「きまりだから守らなければならない」という意識は「我慢させられている」という気持ちをどうしても抱かせてしまいがちですよね。

「社会的ルール」→「周囲への配慮」→「自分は我慢}→「みんなの為になんで我慢しなければならないんだ!」→「他人は邪魔者」

という意識の流れになっているような人が大勢みうけられます。
そしてその結果「他者との関りをたちきりたい」という人は「ひきこもり」「対人恐怖」になっていく。
「他者のことなんてもう考えない」というひとは「身勝手」「他人を支配下におく」「自分の思い通りにならないと抗議する」となっていく。

本来「人間」はどこまでいっても「人と人の間に生きる存在」・・・社会的な存在・・・であるのに、どちらの場合も不自然な状態に陥ってしまいます。他人を不幸にするだけではなく、本当は自分にとっても不幸な道なんですよね。

権力者が我が侭を通すために定めた「決まり」は論外ですが、一般的な「ルール」ってお互いに気持ちよくすごせるためというのが根底にはあります。ルールを守る社会って「自分も守られている社会」なんですよね。

そしてこれが、いちいち「きまり」として文章に定められている、「破ったら罰則がある」ということではなく、理想的にいえば「モラル」としてみんなが自然に気配りをしはえるのが理想だと思います。

「きまりだから守る」「罰則があるから守る」ではなくて、そんなものがなくても「自分はこうやってみんなと住みよい社会を作っていくんだ」という気持ちです。

現代社会の問題は、そういった意識の人達が少数派になってしまっていること。
かつてのような「よそさまに迷惑をかけないように」という空気が薄くなって、「やったもの勝ち」「好きにして何が悪い」という空気になっていますよね。そして「気配りのできる人」「他人に迷惑をかけたくない人」「自分のことよりも他人を優先する人」は愚かな生き方とされたり、善意につけこんで利用されまくって、用済みになればポイ捨てされる。

そんなことから心を病んでしまっている人があふれています。

そしてそういう人たちに向けられる「そこまで他人のことばかり気にしなくていいよ。もっと自分のやりたいことも大切に」という助言を、これまでずっと他人の事を考えもしなかった人達が率先して利用しているようにみえます。

「やっぱ他人なんか気にしなくていいんだ。自分の生き方は間違っていないんだ」
というお墨付きをもらったように、さらに身勝手になっていっています。

そして、肝心の心を病んでしまった人たちは、余計に悩んでしまうことが多いんですよね。
「自分がみんなのことを考えて生きてきたのは間違いだったの?」
「今まで自分勝手な人にはならないようにと思っていたけど、ああいった人達のようにならなければいけないの?」
・・・・・・・・・・・・・・・
今までの自分が大切にしてきたことを完全否定された気持ちになってしまうこともあるんですよね。


本当は「時と場合・・・相手によっての距離感をかえた方がいいよ」という意味での助言でも、デジタル思考が主流になっている今の世の中ではなかなかその真意が伝わりません。
(このことはまた機会をあらためて書きたいと思っています)


「江戸しぐさ」と呼ばれている感覚が江戸時代の庶民の間であったそうです。
まさに「お互いの気配り」からくる「モラル」

私が最も印象深かったのは「口約束こそが最も大切にされた。口約束も守れないような人間は信用されなかった」ということ。

今って、誓約書のようなものを交わしていても勝手にないこととされる・・・政治もそうですね。「公約」=「口約(口約束)で守られないことからマニュフェストという国民との誓約書のようなことが行われたのに、もう廃れています。
「約束なんてみんな守っていないのに、自分だけ守っているのは損」
「決まりがあっても、罰則がないなら破ってもいい」

そんな後ろ姿ばかりを社会的な地位のある大人が見せているのですから、子ども達の間に乱れが増えた、社会的なモラルが低下しているというのは当然の結果です。

「得してる生き方」をしていると思っていても、人間としてまっとうな感覚をもっている人達からの信用はどんどん失っている・・・
そういう人を取り巻く人間関係は同じように身勝手でお互いの足を引っ張り合い、潰し合おうと企んでいる人達ばかり。
そんなことも明らかになりつつあると感じています。

それこそ一人一人の意識が問われていますよね。
気持ちよく生きる生活には「一人勝ち」なんてありません。