私と母の綱引き

 

 

 

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*2/1、note版の不登校の一般的な経過と家族の対応③安定期『将来のことをちゃんと考えるという呪い』を追加しました

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私の母は教員で、手先が器用で、歌が上手で、ドジで、親切の押し売りをするようなふてぶてしさ、少女趣味で乙女でメールは絵文字だらけ。そうかと思うときつい言葉でキンキンと責めてくる。

 

そんな母と不登校だった私の関係性は?

 

これは母に確認したわけではないのですが、多分教員の仕事は途中で辞めてパートタイム講師のようなことをしていたと思います。ずっと続けていたコーラスも編み物のグループもきっと私のことがあって辞めていると思います。母は3年前に亡くなったので確認しようがないのですが、私のためにやめたとか、何も言わなかったので、、、でも時期的にそうだったのではないか?という予想です。そして私が結婚して独立した後にまたフランス刺繍だとかコーラスに復帰したり、革細工でお財布を作ったり、孫の入園グッズを作ったり、ヨン様を追いかけたり、ゆづ君を追いかけたり、とても楽しそうに過ごしていました。

 

私が支援者の仕事をしていなかったら、母が仕事や習い事をやめたり、また始めたタイミングが私のひきこもりに連動していることは一生気がつかなかったと思います。

 

 

話が前後しますが、明るく社交的だった母は、さまざまなツテを使ってあちこちに不登校の相談に行っていたようでした。妙な行動力もあったので、閃けば電話をかけては突撃し、最終的には違う呼び名でしたが、不登校親の会を作っていました。

 

そういう妙な行動力と豪胆さはもう諦めていたので、母の行動を止めることはありませんでしたが、私のことをあちこちで言いふらされるのだけは勘弁してほしいと思っていました。一番ダメージを受けたのは、まあまあの収容人数の講演会?集会?で私のことを話していて、そのビデオを見ちゃった時ですね。これは本当にみなさん、気をつけたほうがいいと思いますよ。

私が外に出るようになると、自宅に不登校母仲間を呼んで小さな集会を開いていることもあって、帰宅すると知らないオバサンが泣いているカオス・・・。

まあ、それはいいんですが、

 

当時、どうしても解せないことが一つだけありました。

 

「これは私の物語だ」

ということです。

 

私の人生をなぜ母が悩むのだろう?

 

私が高校に行かないことでリスクを負うのは私であって、なぜ母がそこで主役さながらに涙を流して演技ぶった口調で、私の担任と話しているのだろう?あなたは高校も大学も出たのでしょう?結婚もして仕事もあって趣味もあって幸せなのになぜ泣くの?と冷めた目で母を見下すように見ていました。

 

どんな感覚かというと、有名人の親が書籍を出版しているような?ハンカチ王子の父親が息子の物語を自分のことのように発表しているのを見る時の感覚です。

 

「放っておいてよ」

 

今思うと、母は私のことを自分の一部分のように感じていて、私は母を別の人間だと感じていたのだろうと思います。

 

当時、母の存在は私の物語の中では脇役中の脇役でした。母に対する恨みは当然ありましたが、それは日常的にずっと思っているわけではなくて、何かのきっかけにふと思い出して「あんにゃろう!こんちくしょう!」と腹を立てるだけであって、日々の悩みごとは基本的には自分の将来への焦りや同級生との差や自身への呪詛でした。もちろん、それらの悩みは両親に話したことはありません。話したところで解決するとは思っていませんでした。だから

 

両親と腹を割って話し合ったことはなかったです。

 


母が娘に編んだチュニック?

 

 

よく、母に言われて嬉しかったこと、腹が立ったことを聞かれるのですが、これといった記憶がないです。当然ですが、母の一言でやる気になったりなんてしません。

 

覚えているのは、

私がパソコンをぶん投げた時の母の顔、

怒鳴り散らしていたら、その場でヨロヨロと土下座するようにかがんで泣き出したこと、

バイトの結果を待っている時に母までソワソワしていたこと、

リスカした時に母が私の腕を押さえた手が温かかったこと

何かで怒って部屋に閉じこもると5センチぐらいドアを開けて消え入るような小さい小さい声で「ぶらりちゃんごめんね」と声をかけてきたこと、追いかけてくる母を待っていたのに「あっち行って」と追い返したこと。

 

書いているだけで鬱になりそうな光景ですね笑

 

多分ですけど、母は私から信頼されていない、嫌われていると感じていたのではないかと思います。私の方は、母から傷つけられたことはありましたけど、母が家にいる時は安心していたし、文句言いながらも母の料理は美味しいと思っていたし、良かれと思って私の服のシミにブドウのアップリケを縫い付ける絶妙なダサさが大好きだったし(そう、好きだったのにそのアップリケを引きちぎったんだよね、確か理由は昔は私は放って置かれたのに急にこんなことしてムカつくだったかな?もう死刑にしていいよ)、でも不登校当初にやり合ったこと、ここ一番の大切な高校との話合いにビビって来なかったこと、私もあんなやつ来なくていいと言い返したこと、

 

それらが何となく見えない距離をつくってしまっていたように思います。

でも、今の辛さを母のせいにすることで楽になれたのは事実なので、私は忘れているけれど、いろいろ言ったと思うけれど、うまく言えませんが、母が悪いから不登校になったとか、恨みが消えたら登校するとか、そういうことではなくて、私が私の問題を、時間はかかるけれど、乗り越えた時に回復するのだろうと思います。

 

そうかと思うと、何の前触れもなく母から、

「フリースクールというところがあるんだけど見学に行かない?」

と突然のお誘い。

 

このあたりのミスマッチはこれをお読みの不登校児の親御さんは心当たりがあるんじゃないですか?

子のベクトルと、親のベクトルがまったく一致していないわけです。私の希望は居場所探しじゃない。学校に行けないなら、家にいたいですよ。誰だって、疲れて帰ってきて横になりたいのは家ですよね?疲れている時に、絶望している時に、ホッとスペースだとか、ほっこりカフェとかいうふざけた名前の公共施設の会議室か、民家改造しただけの知らん人ばっかりの家に行きたいですか?そんなの100歩ゆずって、何でもかんでも行きたがる小学校低学年までですよ。

 

だけど、母は自分に自信がないから、私を外の何かに繋げようとしていたように思います。不登校である娘を福祉の人に預けたかったのかな?上にも書いたように、いつもここぞの場面で私と接するのを逃げて父にバトンタッチしたのも自信がないから怖かったのかもしれない。

 

でも私は福祉に行けば受け入れてもらえることは知っているけれど、私は本当はみんなみたいにオシャレして友達作って、買い物に行ったりして普通の女子高生になりたかった。

 

だから家族も福祉の人になって気持ちの悪い笑顔で接するのではなくて、いつも通りに、私が荒れていようがどうしようがいつも通りに接してもらう。悪いことをすれば「やめて」と言ってほしい。どうでもいい雑談で団欒していてほしい。

だけど、きっと母からすると日常的に八つ当たりされるというのは自分(母)が悪いんでしょ?という思いがあって、言い返してはダメなんだ。だから娘が元気になれないと思っていたのかな?と思います。でも、娘からすると日々の八つ当たりがそこまで母の神経を削っていたとはまったく想像すらしてなくて、明らかな八つ当たりに悩む不登校の親御さんたちの姿を支援者になって初めて知ったぐらいでした。

 

八つ当たりぐらいはさせてよと好きにしてはいたけれど、自分は常識的に振る舞っているつもりなのに、周囲がどんどんドン引いて、だんだん孤独になっていく不安。不安だから、八つ当たりの悪い悪循環。

 

もし今の私が母にアドバイスをするとすれば「それはただの八つ当たりだから、八つ当たりしないでと言ってください。八つ当たりしていることは本人も自覚があるので、やめてと言えばいいんですよ。八つ当たりしている方も八つ当たりする自分が嫌いになっていると思うので親の側で止めてあげた方がお互いのためにいいですよ」「アップリケを引きちぎったら、勝手なことしてごめんねではなくて、お母さんは悲しいと泣いてください」と、言うだろうなと思います。

 

私と母は、それからあの頃を振り返るようなことは何もしないまま、私は私で元気になっていき、母は母でヨン様を追いかけ、何となく私は母をもう2度と悲しませてはいけないなと思っていて、母がヨン様に夢中になっているのを好ましく思っていたし、昔いろいろあったけど、幸せな親子っぽくはなっていたのかな?と思います。

 

でも、やっぱり不登校になったのは私の問題で、母が泣くことじゃない、いや、母を泣かせたくなかった。

じゃ、母なくして回復したか?といえばそんなことなくて母がいなかったら回復はできなかった。

でも、最終的には私の問題。

恨みがあるかと言えばピンポイントで腹を立てていることはあるけれど、

恨みのせいで不登校になったのでは決してない、

 

 

そして、あの頃の私に、今の私から何かを伝えるとすれば

 

・親の気持ちは親になってみないとわからないだろうけれど、子が暗い顔をしているだけで泣きたくなるのが親なんだよ

・自分から何も言わずに察してよは無理だよ。理解してほしいのなら自分から言葉に出して理解を求めなければダメだよ

・わかった、何もしなくていい、だけど歯は磨け。インプラントにいくらかかったと思っているんだ。未来の旦那に謝れ

 

 

(注1ホッとスペースは架空の名称で私が適当につけたんですけど、Xで情報提供を受け、実際にホッとスペースがあるそうです笑。設立年を聞くと、最初に使ったのは私のようなので、これからもホッとスペース使います)

(注2公共の居場所といっても、子どもにとっての放課後デイとか適応指導教室、親の居場所である親の会とか、目的がはっきりとしている場所には行けそうなら行ってくださいね。混乱期を過ぎ、安定期に学校以外の場所(スタバ・イオン)では普通に過ごせるようになり、回復期に入ったら社会復帰訓練としては必要なものです。私が言っているのは、まだ寝ていたい子や準備が整っていない子を家から連れ出すなということです)

 

 

 

 

 

資料販売

 

 

資料はSTORESとnoteで販売していましたが、両方とも近々更新予定のためSTORES版は販売停止しています。note版は販売しています。note版はどんどんアップデートする仕様になっているため、もし更新があれば再読み込みしていただければと思います。

 

 

 

note版↓

 

 

 

どちらも、相談者さんたちから一番よくご相談のあった「我が子が何期なのか?」が簡易に判断できるように、↓このような簡易判断フローチャートが付録としてついています。