虹を見ると、何故か一瞬、しあわせな想いになる。
それはきっと、珍しいモノを見たからだと思うけれど、昔ほど感動はしなくなった。
学習して行く過程で、その仕組みを理解したり、実験と称して自ら水を撒いて人工的に小さな虹を出現させると、科学的な理屈が腑に落ち、当初の感動が薄れて行くのも、ある種の成長の証しなのかもしれません。
しかし昨今、この虹をシンボルに多様性を宣う流れがあります。
まあ、自然現象をどう捉えるかは、時代や場所、宗教や思想によって差異があるのは当然でしょうが、まるで登録商標のようにイメージ化されるのは、少々迷惑に感じています。
僕は昔、自死への想いが募った時、もし自分が死んだら、自分はどうなるんだろうと考えました。
自分が見ているモノ、聞いていること、様々に感じていること、そして何よりそんなことを考えている心や想い、それらは自分自身にしかわからないこと。
いくら、自分はこう感じているんだと訴えても、それを誰も共感や理解を示してくれない。
「自分にしかないこの感覚は、もし死んだらどうなってしまうんだろう。」と、思っていた頃、たまたま観ていた教育テレビの科学をテーマにした番組で、とても腑に落ちた内容をやっていました。
例えば、赤いモノがあったとすると、それはそこに赤に反応する波長の光が当たり、赤に反応するモノがそれを反射し、その赤の成分の光を、赤を受け取ることの出来る受容体が受け取って、初めてそれを赤と認識する。とのこと。
それは、前述の虹の仕組みと同じで、単なる科学的な理屈の解説だったのですが、その時の僕には……
それなら、その光の様態や受け取る側の感度によって、元の赤は違って観えるのではないか?
言い換えれば、「人によって見え方が違っていて、当たり前なんじゃないか?」というものでした。
それ以来、自分だけがわかってもらえないんではなくて、人それぞれ違って当たり前なんだ、だからもっと自分にしかない感覚を大事にして、それを表現する能力を養うことが、大切なんだと思うようになりました。
虹の話に戻りますが、人間が見えるとされる可視光線というのは、太陽光線の一部であり、それが赤に近いところから紫に近いところの波長が、たまたま多くの人間に見えることから、いにしえの人は虹や七色と表現しましたが、それを共感するためのツールとして活用するのは良いと思うのですが、カテゴライズするために用いるのは少し違うのかな?と思ってしまいます。
「みんな違って当たり前。」ではダメなんでしょうか?
ただ、それを個性ととらえるか、人権ととらえるかで、話はややこしくなりますね!
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