学生時代に「演劇教育の実習」のようなものを履修したことがあります。
とはいっても「お芝居作り」ではなく、身体感覚の開発や共有、即興劇などを通して、人間力やコミュニケーション能力を高める様々なことを体験する時間でした。

その時に、参加者30人ほど全員で、ボールを使わないドッジボールをしたことがあります。
ボールを使ってやっているとみんなが信じて行うわけです。

「あるものを別のものに」というのを見立てとするならば、パントマイムは違うのではないか、と思われる方もいらっしゃると思いますが、今は「みんなで信じた世界を共有する」ということを考えたいので、許容してくださいね。

大変に盛り上がりました。もうみんな童心にかえってという感じで。
自分でも驚いたのは、みんなが夢中になればなるほど、ホンモノのボールがみえてくるような錯覚に陥ったことです。
今は取れた、よけた、当てられた、ド派手にあてられて転んだ・・・・やっているフリというよりも、実践そのものでした。

それは官道でしたね。その場にいるみんなが一体になって世界をつくりあげて遊べているという感覚。

私が教師をしていた頃、特に新興住宅地の一部のお母さんたちからよく相談を受けたのが「最近の子って、あれが遊びなのでしょうか?」ということでした。よくよく聞けば男の子たちでも部屋にみんなで集まってはいるけど、それぞれバラバラに漫画をよんでいたり、小さなゲーム機で遊んでいたりとバラバラに静かに過ごしているんだとか。どうして一緒に外で遊んだり、一緒に何かをしないんだろう、と。

こうした遊び方ばかりの子はますます増えているというのを時折耳にします。

また、一緒に遊んでいる場合でも、ゲームが主流なのではないでしょうか。ゲームそのものがダメといっているのではないですよ。
私がちょっと気になっているのはゲームをしている時の対人意識です。

カルタやトランプやボードゲームなどは、お互いに向き合って・・・円陣をくんでいるような配置でやりますよね。
でも今風のは、それぞれがゲーム画面の方を向いています。同じ部屋の中でやっているのと、オンラインで離れたところにいる人とやっているのとあまり変わりません。その場に一緒にいるという空気感があるだけいいとは思いますが。


人間同士の触れ合いという感覚が伴わない遊びのように感じるんですよね。

やはり幼少期から、そういった素朴な遊びを通しての感覚もたっぷりとした経験の上で、今風のゲームの時間も・・・と思うんです。

*ついでにちょっとふれると「課金問題」もありますよね。すごい金額をつぎ込んでいる小学生もいるじゃないですか。そして、親に対して際限なくおねだりする。中には親のスマホなどを操作して勝手に預金をおろして何十万も使った・・・とか。

これでは、目に見える形の「お金」への意識ばかりで、「お金がないと遊べない」という人間になってしまいます。お金のあるなしだけで自分や他人を評価するようにもなってしまいます。
そしてそれは「本当の意味でみんなと遊ぶ楽しさ」を知らない人になってしまうことを意味します。



ちなみに、学級担任や演劇クラブの顧問をしていた時に共有体験でよくやったのが「縄跳び」です。
もちろん「縄なし」でやるんです。
実際にみなさんにも試してもらいたいのですが、なかなか縄がみえてこないことがあるんですよね。
多くの場合、その原因は実際の縄跳びと体の動きが違っているんです。

跳んだ時に腕も上の方にいっている。つまり縄が上にいっているんです。

本当に飛んでいるように動いている子の場合はみているみんなにも縄がみえてくるので、みんなビックリして「わー、本当にみえる!」と声をあげるのですが、それだけに見えてこない子はどうしてだろうと・・・・。
でよくよく観察してもらうと、「縄をとんでいるんだから、とんだときに縄(手)が下にいってないとダメなんだ」って気が付いてくる。
そうするととたんに見えない縄がみえてくる。
これも結構感動ものです。

ほんのちょっとのことで、さっきまで全然みえていなかった子が本当に縄跳びをしているように見えた

そうすると、パントマイムに限らず、何かすぐにうまくいかない時にすぐに諦めない姿勢、丁寧に点検しなおす姿勢も身についていくんですよね。

うちのクラスでは、クラス全員による大縄跳びもやっていました。なので個々人の縄跳びで出来るようになった時点で、今度は縄なしでの大縄跳びをしたことがあります。

そうするとさっきのドッジボールと同じで本当にみんなが同じ縄がみえているので、ちゃんとしたタイミングで入れた、アッ今はひっかかった、というのが瞬時にみえて、一斉に反応できるんですよね。

個々人の尊重として、一人で過ごす時間も勿論大切です。
と、同jにこうした「みんなでの一体感を楽しむ、心地いいと感じる」体験もいっぱい味わってほしいんです。

それは言葉をかえれば「感覚の共有」
パントマイムにしても落語や能での「見立て」にしても基本はそれです。

「ごっこ遊び」「おままごと」などで感覚の共有体験を積むからこそ「同じ仲間」「同じ人間」という気持ちが抱けます。自分とは違う感じ方をする人たちの痛みを感じることができる想像力にもつながっていくことでしょう。

「身勝手なことはダメですよ」等々の大人のいいつけを守る
ではなくて
「みんなも自分もいい時間をもつためにはどうしたらいいだろう」って考える人間
になっていけると思うんですよね。

それあって、「自分勝手」ではない本当の「個性」と呼べるものも伸びていきます。


*明日からはまた違った話題です!




☆個人HP ワニワニ本校 に連載中の「コミュニケーション雑感」シリーズ
 http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html
とも関連させながら書いています。
是非そちらの方もあわせてご覧ください。