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・私はジブリの映画を繰り返し良く見ていました。
トトロ、魔女の宅急便。
絵の手本にしたり、ストーリーやセリフから色々な学びがあったなと思います。
ジブリはうちの子も大好きです。
親子や兄妹仲良く見られるから貴重です。

うちの息子はおさるのジョージが好きです。
悪役がいないことがいいみたいですね。

漫画やアニメは気軽に擬似体験が出来ているような気がします。

・アニメ ドラゴンボールから素直な気持ちでの努力、友情、勝利を。そして美しいイラストに感動

絵本、本 
長い長いお医者さんの話ー海外の話だから内容が新鮮なのに(きこりが木の切株に座ってチーズを食べるとか)翻訳が古い日本語で不思議な感覚。 

地蔵ぼんー大阪弁が魅力的だった。明らかに普段使わない言葉だけど意味が分かっちゃうという、こちらも不思議な感覚になった。


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「親子や兄妹仲良く見られるから貴重です。」
「漫画やアニメは気軽に擬似体験が出来ているような気がします。」

学校での道徳の授業にも意義はあると思いますが、異年齢とか世代をこえての共振・共鳴が起きるという点はさらに大切だと思います。

それは下の子が上の子の意見にふれられて、より高度なことが学べるということだけではありません。
上原先生が心意伝承の研究として「子ども達の言葉」を重視したのには、現実意識に染まっていない幼い子どもだからこそ、無意識の奥底にある心意伝承的な意識が自然に出やすいということがありました。

それが成長と共に「常識」という名の現実意識を獲得してしまうと、「そんなのありえない」「こんなことを言ったら変だと思われるかな」・・・・ということで、無意識世界とのコンタクトをやめてしまう。自ら封印してしまうんですよね。

「子どもの中にこそ答えがある」と先生がよく話していたのも、そうした心の奥底にあるもの・・・折口先生の言葉でいえば「生命の指標 ライフインデキス」が言葉として出てきやすいのが子ども・・・「稚児」であると。

そう考えると、異なる世代で共有した際に、自分の原点を思い起こさせてくれるのは幼い子供の方。年上や大人の方が、導かれる側ということになるわけです。

現実対応に疲れ切っている大人・・・教職員にも精神的においつけられている方々は、どうしても「テストの結果をあげなければならない」「様々な親や社会の要望、クレームに対処しなければならない」ということで、現実対応視点からしか子ども達と向かい合えなくなっているのでしょうね。

現実対応は無視はできない・・・でも親子だったら寝る前のちょっとしたひと時でもいいから絵本の読みきかせなどで一緒に夢の世界を楽しむ時間をとるだけでも違うように、学校の先生も一日の中で数分間でもいいから、「先生と子ども」というのを忘れて、同じ人間として夢の世界に無邪気に浸れる時間を過ごせるといいと思います。

現実モードでは、なかなか大人の思い通りにならなくて、困った子・・・とみえてしまっている子ども達の違った側面もみえてくるかもしれないし、そんな面に気が付くことができれば、毎日の仕事への気持ちもちょっとでも変わるかもです。

この「ちょっとでも」が案外大切だったりするものです。

アニメでも絵本でも様々なことがいつのまにか学べている。それは「学校の勉強」なんていう意識も働かないし、子どもであるゆえに、その世界に没入・感情移入することで、知的理解ではない・・・疑似体験とはいうものの、子どもの感覚では「疑似」じゃないと思うんですよね。まさにリアル体験。
感覚も情動も総合的に働いているから、それらから学べている内容は学校で教材を学んでいるという比ではないと思います。

また、学校ではどうしても「本時の目標」という狙いにそって授業が行われることから、目標に沿った部分ばかりが強調されてしまうんですよね。それ以外にも子ども達にとって興味をひくいろんなことがあっても、それはスルーされてしまうわけです。
それでもそこにこだわっていると「そこは関係ない」と注意をうける。下手すると「授業に集中してない」なんて叱られてしまう。

 

参考 記念会ブログ記事 心に響く小学校カリキュラム

 

 


子どもにしてみれば、自分が面白いと思ったところが否定されたというだけでなくて、自分と学校との大きな溝を絶望的に感じてしまう。そして「自分の本心を大切にしよう」と思い続けてくれればまだいいのですが、「自分はどうでもいいことにしか面白いと感じられない人間なんだ」と自己否定にまでなってしまいます。
幼い段階、純真な子ども達ほど、そんな心の傷をおって、生涯それをひきずってしまいがちなんですよね。


「学校の学び」という場から解放された環境で自由に楽しめる家での絵本やアニメや漫画は、それこそ「主題」に限らずその作品のあらゆること「丸ごと全体」を受け止めることができます。

2番目の方が「不思議な感覚」ということを2度もあげています。
こうした不思議な感覚をたくさん味わっておくことも大切なことだと思うんですよね。
それは「すぐにネット検索などで調べる」という学習の姿勢を身に着ける為、なんていうのとは違います。

抱いた好奇心に従って調べるものもちろん大事。

でも、実際の世の中って、素直にむかいあえばあうほど「わからないことだらけ」なんですよね。
人類の歴史をみても、幼い時にフト抱いた疑問などを大人になっても持ち続けた人が、大きな仕事をなしとげたという事例も、歴史にはたくさん残されています。子ども心ってバカにできないんです。


「普段使わない言葉だけど意味が分かっちゃう」
っていうのも面白いですね。「分からない」と思ったら100%アウトとなりがちな現代人。完璧に分からないとダメ、と躾けられてしまっているせいでしょうか。
以前、個人HPのコミュニケーション雑感でもふれたのですが、英語教育を幼いときから、というのも私は人間のもつ能力を逆に伸びなくしているのではないかと思っています。

それこそ歴史をみても、異国人と最初に出合ったときには「辞書」だってないし「通訳」だっていない。翻訳機なんて影も形もない。それでも身振り手振りなどで何とかコミュニケーションをとりながら互いを理解しあい、言葉が通じ合うようにしてきたわけですよね。幼少期・学童期などは、そちらの能力を伸ばした方がよほど大人になっても国際人になっていくと思います。

可能であるなら、日本語の分からない、しかも英語圏だけではなくいろんな母国語の子ども達を集めて遊ばせるとか。
そんな体験をたくさんつませてあげることです。子ども達の力を信じて、最初はなかなかうまくいかなくても、どう乗り越えようとしているのかをゆったりと見守ることです。

学校よりも様々なことが幅広く学べる、生き様に反映しやすい・・・だからといって「どんなことが学べた?」と子ども自身にキックこともないと思います。授業だと最後にやることも多いのですが・・・・

そういう風にきくことによって言葉で「〇〇を学べた」なんて答えた瞬間に、それ以外のことを意識の外においやってしまう恐れがありますから。

「あのことについて学べたな」は大人になってフトふりかえるくらいでいいんです。