北朝鮮の核実験強行、核兵器保有は、絶対に容認できない!!


これまで多くの国際社会側の調整努力にもかかわらず、不誠実な対応をとりつづけ、その最たる行動を北朝鮮はおこなってしまった。

もうあともどりはできない。核兵器を廃棄するまで、国際社会は団結して、徹底的に北朝鮮を包囲していかねばならない。
そうでなければ、日本や韓国も、核武装せざるを得ないという意見が必ず出てくる。田沼自身もそう主張せざるを得ないときが来るかもしれない。核武装の終わりなき応酬が始まりかねない。



武力とは、実際の戦力だけでなく、それを行使する意思の強さの掛け算である。

たとえば中国は核兵器を保有しておりおそらく弾道ミサイルも持っているが、国際協調という意思を相応に適切に各国に示しており(田沼自身としては実際は個別の異論が相当あるが、今は置く)、中国の武力は脅威的ではない。


しかし北朝鮮は、核弾頭という戦力自体は小さいかもしれないが、それを行使する意思が相当ある。そう思わざるを得ないようなこれまでの行動を示してきた。この意思は、革命や体制崩壊でもない限り、一朝一夕に変わるとは思えない。


武力(脅威)= 実戦力 × 意思


なのである。



ゆえに、いまの北朝鮮は、中国やロシアよりも、比べようもないくらい、高い武力をもっており、日本にとって非常な脅威である。首都や原発に核ミサイルを打ち込まれる危険性すらある。この脅威は放置できるレベルを超えている。
日本としては、日本自身が核武装をせずに済む、早急な国際社会による解決を全力で行っていく必要がある。しかしそれが1年も2年もかかるようでは、日本の安全は保てない。その場合、核武装を検討せねばならないだろう。




私たちは、歴史を、学校で学んできた。
そして必ず、広島・長崎の、原爆の悲劇を、教えられてきた。
あの悲劇は、もう2度と、起してはならない。


立花隆ゼミのころ、被爆者の方に、私はインタビューをした。

http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/~ctakasi/hatachi/sakita.html

初めて知るリアルな被爆の様子、そしてあまりの悲劇の深さに、当時大学生だった私は心が痛んだ。
戦闘員でもない、何の罪もない多くの民間人が、瞬時に地上からその生を奪われた。

ただその時代そこに生まれたというだけで、本当は生きられた何十年、そして本当は持てたであろうたくさんの子孫を、奪われた。生き延びた人々も、長く苦しい闘病の日々を強いられた。
さぞかし、無念だったろう。。。


この、彼らの想いを、感じとること。それこそが歴史教育の使命ではないのか。
少なくとも田沼は、この無念を、絶対に忘れない。
もちろん単線的に、「カタキを討つ」となるわけではない。しかし、無念は、忘れない。あの悲劇は2度と繰り返してはならない。


2度と原爆の悲劇を起さない。そのためには、人間社会が全体として、
①原爆を発射させない、②持たせない、③こちらも持たない、
という進化をとげていかねばならない。

北朝鮮の暴挙は、この人間社会の進化への反逆なのである。


私たち日本は、核兵器を持ちたくなかった。しかし相手がそれを許してくれない。核兵器を日本も持たなくては、日本を守れない、原爆の悲劇を防げない。

日本の核保有は退化だが、自衛のためにはやむを得ない、広島・長崎の悲劇を繰り返しうる状況は容認できない・・・そんな状況に、今なろうとしているのである。


日本の進路を判断するための、残り時間は少ない。
国際圧力による強行解決か、日本の核武装による自衛力強化・牽制か。

どちらかしか考えられないのではないか? 他の選択肢があるなら、それをぜひ知りたい。
前者には、ただちに起こる話ではないと願うが、軍事行動、すなわち戦争の可能性も含まれるだろう。
迷う時間は、もうあまりないだろう。まずはそのタイムリミットを、私は知りたい。




この際書く。憲法第9条があるから日本の平和が守れるのではない。

周囲に脅威がないから守れるのである。
いまここに脅威が出現した。日本を愛し日本を守るという責任感のある人間ならば、この脅威の除去を命懸けでやらねばならない。

それを憲法が妨げるというなら、憲法はいったい何を守っているのか!

憲法は改憲が必要だと、田沼は考える。