以前、以下に署名しました。

「【10万人署名】子どもたちへの新型コロナワクチン接種の停止を求めます。」

この主催者から、経過報告等で関係資料がメールで送られてきます。

今回、送られてきたものは、

神戸大学大学院経営研究科教授 國部克彦氏の著作

「ワクチンの境界 - 権力と倫理の力学」

(この著作についてブロ友さんが記事を書いていたので被る部分があるかもですが)

 

この書籍の中、その1つに、「100分の1の倫理」があり、今回はその紹介でした。

 

内容的に多くの方々に是非読んで頂きたいと思い、そのまま紹介させて頂きます。


報告タイトル「予防接種の副反応で亡くなる人は少数であれば仕方ないのか?」

『ワクチンにまつわる100分の1の倫理とは?』
https://voice.charity/events/112/reports/1310

 

下のURLから全文転載するとともに、

重要と思う部分や共感等した部分を太字、太赤字にしました。

とても分かり易く、そう長い文章ではないので、全文読んで頂けたら幸いです。

文字を大きくしている部分は、僕が特に強く共感する部分です。

 

https://note.com/kokubu55/n/nc37e3cd64fba

100分の1の倫理(1)江戸時代から学ぶ

 

2021年10月8日 06:10

 天然痘は,人類が唯一克服した感染症と言われています。

その方法が種痘ですが,その歴史は古く,

日本に伝えられたのは18世紀半ばと言われています。

この日本における種痘の歴史を克明に研究した香西豊子氏は,

現在の新型コロナウイルスパンデミックの状況下において,

現代へ非常に貴重な示唆を投げかけています。

 その中でも,

香西氏が『現代思想』2020年11月号に発表された「100分の1の倫理」は,

現在のワクチン論争の根底に何があるのか,

何を私たちは忘れ去ろうとしているのかを思い起こさせてくれる素晴らしい論文です。

 

内容を詳しく紹介したいと思います。

 私も子供の頃は何も知らずに種痘(疱瘡)を受けさせられましたが,

種痘は安全とはいえ,年間10人程度の死者が出る副作用があったようです。

種痘にまつわる副作用は当然,江戸時代から議論されており,

その経過を香西氏は克明に紹介しています。

 そこで注目されるのは,江戸幕府管轄の医学館痘科教授の池田家の見解です。

池田家は,牛痘種痘術の<有効性>,<安全性>,<倫理性>の観点から,

種痘に対して批判的だったそうですが,

その理論は,推進派よりもずっと精緻だったと香西氏は評価します。

 池田家が種痘推進派を批判する根拠は,

<有効性>の根拠は「ただ諸外国での実績の伝聞だけ」であること,

<安全性>については,「ウシ由来の物質が人身にどのように作用するのか,

全容が明らかでなかった」ことでした。

 

 驚くのは、これらの批判は,彼らの論争から200年以上たった現代の新型コロナワクチンにもそのまま当てはまることです。

200年後の現在,人間はワクチンの<有効性>や<安全性>について,

ほとんど同じことを繰り返しているのです。

 さらに、池田家がワクチンに反対していた理由は,

<有効性>と<安全性>だけではなく,<倫理性>がありました。

池田家の当主池田瑞仙は,

「若し誤ちて百中一二人殺すとも,其の罪全く種師(種痘した医師)に帰すべし」

と述べています。香西氏は,これを「100分の1の倫理」と呼びました。

  その根底には,人間は天命を全うすべきという倫理観があり,

天然痘で死ぬのは天命としても,

その予防のために(天然痘では死ななかったかもしれない)人が

一人でも死ぬことは,許されないという倫理観があります。

したがって,予防接種よりも,治療に全力を尽くすべきということになります。

 

 一方で,予防接種推進は

ごく少数に取り返しのつかない不幸があったとしても,

大多数が無事なら,そのほうが望ましいと考えます。

これは最大多数の最大幸福を倫理的な規範とする功利主義の考え方につながります。

そして,この推進派と慎重派の見解の相違は,

「最後まで折り合うことはなかった」と香西氏は指摘します。

 

 しかし,後世にとって重要なことは,

予防接種推進派が明治以降の医療で支配的になると,

<安全性>の問題はなぜか不可視化され,

<有効性>,<倫理性>の観点もうやむやのままになったと香西氏が指摘していることです。

それに代わって出てきたのが,<必要性>という論点でした。

 この<必要性>という論点は,功利主義の考えと深く結びついていて,

それだけで論理が完結しています。

もしも、多数のために必要であるということになれば、

それに異論を差し挟むことが難しくなってしまいます。

しかし、そのことによって失われるものも大変多くなります。

 特に重要なのは,予防接種で亡くなる人の問題は確率で考えてよいのか,

という点です。

つまり、100人を助けるために,1人は死んでもよいのか,という問題が,

<必要性>の論理には入ってこないのです。

100人に1人は多すぎるけれど、

100万人に1人なら仕方ないと言えるのかどうかは、

本来、相当議論しないと、いけないテーマで、

れなしに政策を前に進めてはならないはずです。

 

この点が分からない人は、

人間の尊厳について

深く考えたことのない人です。

人間を効率の観点

でしか評価できない人です。

 

(僕の思いですが、これ👆が政府及び政府の専門家の根本的な考え方です)

 

効率は数字ですが、

人間の命を数字で評価したら、

もうそこに人間の尊厳はありません。

 

つまり、少数の犠牲の上に多数のための社会を築いて良いのかという点です。

 この問題に答えはありません。答えがないから、議論し続けなければならず、

そこから人間の倫理が生まれてきます。

 

そこで香西氏は,「予防接種の実施には<必要性>のみならず,

<有効性>・<安全性>そして

それらの均衡を見据える<倫理性>の論点が

欠かせない」

と主張して論文を締めくくります。

 

 今の新型コロナワクチンの議論を見れば,

<有効性>・<安全性>の議論も非常に偏った形でしか行われていませんが,

<倫理性>の論点が

ほぼ完全に欠落していることが分かると思います。

 

そして,そのことが、

<有効性>と<安全性>についても偏った議論を招いてしまっているのです。

もう一度、100分の1の倫理の意味を問い直さなければなりません。

 

以上、転載です。