前回投稿(http://ameblo.jp/tanuma/entry-10041874718.html )で、自民VS民主ではない、政策軸での2大政党が必要だ、と書いたが、


それを示唆するような世論調査結果が出た。


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●「自・民大連立」望む、28%で最多=自公継続は12%-時事世論調査 2007/08/11-14:22
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=pol_30&k=2007081100230


 時事通信社が3日から6日にかけて実施した世論調査によると、望ましい政権の枠組みとして「自民、民主両党などの大連立」を挙げた人が27.5%でトップとなった。参院の与野党逆転で衆参両院の多数派が異なる「ねじれ」が生じる中、政局が不安定化することへの懸念があるとみられる。


 自民、公明両党による現在の連立政権の継続が望ましいとする人は11.9%。自民党単独政権がよいと答えた10.8%を合わせ、22.7%が自民党中心の政権を望んでいる。


 一方、民主党中心の政権が望ましいと答えたのは22.8%。内訳は民主党単独政権が11.0%、共産党を除いた非自民連立政権が6.6%、共産党を含めた形が5.2%だった。
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国民の複雑な感情を表している数字だ。


また別の調査では、自民と民主両方とも割れ、それぞれの保守系が結束し、また中道系が結束して、2大政党になるのが望ましいと答えていた。

折りしも、前原前代表と小沢さんが、テロ特措法でぶつかっている。また反・安倍グループも結成されている。

兆しがないわけではないだろう。



しかし、私自身保守系であり、祖国再生のために保守系は団結して欲しいと願っているが、一方で保守の結束は、理念ではなかなか難しいという側面がある。

どうしても統一が難しいし、結束しても党内闘争がおきやすい。

自民党の派閥政治然り。民主党は細川政権同様の手段集団だから、尚更だろう。


そのあたりのことを、ある稲毛区在住の支持者の方「rocasa」氏と意見交換していたのだが、大変示唆に富む論考を頂いたので、ここに許可を頂き、公開させて頂くことにする。


※なお今後はこのように、私の支持者の方に論考を寄せていただき掲載していくことも、ぜひやっていきたいと思っている。お知恵を貸して頂ければ幸甚である。(こちらまで tanuma@tanuma.info  )

 掲載基準は、示唆があると思えるかどうか。政治に限らず、ジャンル問わず。必ずしも田沼の意見と同じでなくても構わない。

 毎日500人前後の人がこのブログを見に来ているので、一つの発信の形にはなると思われる。



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結束しない保守 作:rocasa


《入口編》
まず、保守とリベラル等左寄りの世界(以下「リベラル」と省略)、その成り立ち、すなわち「入口」から考察します。


ご存知のように思想家・福田恆存氏は、こんな事をいっております。

「『保守』は主義ではないし、主義であってはならない」
(一字一句違わずではないと思いますがほぼこのとおりだと記憶しています)


 「保守」が主義ではないのなら、「保守とは何か」と定義することも困難な作業ということになります。なんとならば、主義でないからには「こうでなければならない」ときっちり規定することができないからです。実態的にも「保守」と呼ばれる人たちは、それぞれ異なる主張・見解を述べていることはご承知のとおりです。


「保守」は「主義」ではなくても「思想」たりえるわけですが、その根幹は必ずしも合理主義に根ざすものではありません。その根幹に根ざすものは、「伝統」、「知恵」、「常識」、「美意識」、「感覚」etcでしかない私と思います。ですから、「保守思想」とは言うものの、やはり「合理論」ではなく、「経験論」の範疇で語るべきものなのでしょう。さらに「保守思想」に通じていなければ「保守」たり得ないかと言ったら、必ずしもそうではないことから事態はさらに厄介です。「保守思想」のホの字も知らず、すなわち保守思想家の著作はおろか名前すら知らずに立派に「保守」たり得ている庶民が、だいぶ数は減ったかもしれませんが、市井の中に確かに存在します。厳しい徒弟制度の中で生き、広い意味で「職人」と呼ばれる人々がその代表だと思います。


少し、間口を広げすぎたので元に戻すと、私が挙げた「保守」の根幹である「伝統」「知恵」等のうち、最後の2つ「美意識」と「感覚」の世界になると、これが十人十色の様相を呈するのは必定でしょう。人間の生活の中で「美意識」「感覚」の占める割合は決して少なくはなく、日々、これらに左右されていると言っても過言ではないと思います。そういった人々の日常から立ち上がる「保守」とは多様な相貌を見せることになるのです。もちろん、私とて「真性保守」なるものがもっとも強靭で確かなものであると認知しておりますが、だからといってその他の「保守」、例えば市井の「職人」たちの「保守」などを斬ってすてることはできないと思います。真性保守を金科玉条のものとする必要があるのは、思想家、政治家等、思想を生業とする人たちの間だけであって、これを広く「保守」全域に押し広げることは困難であるように思われます。保守思想の大先生にお叱りの言葉を頂戴しそうだけど、私はそう思います。


このように「保守」とは実に多様で奥深いものであって、十人十色の「保守」が存在し、なおかつ金科玉条の原理は必ずしも存在しないことから、「保守」の人々を一枚岩に束ねることは困難と言わざるを得ないのだと思います。


これに対してリベラルは、マルキシズムに代表されるように「主義」の世界であり、はっきり定義できます。リベラルな人々とは、何らかの思想・哲学、又は社会化科学(経済学、経営学、会計学、法学etc)をなるべく理論・理念どおり純粋に実践、いや「実験」することに熱中、熱狂している人々の事です。(熱狂とは大げさかもしれませんが、かつての共産党員はまさに熱狂していたのです)リベラルな人々に意外と理科系の人が多いのも「理論」を「実験」することに主眼が置かれているからかもしれません。


彼らの根幹にあるのは、紛れもなく「合理主義」であって合理的であるからには原理が必ず存在するのです。理論、遡って原理に純粋であろうとするが故に、時として彼らは過激な行動をとります。我々の記憶に残る過激な行動とは言うまでもなく連合赤軍の粛清です。また、理論がしっかりと存在するため、これをいかに正確に奥深く理解しているかが肝要であり、専門職業家(弁護士、会計士etc)の知識人(インテリジェント)が指導的な立場を占めます。「保守」のように一庶民が立派にリベラルということはないのです。


マルキシズムから始めたため随分昔の事を言っているようですが、現代でも基本構造は変わりません。マルキシズムからネオリベラル(新自由主義)や時価会計等に「お題目」が変わっただけで、原理・理論に純粋であろうとするその“直角くん”ぶりは何ら変わりません。いや、もっと病理の根は深いと言ってもいいのかもしれません。マルキシズムの頃は「マルキシズムが世界標準だ」とはゴリゴリのマルキストだって宣言していません。せいぜい、「普遍的な社会正義だから、これを世界に広める」と言ったに過ぎません。これに対して今日世界を取り巻く状況は、「国際会計基準」だの「時価会計」をデ・ジュール・スタンダード(de jure standard)なる規定路線としてこれを受け入れざるを得ないのですから。


ご存知のようにネオリベラル(新自由主義)は保守をも侵食しており、最もわかりやすいのはネオコンです。(周知のとおりネオコンは転向した民主党員です)彼らは「民主主義をはじめ、アメリカニズムを世界に推し進めること」が人々のためになると“純粋に”信じているらしいです。いや、榊原英資氏曰くのとおり“純粋”だから、困った人たちなのです。


例によって、脇道にそれてしまったが、リベラルは主義であって、理論が存在するので一番理解の深い知識人(インテリジェント)が中心であり、理論を「錦の御旗」に掲げて一枚岩に束ねることは容易なのだと思います。



《出口編》
「出口」すなわち、「保守」や「リベラル」が将来に向かって何を指向するのか、その観点から考察します。まずは分かりやすい「リベラル」から述べたいと思います。


リベラルな人々は「理論」を「実験」することに心血を注いでいるわけですから、常に「まだ見ぬ何か」を指向しています。「まだ見ぬ何か」は別名「理想」とか呼ばれたりします。


具体的に言うと、アメリカの民主党員が一枚岩になる「グローバリズム」とは一面において、フロンティア=「まだ見ぬ何か」を追い求めることではないでしょうか?彼らの唱えるスタンダードがいかに強力でも地球上にはまだ普及していない地域が存在するし、たとえ「水平方向」の進出が完了しても「垂直方向」への進出が残されているわけです。だから、「グローバリズム」は、フロンティア=「まだ見ぬ何か」を追い求めることなのだと思います。


人はこの「まだ見ぬ何か」が光り輝くものだと信じた時は強く結束するものです。「グローバリズム」に限らず、リベラルな人々を束ねるには光り輝く「まだ見ぬ何か」をはるか遠くに指し示せばよいのです。「まだ見ぬ何か」さえ、しっかり見つかれば、リベラルな人々を束ねるのは比較的容易なことだと思います。因みに日本の民主党を・今・の・・・ところ束ねている「まだ見ぬ何か」とは「政権交代」だと思います。


一方、「保守」の人々は、基本的に既に何か(金、地位、名誉、のれんetc)を持っているか、いずれ継承する人々です。従って、彼らは「まだ見ぬ何か」を希求することよりも既にあるものの利害関係を調整し均衡を保ちながら活性化することを将来に向かって指向します。


 具体的にいうと、民主党にとっては「政権交代」が「まだ見ぬ何か」であっても与党・自民党にとって政権は「今ここにある現実」です。党員ひとりひとりにとってポストは「まだ見ぬ何か」となり得ますが、総裁、派閥の領袖にとってポストは、「既にあるものの利害関係を調整し均衡を保ちながら活性化する」道具にすぎません。派閥力学は党内活性化を促すとの同時に、矛盾するようですが党内融和に資する面を有しているのです。実に逆説的ですが、保守政治勢力においては党内が対立しつつ均衡を保っていたほうが束ねやすいのではないでしょうか?もし、派閥が存在せず、総裁、執行部だけが力を有していたらそれこそ空中分解の危機に晒されるか、又はファショ的性格を帯びると思います。小泉政権が強権的ともいえるくらい強力に「郵政改革」を断行できたのも派閥力学が弱体化していたことが一因であり、派閥力学が機能しないからこそ「抵抗勢力」と呼ばれる人々は、党を出ていったのでしょう。


 そんなはずはないではないか、政治理念とか、他に保守を束ねるものがあるのではないかと思われるかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。保守政治政党=「自民党」で大きくはまとまっていて、それぞれ主義主張が違うから派閥が存在するわけです。(もちろん、もっと現実的側面もありますが)これらの派閥と派閥を束ねるには政治理念等では無理だと思います。よほど頭抜けたカリスマ性、リーダーシップ、構想力等がないと彼らをまとめ切れないでしょう。


 何故なら、派閥の領袖ともなれば皆さん、実力も一家言もおありの“先生”なのですから。歴代首相をみてもそういう資質に富んだ人は半分以下ではないかと私は思っています。残り半分以上は派閥の力学によって首相になったのではないでしょうか?
 
以上みてきたように、「保守」の人々は「入口」においてそもそも多様な存在であり、「出口」において各人に共通する「まだ見ぬ何か」がほとんど存在しないし、最大の関心事は現実的な利害関係の調整であることから、彼が結束することは少ないのだと思います。(選挙中は「まだ見ぬ何か」=当選のために結束しますが・・・)


それでも政治家はまだいい方かもしれません。「保守思想」とかになると、構成員の作家、知識人等は政治家と違い自己完結できる職業ですから、それはもう、まとまる方が奇跡だと考えておいたほうがよいでしょう。

(以上)--------------

(rocasa氏のあとがき)--------------

田沼様

拙文でよろしければ、ブログに掲載してください。

拙文といったのは常套句ではなく、本人はあまり良く書けたとは思っていないからです。事実、「リベラル」についてはすらすら書けましたが、「保守」に関しては、何度も筆が止まりました。

「何か書きそびれているのか」「知識・見識が足らないのか」いろいろ思案しましたが、それらが十全に満たされたとしても事態は変わらないのではないかと思うに至りました。

「保守とは何か」をスパッと斬ってみせるマジック・ワーズなんかないと思います。
ただ、斬れない刀でブスブスとやりながら、匍匐前進するしかないのです。
つまり、時間がかかるわけです。

わかっているようで、書いてみると思ってもみない方向に連れていかれることがあります。

こういう機会を与えて頂き感謝します。

(以上)--------------




私も、保守にとっての「まだ見ぬ何か」について、後日、論考したいと思う。