現代人が「いい子」というと「頭のいい子」「なんでも大人の言う通りにする子」というイメージなのではないでしょうか?
でも先生があげている条件は、それとはちょっと(?)ちがっています。

昨日の「幸せ」というのともちょっとからめての言葉です。
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・ 心に変なクセのない子が素晴らしい。
            (昭和六十二年三月例会)

・ 頭のいいことを意識していないような性格もいい子が本当に頭がいい。 
            (昭和六十三年五月例会)

・『うんちの絵』なども描けるのが、本当に頭のいい条件。
          (昭和六十二年新年会)

・ 本当にいい子は『イメージ』も『思考』もいい。
              (平成二年四月例会)

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昭和56年頃、テレビでは「欽ドン!良い子悪い子普通の子」なんかも話題になっていて、講義の中でも先生はちょっとふれていました。もちろんこれ以前から、このように子どもを類型化してとらえるというのはあったわけですが、人気テレビ番組の影響でよりそのイメージが方続られた部分もあったでしょうね。

ましてや現代社会では、さらに「いい子」のイメージは固定され、「頭のいい子」「大人の言う事をそのままきく子」とほぼイコールになっています。

「何でも大人のいうとおり 大人に気に入られるように」という意識できた子は、みかけは何の問題もない従順ないい子、と思われがちですが、先生があげている点からすれば「心に変なクセをつけてしまった」子である可能性が極めて高いということになります。
思春期や成人してから、その歪みが様々な形で噴出してしまうのは、世の中にたくさんあるのでお分かりになると思います。

でも、それうしたイメージで幼少期から勝ち組・負け組と仕分けされてしまう。
まさに工業製品での良品・不良金の選別ですから、不良品扱いされた子は、早くから集団の中での居場所を失って、大人になっても居場所を得られない、

自分の無意識からの声に正直な子供ほど、自己肯定感を得られないままやがて心を病んでしまいます。


劣等感を抱かなければうまくいくかといえばそうでもありません。
ちょっと前に文部科学省などでも力をいれていた「ギフテッド教育」の実践で、うまくいかなかった実例をとりあげている番組がありました。簡単にいうと「君たちは特別な才能があるんだよ」というのを言いすぎたことによる、歪んだエリート意識を抱かせてしまったことにあるようです。


「頭のいいことを意識していない」・・・ギフテッドと似たような意味でつかわれる「英才児」ですが、英才児を集めての市立小学校では、こうした妙なエリート意識を持たないような働きあけを伝統的に大切にしているとききます。

上原先生もカリキュラム作成などで関りの深い学校なので、そうしたことも当初から配慮されていたのでしょう。

一般公開時以外にも何度か私も参観させていただいていますが、たとえ間違っていても友達の意見をバカにしない、などの他人を尊重する姿勢は確かにしっかりとみについているように感じます。
学校全体の子ども達が・・・特に休み時間の様子は面白い・・・とっても無邪気。高額ねであっても純真な低学年の子ども達がキャッキャやっているような雰囲気も何度もみました。
でも切り替えが早いんですよね。知的思考モードに入ると教師が静かにしなさいなんてい若くてもシーンと静かになって黙々と課題にとりくむ。頭の中はフル回転。しかもそれに伴って感情やイメージ運動などの情動面も一緒に動いている。



こうした上原先生のあげている「いい子」の条件というのは、決して先生個人の好みや価値観ではないんです。
こうした観点から子どもをみて、親も社会も育んできたのが古くからの日本人の生活だったわけです。

そして実際に多様な人材が多様な場面で活躍できたし、縁の下の力持ちのように、社会的に歯目立たなくても、社会の根幹を刺させエル大切な役割をはたしていた。

それに対しての自分への思いが、昨日ここでとりあげたような「幸福感」にもなっていたのだと思います。