都心でも警報級の積雪があるかもという予報でしたが、今のところ私の水戸の自宅周辺の道路は雪はとけています。やれやれという感じ。

と同時に「現実意識ばかりの大人になってしまっているんだな・・・・」というちょっぴり寂しい気持ちも毎回感じます。

☆個人HPの方に、平成17年頃に教え子姉妹が作った雪像等々の画像と共に、いつも紹介している上原先生の「現実対応の壁をのりこえる力」について更新しました。
是非あわせてご覧ください。
ワニワニ本校
http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html


昨日は教え子のお子様が雪とたわむれている動画などもラインで送られてきて、とってもなごみました。
サッシから雪ふる外に頭だけ出して、完全に夢の世界に入っていたようです。
そりゃ子供にとっては世界がまるで別モノになったように感じるでしょうから。

私にも覚えはあります。
子供の頃に住んでいた団地の目の前にお寺の竹やぶがドーンと広がっていらんです。
それが雪がふると巨大なクリスマスツリーがズラッと並んでいるようにみえて・・・・朝ベランダからそれをながめるのが好きでした。
母には「風邪ひくから中に入りなさい!」といつも叱られていましたけどね(笑)



昨日も天気予報で「大雪」という言葉がずいぶんと飛び交っていましたが、言葉って単なる情報ではないというのを痛感させられる例が、この「大雪」という言葉でしょう。
大学1年の時、日本全国から学生が集まっているわけですが、東京に大雪がふったという翌日、雪の話で盛り上がりました。

暖かい地域からきた学生の中には「雪がつもったのなんて初めてみた」という者もいました。

印象的だったのは秋田の雪深い地域から下宿している女子学生の言葉です。
冬なのに雪がない毎日である東京での暮らしで、すごいホームシックになっていたんだと。
で、今回「警報級の大雪」と天気予報でいっていたので前日からワクワクしていたそうです。
それが翌日、カーテンをあけてみたら確かに雪はふっていたけど、5センチ程度。心の底からがっかりとしたそうです。
でもテレビをつけると「東京で大雪」というニュースばかり。

彼女の実感としてある「大雪」という言葉は、一晩で1メートル違い降り方なんだそうで・・・5センチや10センチでは雪が降ったことにもならない程度。

それなのに東京の人達は大変な雪の量だといい、しかも交通マヒや交通事故、転倒事故が多発する・・・・

それはそうですよね。

最初の学校に勤務していた時には、新潟の豪雪地帯で暮らしていたという先生がいました。
冬だと2階にある玄関から出入りするときいて「本当にそういう暮らしをしているところがあるんだ」ってみんなで関心しながらきいていました。

余談ですが、この時も「ことば」に伴う実感の違いを感じました。
それは「寒さ」という言葉です。

「そんなところで暮らしていたら、ものすごく寒いんでしょうね」と問いかけた先生がいたのですが
「いや、茨城の方が辛い」と。

「寒さの質が違うのよ。向こうは言い方は変だけど あったかい寒さなんだよね。
でも茨城は 痛いようなとがった寒さ。だからこっちの寒さの方が体にこたえる」

どうやら湿度が関係しているらしいのですが、「へー」って聞いていながらも、新潟の寒さは実感できないでいました。
そりゃ「あたたかい」「とがった」という言葉は知識としては知っていますが、特に「あったかい寒さ」っていうのことの実感はわかないです。
(痛い寒さはわかります。昨年から光熱費節約のために寒くてもエアコンやストーブなしの生活を送っていますが、我が家で一番温かい寝室・・・今このPC作業をしている部屋・・・で、マフラー・帽子・コートという防寒スタイルになっていても、痛いような寒さですから。
ちなみに今朝の室温は7度くらい。冷蔵庫の中で暮らしているような感覚です)

こんな風になにげなく交わしている言葉でも、人によってその言葉に伴う思い出もイメージも相当違うんでしょうね。
それなのにごくごく当たり前の言葉ほど、自分と同じ感覚でその言葉を使っていると決めつけてしまう。
情報端末での文字情報のやりとりが主体になっていればなおさらです。

思った以上にいろんなすれ違いや誤解にあふれているのでしょうね。

そんなことも、今朝は感じています。