教育再生、美しい故郷作りが信条の私にとっては、見逃せない記事です。


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●小1の半数、「八つ」読めない…小学生の漢字修得度調査
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070507/gkk070507000.htm

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こういう基本的な教育現象に、私は、危機を覚えます。
言葉こそは、日本の文化です。言葉を覚えることを通じて、実は日本人は、日本の心を学んでいるのではないでしょうか。



画数が多く、音読み訓読みがあり、語彙数も莫大、しかも平仮名片仮名を間に入れながら文章化している・・・ それが日本語の中の漢字です。

それだけ複雑なものを幼いころ覚えるからこそ、几帳面で精巧、勤勉な日本人の国民性がうまれているのではないでしょうか。

書くだけでも、書道があります。たくさんの書法があります。

それだけ言葉を、大事にしている。それが、日本人にとっての、言葉との接し方です。



確かに、こんな複雑なものですから、書くことは大変です。

しかしだからこそ、言葉を粗末にしないし、粗末にしないからこそ、言葉の中に感性や美感が生まれているのではないでしょうか。



そのひとつのあらわれが、詩や、短歌俳句です。

一文字一文字まで、言葉の余韻や語呂、想像力を、研ぎ澄ます。

そういう言葉への接し方は、「言葉を粗末にしない」「大切にする」という私たちの態度から生まれると考えます。

そういった態度こそが、日本の心ではないでしょうか。



いま、特に日本語は、詩が失われたと、言われます。

それは言い換えるなら、言葉への態度が粗末になったからでは、ないでしょうか。

そしてその傾向は、どんどん進みつつあるのではないでしょうか。


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若干脱線ですが、私が知覧で特攻隊の遺書を読んだとき、一番最初にインパクトを受け、感銘と反省をしたのは、

若者たちの字のうまさでした。

http://blog.livedoor.jp/ttanuma/archives/50762674.html

言葉への迫力が全く違う。

無論死を前に書いている言葉だからですが、自分はここまで、言葉を大切にしたことはないと、強く反省した次第です。

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私の予測ですが、これから効率性や利便性が重視され、たとえば漢字制限したりワープロ普及で、早く楽に書けるようにしてしまうと、言葉を粗末にするようになるでしょう。
私たちは、モノが豊かにあると、それを粗末に扱います。それはお金でも食べ物でも時間でも同様です。生きること自体、簡単に生きられるからこそ、生命を粗末に扱ってしまう。



おそらく、世の風潮である効率性重視は今後ますます進み、そして漢字学力の低下もますます進んでしまうでしょう。
その結果、私たちは言葉に対する感性を失い、人間としての感動する力や機会を失うでしょう。

それだけでなく、昔からの日本の伝統を失うことになります。かつての先人たちの文章が、学力低下により読めなくなることで、一体感を感じる機会を失い、より一時代的な文化だけしか私たちは理解できなくなってしまうでしょう。

伝統とは、昔の人とつながっているという感覚がベースになります。つながっているからこそ、感動ができる。自分への刺激とできます。意味の解らないものでは、感動はできません。



これは危機なのではないでしょうか。

日本の心を、保守しなければなりません。

言葉への態度を、もちろん私自身も含め、改めなくてはなりません。
この日本を愛するならば・・・ 




ちなみに・・・ もうこのブログをご覧の皆さんにはお解かりいただけているとおもいますが・・・


私が議会に入ろうと思ったのは、こういった実態が、故郷千葉でも起こってしまってはいないかを、チェックする役割をやりたかったからです。
PDS(Plan,Do,See)の、Seeをしっかりやって、解決策をPlanしたかったからです。


今後わたしが何を目指すかはまだわかりません。

しかし、SeeとPlanをする議会側となっても、Doをする行政側となっても、

私の思いは変わりません。



長い戦いとなりますが(落選して尚更)、信念を貫きます。

お力をお貸し下さい。