人が神の存在から距離を取り、自己を客観的に見る努力を続けた結果。近代という時代がスタートし、科学を推進してきた。しかし、その客観的に見る努力が自分の首を絞めている側面がある。まず、客観的であればすべてを見て、わかるものではないという事。人一人の視点や知識では限界があるし、すべての因果関係を読み解くことはできない。しかし、システム化された教育を受けるうちに、人の科学は色々なものを解き明かし、まるで自分も世の理を理解しているような気持ちになってしまう。そして、論理や因果の話法に慣れ過ぎて、自分がわからないことコントロールができないものがまるでないかのようにふるまってしまう。

 

 ただ、ふるまうだけならいいのだがそれが現実と乖離し始めた時、自分自身が自分を肯定できなくなる。成果主義といえば聞こえはいいが、自分の努力はすぐに結果が出るものではないし、なんだったら環境の変化に翻弄される。しかし、そんな自分ではコントロールできないものをないかのように生活をした結果、自分の目の前に現れるどうしようもない現実から目をそらし、対処できなくなってしまう。それは本来特別なことではなく、世の中言うほど人にコントロールできるものではないのだが、人が科学の恩恵がそれを忘れがちにさせてしまう。

 目の前の出来事に因果関係を見出すのは大事なことだが、その因果は複雑で個人の力ではいかんともしがたいこともある。そんな時、近代的な思考にのっとって自己と現象の因果関係だけを見ようとすると、環境や時節といった要因を見落としてすべての結果を自身の努力や実力と紐づけてしまう。結果、困ったことになった時に自分を責めること以外できなくなってしまう。また、誰か困っている人がいた時にその人の努力不足だという安易な結論を無慈悲に下してしまう。他人との関係性が壊れてしまうのは怖いことだが、自分自身の中での関係性が壊れてしまう事もまた恐ろしい。自分なり努力をしたにも関わらず、結果が伴わなければ自分の努力までも否定してしまうのだ。

 

 そうした危険がある以上、自分の中に論理や理屈を積み上げると同時にそこに遊びを残す必要がある。その遊びをいかに上手に自分の中に組み込んでいくか、そして本当にうまくいかない時には自分の中の論理や理屈を疑えるかが大事になっていくだろう。

 自分の論理や理屈を積み上げ、そこに遊びを残し、なおかつその論理や理屈すらも疑っていく。実際科学はそのような形で積みあがってきた。しかし、高度にシステム化された正解と効率を要求される教育の中で、自分が物事をコントロールできると思い込むことが近代的思考の最大の罠といえる。