「空髙く思うままにー蝶よりの遷移ー」
石井 稔
作句は日々を綴ること。そして句集はその積み重ねです。偽ることのない自分と向き合う自分史そのものです。まさにその意味で、句集は人生航路のあかしです。
さて句集『複眼の宇宙』梶間淳子著は第一句集より二十年、満を持しての上梓です。走り続けて来たその時間が凝縮されています。たんたんと過ごしてきた時空のなかで深く自分の源に迫ります。自己を見詰めようとする強い意志と主情的なリズムが込められています。
岐阜蝶の岐阜蝶として生まれけり
女滝ことの後先考へず
わたくしを生きる外なし蝸牛
短日のわたしを止める信号機
冬うららここに生まれてきた不思議
まつすぐな胡瓜信じてよいものか
春の女神である岐阜蝶に自らを仮託しながら、その心中を見詰める句が続きます。日常のあらゆる感覚を駆使しながら模索します。否定する力を肯定に変えてしまう。俳句を通じて前進へのエネルギーを手中にしているかのようにも思えます。
ぺしやんこになってもわたし紙風船
自己主張しないと決めて花薺
混沌の海に漕ぎ出す桜かな
山茶花やここで散る訳には行かぬ
ひきがへる沈黙なんて似合はない
「ぺしやんこ」になる姿を思い描きます。「自己主張」しない自分を容認します。「混沌」の海であることを理解しています。しかし、「紙風船」「花薺」「桜」という季語を絶妙に添えて、しなやかに体を躱します。それは単なる処世の術ではありません。止まっているように感じる時、実は今までになく前に進んでいる。そんな実感を作者は承知しているのです。他方では「散る訳にはいかぬ」と強く言う、その身の裡には熟慮から生まれる強さが秘められているのです。「沈黙」が似合わない自分の存在に行き当たります。
そしてその眼は外に、社会に向けられます。
諳ずる憲法九条風薫る
原発はもういりません蝶の舌
峰雲のうしろ平和が好きな空
沖縄忌辺野古の風は物言はず
八月十五日戦争をしない国
深い内省のなか至った思いなのでしょう。女性として母としての思いでもあるのでしょう。あるいは作者本来の人間性そのものなのかもしれません。
とは言え、作者は俳句を通じてもう一つの世界の存在を発見しました。それは蝶として飛ぶことだけでは見ることのできない世界であったのです。
複眼の宇宙に遊ぶ鬼やんま
掲句は題名になった句。艶やかに舞う岐阜蝶ではなく、複眼の鬼やんまとして世に遊ぶ。作者の精神は空高く思うままに舞い上がります。見渡せば、単眼では判別できなかった事象がいまやはっきりと像を結びます。ここにきて複眼を得た作者の昂ぶりが詠われます。そして着実に今を見据える心の平穏を得たことがわかります。だからこそ、
なめくじに翅が生えたら忙しい
そのおどけたもの言いのなかに今の充実が窺い知れます。この集の上梓の結実はまさにここにあると言えるでしょう。そしてだからこそ、次に開ける世界を読者は予感するのです。
この度は本当におめでとうございます。