20年前の自分のことを12年前に書いた話です。

 

めちゃくちゃ暗く疲れる上に長い話なので、

体調の悪い方や、心が辛い等の状況の方は読まない方がいいです。

7年前にもここに載せたことがあります。

 

今、友だちに、「目の前の透明なカーテン」に悩まされている人がいるので、

そのことに共感するとともに、

僕の経験が参考になるかもと思い、再掲することにしました。

 

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ふと、気がついた。

 

仕事の得意先の会議室、打合せのときだった。

 

ふと、気がついた。

なんか、おかしい、変だと。

 

そう気がついている自分がいるのに、

その自分とは違う自分、

つまり僕が、自分の意思と違うことをしゃべっている。

 

透明なカーテンを隔てた向こう側で、

 

そうは気づいていない僕は、

突然、脳が委縮して、

言葉の選択に困るような感覚に襲われながら、しゃべっている。

 

透明なカーテンのこちら側の自分、つまり僕は、

透明なカーテンの向こう側の自分、つまり僕を制御することが出来ない。

 

ぐちゃぐちゃな感じで打合せ終らせ、その会社を出た。

ビルを出ると、すぐ前が道路で、

これを渡れば業平橋という駅の改札口がある。

 

スカイツリーのすぐそばだ。

 

目に入る風景は、同じはずなのに、見え方の感覚がいつもと違う。

いったい、何が始まったのだろう・・・。

 

 もう5時半になろうとしていたし、おかしな体調なので、

会社には、直帰する旨の連絡を入れた。

 

 普段とは、別なルートで帰宅するわけだが、

たまたま利用した地下鉄が事故で20分ほど遅れていた。

人であふれるホームに僕は降りて行った。

 

 相変わらず、自分の目の前には透明な厚いカーテンが引かれている。

そのカーテンの向こう側の僕は、脳が委縮するような感覚が治らず、

うごめく人々でめまいを起こしそうになっている。

 

 カーテンのこちら側では、なんとかしなくてはと思う僕がいるのだが、

向こう側の自分を制御することが出来ないでいる。

まるで、一つの体に脳が二つあるかのようだ。

 

 やっと、遅れていた電車が、重い響きを立てながら、

ホームに入ってきた。

重い響きは、満員状態を予想させたが、その通りだった。

 

 その満員の車両に、

さらに人々が突進し、僕も流れに乗せられてしまった。

否応なしだ。

まったく身動きできない圧迫。

あ~早く乗換駅まで着いてくれ、思いはそれだけだった。

 

 めまい一歩手前のおかしな気分、頭クラクラ状態で、

普段の帰り道の電車路線の乗換駅に着いた。

 

当然の如く、毎日の同じ風景のはずだし、そのように見えるはずなのに、

見え方がおかしい。

やはり、透明な厚いカーテン越しに、僕ではない自分が見ている感じなのだ。

 

 この日以来、僕の風景や情景への見え方が、

それまでの感覚と変わってしまった。

 

なおかつ、本当の自分ではないような自分の存在を意識するようになる。

 

その感じ方が強くなると、本来の自分の影がが薄くなり、

カーテンの向こう側の自分が幅を利かせてくる。

 

 なぜ、こういうことになったのか・・・

病院に行こうにも、行って、どう説明したらいいのか分からない。

 

このおかしな感覚を我慢しながら、仕事を含め、日常生活を送り、一ヶ月ほど過ぎた。

 

日々、同じ状態を過ごし、でもいずれ治るだろうと我慢しつつ日を送るあいだに、 既に、おかしな感覚を初めて感じてから半年も過ぎてしまった。

そのおかしな感覚は、ときとして激しく押し寄せて来て、

仕事をしようとする意識まで、踏み倒すようになってきた。

 

 とうとう病院へ行く決心をせざるを得なくなった。

僕は、ネットで探し、

メンタル系で有名な国立病院の心療内科を選んだ。

 

心療内科と、精神科の違いとか境界ラインって何だろう?

 

昔的発想では、精神病とは、

自分が病気であることを自覚出来ない病気ということになり、

そういう病気の人が行くのが、

精神科ということになるが、現実は全然違う。

 

強迫性障害は、自分で十分自覚しているが、精神科が対応している。

鬱病は、精神科の場合もあるし、心療内科の場合もある。

 

まあ、こういうことはあとあと理解したことなのだが、

”心的不安定が、身体的不調をもたらす”ということで、

心療内科対応となったわけだ。

 

 初めて、行ったとき、待合室の壁に貼ってあるものに、

まさしくそう書いてあった。

 

”心的不調が、身体的不調をもたらしていない場合、

また当科がそう判断した場合は、

精神科での受診とするようお願いいたします”

 

なるほど、そういう区分か・・

 

でも、すっきりとは分かり得ないよなと思った。

僕は、伝え落としのないように、自分の症状を細かくメモ書きしていった。

メモを見ながらしゃべり、質問に答え1時間ほど診察室にいた。

 

そのあと、パソコンを使った心理チェックを3,40分かけて行い、

血圧を測って、採血検査も行った。

 

ここは、病院なんだという安心感があるせいなのかどうかは分からないが、

ずう~っと、続いている脳の収縮感や、

周囲の状況が透明なカーテン越しに見えるような違和感が、

和らんでいるような気分だった。

 

 再度、診察室に呼ばれた。

心理チェックは、追って分析して治療に役立てること、

また血液検査は特には異常ないことが告げられた。

 

そして、まずは2週間、この薬を飲んで調子を見てくれということで、

ドグマチールとデパスという薬が処方された。

 

 僕は、病院から処方された薬は、薬局の説明書だけでなく、

どんな薬かや副作用について、必ずネットで調べている。

ネットがない時代は、薬辞典で調べていた。

注意深いというよりも、簡単には医者や薬剤師を信用しない人間なのだ。

 

 まず、デパス・・・

効用は、不安や緊張を取り除く薬で、抑うつ、神経衰弱症状、睡眠障害、

不安、緊張に使用されるとあり、

副作用としては、眠気、ふらつき、倦怠感、脱力感、めまい、歩行失調、

頭痛、言語障害、口の渇き、吐気、肝機能障害等である。

 

これを読んだだけで、服用する意欲が減退したが、

メンタル系の悪症状を治す、或いは和らげる薬のほとんどは、

これと同様な副作用を有していることを後には知ることになる。

もっとも、ほとんどの場合は、現実の副作用として、多いのは眠気くらいである。

 

 次にドグマチールを検索してみた。

元々は、胃潰瘍の薬だったのだが、別作用として、うつ状態の改善や、

気分を安定させるのに役立つことが分かったという薬だった。

 

したがって、胃潰瘍でない者が飲めば、

常識的に考えても、食欲旺盛になる。

その結果は、食べ過ぎて肥満になり易いという副作用があった。

 

その他、この薬の副作用は、やや大げさに言えば、

うつ系症状と胃病以外、ホルモンバランス異常も含めてのすべての病気が副作用として上げられるほど、副作用の多い薬だった。

これも、後に分かったことだが、その副作用を鎮めるための薬まであり、

さらには、その薬にも副作用があるのだから、出来ることなら薬は飲まない方がよい。

 

 なんだか、両方とも服用したくなくなってきたし、

自分では”うつ”とはまるで関係ないのだがなあと思った。

 

医師が言うには、まずは2週間は、これで試してみろとのことで、

それで、症状に変化がなければ、新たに考えようということだった。

 

まあ、それまで、薬での副作用としては、

一回だけ蕁麻疹が出たことくらいだから、飲んでみようと決めた。

いろいろな病気にはなってきたが、薬は毒だという意識が強く、

出来れば、薬は飲みたくない人間だった。

また、今回の検索で、メンタル系の薬は、特に毒以外の何ものでもないと知った。

しかし、この半年も続く異常な感覚から、抜け出せるなら、毒でもいいやという気になった。

 

 医師から、ドグマチールは、飲み始めてしばらく飲み続けないと効果が出ないと言われていたが、これらの服薬の結果はどうだったか・・・。

 

食後、薬を飲んで1時間もしないうちに、驚くべきことが起こった。

 

延々と、脳が収縮していくようなおかしな感覚がすっぱりと消え、

以前の感覚が戻るとともに、自分でないような自分の感覚も消えた。

また目の前を覆い尽くす鬱陶しい意味不明な厚く透明なカーテンが薄くなった。

 

 脳が、圧迫されて収縮していくような嫌な気分から

解放されたときの素晴らしい快感、

 

もちろん経験したことはないが、その快感とは、

覚醒剤を使用したとき得られる快感に近いのではないかと思った。

 

 半年間ほど、悶々として過ごしていた不快感が、

一瞬にして消え去ったのだ。

 

目の前に立ち塞がり、その向こうにも行けず、

それを取り払うことも出来なかった透明で厚いカーテンが薄くなり、

蹴散らかすことが出来るような気分になった。

 

僕は、その夜、半年ぶりに心地よい眠りにつけた。

 

 二週間後、病院へ行き、薬の効きが非常に良いことを告げた。

ただ、自分はウツの症状は感じていないことも言った。

医師は、自分では気がついていなくても、実はうつ状態で、

今のような感覚が起こることもあると言った。

 

 僕は、自分の病名を知りたくて、聞いたところ、

あえて言うならば、

自律神経失調症といったところかな、というあいまいな返事である。

 

自律神経失調症という病名はないそうだ。

体の諸々の機能、及びそのバランスをうまく調整してくれるのが、

自律神経なのだが、

何らかの原因によって、その調整がうまくいかなくなると、

精神的、肉体的に普通の状態ではない異常が出てくる。

その異常な状態を総称して、自律神経失調症というそうだ。

 

 医師が言うには、僕の場合は、仕事のし過ぎ、常に締切に追われ、

長時間の緊張によるストレスの蓄積が自律神経に支障を与え、

その結果が、

脳の閉塞感や、視覚的異常感という症状であるとのことである。

薬の効果はいいようなので、同じ薬を続けることになった。

 

 上司には、病院で言われたことをそのまま話し、

仕事の割当を減らしてもらい、毎日、定時で帰れるようにしてもらった。

 

ちなみに、僕の仕事は土木の設計であり、

設計という仕事は、一見、小奇麗な職種に思えるが、

それはとんでもない間違いである。

 

常に時間との勝負であり、徹夜や夜中仕事は当たり前、

場合によっては、ヤクザもどきの住民との折衝ごともある非常に泥臭い職種である。

 

 毎日、定時で帰れるようになって、3ヶ月もすると、体調は、ほぼ元通りになった。

自分の仕事に係わっていた人たちに、迷惑をかけていたお詫びや、

そろそろ復帰するからよろしくの旨の社内メールを送った。

これが、失敗の元になってしまった。

一挙に仕事が増える傾向が始まった。

 

 数日後、夜の9時からの社内打合せへの参加要請を受けた。

夜の9時からの打合せ・・・設計会社では、ごく普通にあることだ。

仕方なく出席したのだが、その仕事は、

常識的には不可能に近いスケジュールの急ぎの仕事だった。

 

 打合せの途中から、急に以前の脳を締め付けるような閉塞感が始まった。

そして、相手の声が遠くから聞こえてくる感じ、

またも以前のような透明な厚いカーテンが出現してしまった。

 

さらには、相手の言うことに対し、反応することが出来なくなってしまった。

脳に入ろうとする情報を脳が入れまいとして拒むのだ。

つまり、考えることが出来なくなってしまった。

僕は、体調の急変を理由にその場を退席した。

 

 

 その夜の打合せが、その先の最悪状態に陥る引き金となった。

会社から駅まで、6,7分の距離だが、歩いている感覚がおかしい。

地面の上をしっかりと踏みながら歩いている感じではなく、

たよりないスポンジの上でも歩いているようなフワフワ感を感じるし、

透明で厚いカーテンも再び降りて来て、目に入る風景に違和感がある。

また、頭の窮屈感も元通りになってしまった。

 

 自宅の最寄駅まで、50分ほどであるが、座れない場合が多い。

見た目では、普通に見えるであろうが、

実際は、めまいが起きそうなフラフラ状態である。

 

うまい具合に前の席が空き、座ることが出来た。

僕は、不快な視覚を遮るために目をつむった。

しかし、頭の中は、なにものかが、ぐるぐる回っている。

 

眠ってしまって楽になりたかったが座席の背もたれにつく背中に、

ぐぁんぐぁんという脈の鼓動を感じ、眠れたものではない。

 

 

 あー早く着いて欲しい、そんな気分が途切れることなく続いたまま、

やっと、待ち望んだ駅に到着した。

 

電車から、ホームに降り立った瞬間、

倒れそうになるほどのフワフワ感を感じた。

このフワフワ感が、その後、何年も続くとは、思いもしなかった。

 

改札口までの風景も、視覚的に異常だし、

その日の朝とはまるで違う感覚が襲ってくる。

 

 

 やっとの思いで、駅から徒歩7分の我が家に帰ることが出来た。

よくは分からないが、家の外という広い空間にいるときよりも、

家の中という狭い空間の方が、異様な感覚は小さい。

 

 

 シャワーでサッと体を流し、顔と頭を洗った。

食欲がなかったが

食後の薬を飲むためにだけ、少しだけ夕食を摂った。

そして、しばらくあとに、前からもらっている睡眠剤を飲んで、

ベッドに入ってしまった。

 

 

明日朝、目覚めたとき、どうか普通の状態に戻っていますようにと、

祈りつつ、眠りに入ったらしい。

 

 果たして、翌朝のめざめは、まぁまぁだった。

頭の閉塞感もほとんどなく、例のカーテンもあるけれど薄い。

コーヒーを飲みながら、

6枚きりのトーストにベーコネッグとレタスをはさんで食べた。

さあ、行く準備をして、出発だ。

 

そう思った瞬間、クラクラ感が襲い、不整脈が始まった。

脈拍は、120/min もあった。

なんか気分が悪いので、血圧を測ってみたら、

上が170、下が110もある。

熱はおよそ、38℃あった。

 

 

 しばらく、横になって休んでいたら、

150、100となっていたので、会社へ向かうこととした。

もはや、1時間の遅刻である。

 

玄関から出て、外の世界に踏み入れた。

だめだ!

急に頭の閉塞感が強まり、カーテンも厚くなってしまった。

しかし、休むわけにはいかない。

僕は、駅に向かった。

 

 

 

 

最寄駅まで、7分ほど、柔らかいスポンジの上を歩いているような感じがする。

脈が早く、心臓がドキドキするし、血圧が安定していないせいか、頭はクラクラしている。

駅に着き、階段を上り、コンコースを通って改札口を抜け、階段を下りてホームにたどり着く。

しごく、当たり前の日常的行動だが、これが非常にきつかった。

心臓はバクバクするし、目に入る異常な感覚の光景だけで精神的に疲れ切ってしまった。

電車に乗ると、フワフワ感は軽減するが、今度は車内で倒れないかという不安感でいっぱいになり、さらには、不整脈も出てくる。

この日から、そんな日々が日常のこととなってしまうのだ。

 

 車中50分間は、”とにかく早く到着してくれ”と、そればかりを願い、

電車から降りると、おかしな視覚のなかスポンジ道路を、

この異様な感覚を乗り切ろうと思いながら、会社まで歩く。

 

 会社では、仕事に没頭して、体調の悪さを忘れさせようとするが、

現実的に不整脈で息苦しいし、頭がクラクラしているので、そううまくはいかない。

社内打合せをしても、自分の意見がまとまらないし、

相手の言うことも、さっぱり頭に入って来ない。

考えようとする意識を、脳が拒否しているのだ。

 

 それでも、あと約一ヶ月を、何とか、ごまかしごまかしながら、

仕事を転がして、年末年始で9連休取ろうと考えた。

9連休も取れば、なんとか復調出来るのではないかと思ったのだ。

 

 初めは、2週間おきだった病院は、

前回までの僕の症状の改善ぶりが非常によかったので、

次は2ヶ月後で良いと言われていた。

その予約日に行ったが、僕の急変振りに医師は驚き、薬はどっと増え、

また2週間おきになってしまった。

 

 年内の約1ヶ月ほどで、僕に与えられていた仕事は、どれほど進んだであろうか。

先日の夜9時の打合せの仕事は、身体的に不可能であると伝え断っていた。

 

 正月休みは、ぼんやりと寝暮らすだけで、あっという間に終わってしまった。

また、不快な風景のなか、スポンジ道路を歩かねばならない日々が始まる。

 

 休み前と変わることのない日々が流れていく。

とにかく頑張ろうとはしてみたが、

どうにもこうにも仕事が前に進まない。

どうしていいのか分からない。

 

考えることを、脳が拒否するのだから、どうすることも出来ない。

結局、出来ることは、ただ一つしかなかった。

仕事から逃れてしまうこと、つまり会社をやめる・・・

後先どうするかなどということは、

もはや考えることが出来なかった。

 

 直属の上司は、親会社からの派遣で来ている人間なので、

この種の話をしても仕様がないので、

直接、社長に、今の状態では、とても仕事を続けられないので、

退職したい旨を伝えた。

 

 社長は、簡単に退職を決めるなと言った。

まずは、半年でもいいから休職して見ろと、

そしてその時点でどうなのか判断しようと言ってくれた。

 

病院で、必要休職期間を書いた診断書をもらい、

会社に提出すれば、その期間、休職できるよう指示するとのことだった。

 

しかも、幸運なことには、

社内規定で、10年以上勤務している社員の場合、

病気等での休職は、累計で1年までは、

給料が100%支給されることになっていた。

僕は、社長の話をありがたく受けた。

 

 

病院では、入院を勧められた。

入院して何をするかと聞いたところ、

会社関係を始め、社会的情報を一切遮断した環境のなかで、

規則正しい生活と服薬をし、好きなことだけをするということだった。

 

別な言い方をすると、何も考えない、何もしない生活を、

まずは3ヶ月間するとのことだ。

 

 金もかかるし、そういうことなら、自宅でも出来ると考え入院は辞退した。

医師の書いた診断書は、以下のようなものだった。

”自律神経失調、うつ状態、及びその他の神経症により、3ヶ月の療養を必要とする。その後については、3か月後の診断による”

 

 仕事の整理をして、1週間後から僕は休みに入った。

自分では、全然覚えていないのだが、

妻の話では、初めの頃は、一日中、

ベッドの上で、白い壁に向かって何もせず、座っていたそうだ。

 

 自律神経失調症は、

メンタル、肉体ともに本当に限りなくいろいろな悪症状が出る。

 僕の場合の頭の閉塞感や、考えようとすることへの拒否反応、

おかしな視覚、これらはうつ状態なのだと、医師から言われた。

 

 また、肉体的には、以前からの持病でもある腰痛が悪化した。

一か月半ほど整形外科に通い、腰の牽引、温熱治療、

低周波治療を受けたが、まったく改善されないため、

治療先を近所の鍼灸整骨院に変えて見た。

 

ここでは、最初にマッサージ、低周波、そして電気鍼治療であった。

マッサージのせいか、帰る時は気持ちよく、これなら治るかもと思うが、

しばらくすると、そのいい感触は失われてしまう。

ここも一ヶ月ほどでやめ、今度は保険適用のない整体院へ行った。

 

一回に5000円も支払わないとならない。

腰や首を、ちょいちょいと軽く触るだけなのだが、

それで、骨の位置調整をしているそうである。

毎日など来る必要はないと言う。

多くても一週間に一回でよいと言う。

効いているのかどうなのか、その時は分からないが、

三回通ったら、完治とは言えないが、何となく良くなっていた。

 

 メンタル面では、最初こそ、上に書いたような状態だったが、

仕事を、一切考えなくてよいということ、これは最大の治療だった。

三ヶ月の終わりごろには、

まだスポンジ道路を歩く感触からは、抜け出せなかったが、

頭の閉塞感、透明なカーテンは、消えてくれていた。

 

 医師は、休職期間をこれで終わりにするか、

もうしばらく様子をみたいということなら、

それなりの診断書を書くと言ってくれたが、僕はここで終わりにしたいと告げた。

 

医師には、絶対に無理をしないこと、

言い方は悪いが、さぼりながら仕事をするように言われた。

 

無理をして、身も心もぼろぼろになって、やめざるを得なくなるか、

文句を言われても、さぼりながら仕事をして、

定年まで勤めるのとどちらがましかを考えて出社して欲しいと言われた。

 

 そして、三ヶ月の休職を終え、出社した。

みんなから言われた。

「あ、元気そうだね。顔色もいいし」

そうなのだ。

僕は、元気であろうとなかろうと、なぜか顔色は良く、元気そうに見えるらしい。

 出社の数日前、電話で社長から、

”しばらくの間は遠慮せずに定時で帰るように、

又、仕事は休職前に担当していたプロジェクトのフォロー程度から始めて、

じょじょに慣らしていくように、その旨、私から部長に伝えておく”

そう言われていた。

ありがたく、その言葉を受け取ったが、

この業界、そんな甘いものではないことくらい社長だって分かっていただろうが、

まあ、そのくらいのことは気持ちとしては、そう思っただろうし、

そのように指示してくれたのだろう。

 しかし、まさかここまでひどいことになるとは思ってもみなかった。

 

休職3ヶ月で、出社一日目に上から言われた。

「初日からで悪いんだけど、〇〇の件で、

6時半からの発注者と施工業者の打合せに同席して欲しい」

○○の件とは、僕が休職前に担当していたプロジェクトだ。

はぁ・・・? 確かに僕は前の担当者だったけれど、

3ヶ月の空白期間があって、その間の事情、進展具合はまったく知らない。

体力的にも無理だし、打合せ対応も出来るはずがないと返答した。

「いや、それは大丈夫だ。

実は、ほとんど動きがなかったから、問題ないよ。

とにかく全員、ふさがってしまっていて行ける人間が誰もいない。すまんが、頼む」

 

なるほどね・・・毎度のことだ。

最初から、僕を宛にしておいて、スケジュールを組んでしまっているのだ。

しかし、毎度のパターンとはいうもののひどいもんだ。

 

3ヵ月前、ふらふら状態で、上に説明したというのに、

実は進展がないことをいいことにして、

僕に代わる担当者すら決めていなかった。

 

 まあ、仕方がないと言えば仕方がないのだ。

少ない人数で、多くのプロジェクトを抱えて、利益を増やし、

社員の給料に反映させるのが、会社方針だった。

しかし、親会社の社員の年収は、驚くような高額だったが、

同じ場所で、同じ仕事をしている子会社の社員の収入は、

親会社社員とは比べ物にならなかった。

 

 まあ、要するに、とにかく忙しいと言うか、

忙し過ぎて、病人が出るのも不思議ではない会社だったわけだ。

やむを得ず、その打合せには出席した。

一時間ほどで終わったが、実際に設計上の進展はなくても良かったようで、

僕の出番はほとんどなかった。

 

 初日から、ほとほと疲れ果て、ため息が出た。

病気のことが心配になるとともに、

こんな会社に、あと何年いられるだろうか、

或いは、あと何年いなければならないのだろうか・・・

やめたら、経済的に成り立つだろうかなどを、ぼんやり頭で考えながら直帰した。

 

 結局、フォローではなく、3ヵ月前と同じく、

そのプロジェクトの中心担当者ということにされてしまった。

まあ、仕方がないと言えば仕方もないのだ。

 

もう2年続いている長期的プロジェクトで、多くの役所が絡んでいる。

簡単に担当者を代えられないことは分かる。

しかし、何らかのプロジェクトの中心的担当者になったら最後、

定時で帰るということは、この業界では有り得ないと言える。

 

又も、忙しい日々となったが、

主治医の言うように、日々を送り、何とか持ちこたえていた。

”潰れるよりは、低い評価をされてでも極力手抜きした方がマシ”

 

 ある日、どっきりする噂が流れてきた。

噂の火の元は、親会社の上の方にいる口が軽くて有名な奴らしいが、

かなり信憑性のありそうな噂だった。

 

僕のいる子会社を、親会社が吸収合併する予定があり、 

その際、子会社の社員の多くをリストラするというものだった。

 

 最大の理由は、親会社の収益が、イマイチよくないということだ。

そのために、給料をランクづけして全体的には大きく下げようとしている。

子会社は、下請け扱いだから、下請けに支払う経費がかかっている。

合併すれば、それが不要となるわけである。

 

 そのような意味での合併である、

しかも子会社社員の格付けも下のランクにしてしまえば、

親会社並の給料を払う必要もない。

同時に、子会社のリストラも、早期希望退職として行う。

それに掛かる費用は、

親会社以外の仕事もして収益のよい子会社に全額負担させる。

このように、親会社としては、

まったく腹を痛めない方法での合併吸収である。

 

 そんな噂が、どこからともなく流れ、

みんなが知るような空気が流れ始めていた。

もし、この噂が本当ならば、最も先にリストラされるのは、

僕のような半病人だろうなと思い、やるせない気分になった。

 

しかし、その話は、はっきりとした形となっては現れないまま、日々は過ぎ、

忙しいなか、僕は、なんとか持ちこたえていた。

 

 しかし、ある日、突然、れいのあの脳が収縮されるような感覚に襲われた。

そして、またもあの透明な厚いカーテンが目の前に降りてしまった。

非常に、不安だった。

 

不安は、的中し、その夜中に大きなメマイに襲われてしまった。

自分の周りの空間がぐるぐるまわっている。

立っていることはもちろん出来ず、座っていることも出来ない。

どうにも居たたまれない状態で頭を抱えこみ、うずくまるしかない。

夜中の二時、救急車を呼んでもらった。

 

救急隊員は、僕、或いは付添で救急車に乗った妻に言った。

「どこか、掛かりつけている病院はありますか」と。

あるけれど、いくつか離れている市にあるんですがと答えた。

「それでは、近くの救急病院と連絡をとります」

結局、自宅から車なら20分ほどの市民病院へ行くこととなった。

 

 まだ、身体が揺れているフラフラ状態っで、

周りがぐるぐる回って見える症状はかなり良くはなってはいたが、

まともに歩けるような状態ではなかった。

 

 医師はこれまでの経過により、

やはり自律神経失調が悪化したのだろうという判断をして、

まずは、めまい止めの点滴を2時間しましょうと言った。

2時間、点滴をして、症状が改善されなかったら入院となるだろうとのことだった。

 

 2時間は、あっという間に過ぎ、点滴の袋は空っぽになった。

看護師さんが来て、点滴の針を外したあと、

そうっと起き上がって下さいと言った。

僕は、上半身を起こした。

 

まあ、何とか起き上れた。

しかし、ベッドから足をおろし、立とうとしてみたが、

まるで立てる状態ではないと体が感じた。

看護師さんも、その様子を見て、あ、ダメダメと言い、医師を迎えに行った。

 

 結局、めまい対応の出来る救急病院へ転送されることとなった。

そこに、4日間入院したが、ほとんど点滴をしていた。

車椅子で、移動の状態から立って歩けるようにまでは回復したが、

足元はスポンジ状態、視覚はまたも透明なカーテンがあるような感覚・・・

以前に戻ってしまった。

 

4日で退院はしたものの、混んだ電車に1時間弱乗って、

会社で仕事をするには程遠い体の状態だった。

 

当初は、1ヶ月の休職という予定だったが、改善に向かわず、

こんどは、結局4ヶ月の休職という事態になってしまった。

 

 出社すると、さすがに前回のように、

仕事を押し付けてくるようなことはなかった。

 

しかし、驚くのは、前回同様、僕が担当していた仕事のひとつは、

休眠状態で、放ったままになっていた。

少なくとも、これだけは終わらせないとまずい。

 

 また、休んでいる間に、れいの親会社による吸収合併の話が、

かなり具体化されており、半年後から、退職希望者を募ることが決定していた。

制度条件も、決定済みで、

会社都合による退職とするので、すぐに雇用保険金をもらえるし、

上乗せ退職金の上乗せ分が、

定年までの基本給総額に近いくらい高額だった。

 

 僕は、この会社では、もう身が持たないと覚っていたので、

この制度に、飛びつくように乗ることに決めた。

募集までの半年間を何とか持ちこたえねばならない。

 

評価は最低だろうが、馬鹿にされようが、休もうが、早退しようが、

とにかく、半年間は、ここにしがみつこうと思った。

 

 早期希望退職としての退職扱いの場合と、単なる自己都合退職とでは、

金の面で、ものすごい差が出てしまう。

早期退職ならば、会社都合退職扱いとするということなので、

雇用保険からの給付金は即、もらえるし、

希望退職より長期間にわたってもらえる。

自己都合退職だと給付まで3ヶ月待たされるし、給付期間も短い。

 

また、退職金についてみれば、

僕は、途中入社で、15年ほどだから、自己都合退社だったら、

退職金など微々たるものである。

それに比べ、早期退職制度が適用されたら、

15年勤めた人の定年退職金となるばかりでなく、

早期退職への礼金のようなものとして、かなりの高額な金額が加わる。

 

 主治医にも言われた。

”とにかく、病状がこれ以上悪くならないように、出来るだけさぼれ、

評価が、査定最悪でもしょせんは6ヶ月だけのことなんだから気にするな

ただ、解雇だけにはならない程度の仕事にとどめなさい” と。

 

 しかし、会社側から見たら最悪の社員を抱えていることだろう。

2年間に計7ヶ月も休職しているのに、その間の給料は支払っている。

仕事量も減らしてやらなければならない。

出来れば、6ヶ月後とは言わずに、さっさと辞めてもらいたいだろう。

 

何とでも、思うがいい。

この病気の原因は、元はと言えば、僕に過重な仕事をさせた会社にあるのだ。

僕は、そう割り切った。

 

 それからの6ヶ月は、とことん大変な日々が続く。

とにかく、精神状態、身体状態が悪く、だんだん悪化していく。

 

 残り、3ヶ月といった頃には・・・

 

あー、今日は少しは気分良く起きられたと思い、

まるで、血圧恐怖症でもあるが如く、起きぬけに血圧を測る。

145の95、ままあだな、脈拍も85なら、まあいいやと思う。

さて、コーヒーを飲んで出かけよう・・・

あ、立つとふらつき、いやな気分である。

血圧は180、脈拍は110になっている。

ふわふわ感も強い。

とても、駅まで行く気力が出ない。

 

遅刻して、11時ごろ会社へ着く。

打合せをふたつばかりやって、キャド・オペレーターに図面指示、

この間も外見は普通に見えるだろうが、実際はふらふらである。

午後1時ごろ、15分ほどで昼食を食べると、

またも、血圧が上がっている感じ、脈も120くらいになっている。

それでも、パソコンに向かって、報告者を作る。

 

それも、午後3時くらいには思考能力の限界がやってくるとともに、

体調も限界となり、早退せざるを得ない。

そんな日が、週5日の内、2~3日もあるのだ。

 

 こんな調子では、早期退職制度がスタートする前に、

解雇されるのではないかという心配もせざるを得なくなってくる。

とにかく、体調が悪すぎる。

電車から、降りてふらふらしながらホームを歩き、

必死の思いで階段を上って改札口を出る。

そして、また階段を下りて、タクシー乗り場へ行く。

自宅まで、たったの徒歩7分、歩いて帰れないのだ。

 

 そんな日々を繰り返し、体調の悪さも当然ではあったが、

社内で最も堪えるのは、2週間おきにある設計担当者会議だった。

各自の担当の各プロジエクトの進捗状況と、

受注金額及びその消費状況を各自が発表し、

それぞれ確認し合う会議である。

 

 大プロジェクトを抱える人は、設計受注金額が億単位である。

それ以外でも、千万円単位である。

僕は、小物ばかりの半端仕事のようなものばかりで・・・

まあ、自分自身がそれを望んだのであるが、合計でも数百万円。

合計で、そんな少ない受注額の仕事をしている人はいない。

それで、いいのだと思いつつも、いい年をしていることもあり、

やはりプライドが傷つき、気分的に落ちていく。

 

 また設計部外の関連の部で、

僕の病気状況を知らない、或いは理解出来ない部責任者もいた。

いまだに僕を夜の8時や9時の打合せに組み込んでしまう。

当然、僕は無理だと言う。

言ってもきかない場合は無視をする。

相手は、部外の者に舐められたと思い、激怒したりする。

そのような状況は、ますます精神的に疲弊させられてしまう。

ほとほと、早期退職希望の受付日が待ち遠しかった。

 

 そのような日々を我慢を重ねて送り続け、解雇にもならず、

とうとう受付日まで漕ぎ着けた。

僕は、当然、初日の朝に退職希望関連書類を提出した。

僕自身は喜んでの書類提出だったが、

募集とは、実は名ばかりで、残って欲しい者には事前確認をとってあり、

その他の者は、やめて欲しかったらしい。

 

 1か月後、子会社の解散式が行われた。

 

2回目の休職からの復帰半年で、

僕の病状は、以前の最悪期のレベルまで落ちていた。

頭のふわふわ、ふらふら感、脳の収縮感、血圧の乱高下、不整脈、

頻脈、足元のスポンジ感、透明な厚いカーテンを目の前に感じる視覚。

 

 15年いた会社がなくなる・・・感慨深いものはなかった。

つらいばかりで、考える力もなく、早くこの場から去りたいだけだった。

そして、無事に自宅まで戻れるだろうかと毎日不安に感じていたことを、

その日も、同じように感じるだけだった。

 

 帰りの電車、やっと終わったと思うばかりだった。

しかし、なにごとも、終わりは、別なことの始まりなのだ。

 

 会社を辞めたという仕事の終わりは、

家庭での療養生活の始まりになるはずだった。

とにかく、煩わしいことは何も考えることなしに休みたかった。

 

最小限、やるべきことはやった。

ハローワークでの給付手続きを終わらせ、

それに伴う2時間ほどの説明を受け、

1週間後から10か月間雇用保険給付金が受けられるようにした。

あとは、4週ごとにハローワークへ継続手続きに行けばいい。

あとは、4,5ヶ月ゆっくりとするつもりだった。

 

 ところで、僕の両親は近くの実家に住んでいたが、

父は、既に認知症になっていたし、

その父の面倒をみている母も年齢的に体力が落ちていたので、

実家の隣に住む僕の妹が、かなり両親の生活上の世話をしていた。

 

 僕が、会社を辞めてから1ヶ月後、何と突然、母が脳梗塞で倒れた。

手術も不能な状態で、2日目から意識不明となった。

医師からは、このままの状態が続くか、もし意識が戻ったとしても、

寝たきりで意識混濁状態だろうと言われた。

父の世話、母の病院問題・・・妹ひとりで、やりきれるわけはない。

父へは、単なる老人介護ではなく、軽くはない認知症なので、

一日中、目を離すわけにはいかないのだ。

ときとして、とんでもないことをする。

 

 結局、僕は、ゆっくり休むどころではなくなってしまった。

実家で、妹の代わりをしたり、病院へ行って母の様子を見たり、

病院は、長期入院型の病院ではないので、

あとの入院先の病院について、ケースワーカーと打合せをしたり、

休む暇がなくなった。

 

 母が、入院して35日目の朝、病院から”母の容態が急変”との電話。

僕の家族、妹家族と父とで、急遽、病院に向かったが、

もはや、母は、腕と口周りが変に硬直した状態で亡くなっていた。

家族の誰の手を握ることも出来ずに死んでいったのだ。

硬直した腕が、まるで誰かの手を求めているようだった。

覚悟はしていたけれど、可哀想な死に方に涙が出た。

父は母の死を理解出来ない。

なぜ、何もしゃべらないんだなどと、しつこく言っている。

 

 悲しかったけれど、今は悲しんでいる暇がない。

僕自身も、病気に加え、精神的疲労と寝不足で、ぼんやり状態だったが、

喪主である父の代わりをするのは、僕しかいない。

葬儀屋に連絡をし、通夜や告別式に掛かる金も含めての段取り打合せ、

親戚、関係者への連絡等々に走り回った。

父は、まるで、分かっていなかった。

 

 そして、そのちょうど1年後、父は慢性腎不全で、亡くなった。

その1年間は、僕や妹にとって、子としての試練の1年間であった。

とにかく、疲れた。

これを簡単に親孝行と受け取るには、自分が健康でないから、

なおさらきついことだった。

僕の健康状態は、会社をやめた時点より悪く、

目の前には、透明な厚いカーテンが、動きはしないぞとばかりに立ち塞がっていた。

 

 父の葬儀を終え、実家をどうするかとか、

少ないとは言え父の遺産分けの問題等の頭悩ます問題が解決して、

やっと、心安らげる日が来た。

やっと、仕事を終わりにしたということから始まる自分自身の自宅での療養生活の始まりだった。

 

 この先、病状は好転したかと思うと悪化したりを繰り返し、

今の状態を手に入れるまで、5年ほど費やしてしまった。

 

 いまだ、引きずるものも少しはあるけれど、

”透明な厚いカーテン”は、視界から、消えてくれた。

この視覚を、口で分かり易く説明するには、今も言葉が見つからない。

 

2012.9.30