならば、ハッピーマンデーは原則廃止すべきと考える。





「祝日を、真に"祝う"日にする」
これは、私の使命だ。