唐黍にかげろう軒や玉まつり    酒童
 
 
 
酒童   「路通さんに言われちゃったんです。。。この句のこと・・・・・
      
      唐黍は動くよね##
      唐黍じゃなくって、稗だって粟だっていいわけで、こういう動く句って、発句にはできない
       ・・・・・・・・・って。
      
      そうなんでしょうか>?やっぱり・・・・」
 
 
去来   「路通くんね、、、そう言いましたか・・・・ふむふむ、、、、
      まだまだ、、、路通くん、、わかってないね””
      まだ、句の花実っていうものをわかってないんだよね
 
      この句は軒の草葉に火影がちらちらする農家の玉まつりをよんだもので、一句の主題は《玉祭り》にあ      るわけで軒の草葉は唐黍だって、粟だって、稗だって、キャベツだって、なんだっていいわけで、その       場にふさわしいものをつかえばいいんであってね。。。。。。。いわば花であって、、、
  
      こういうものは、一句を修飾するものでテキトーにえらべばいいんだよ。、実は玉まつりでしょ。花は動      いてもいいけど、実は動いちゃいけないわけでさぁ。玉まつりっていうお盆の行事を実としてテーマにし      てるんだからこれはこれでいいと思うよ、、、」
 
      この調子で頑張りなよ!!!」
 
 
 酒堂は上五の必然性を路通に指摘されて、俳諧奉行といわれる去来にお伺いをしてるんですね。
 
ここで、「花実の論」を去来は言っています。
 
実は主題、花は主題を効果的に表現するための媒介と考えているんですね。
 
花は動いていいけど、実の玉まつりは動いてはいけない。ここが動くと句は別物になってしまう。
あくまで、唐黍という花は飾りであって、玉まつりという実はうごいてはいけない。
 
それで、
路通が花の部分が動くといって、発句としてダメだというのはおかしいよ
(通、いまだ句の花実をしらざる故なり)
                 って言ってるんですね。
 
花は動いていいんであって、動くのが当然であって、それが雅趣あって効果的かどうかが問題であって、むしろそこが大切なんでしょうね。その句にとって何が花なのか、何が実なのか路通はそのへんがわかってないと去来は言いたいんでしょうね。
 
よく句会で季語が動く、動かないっていうこと言われますけど、
そう考えれば、、、、、、動いたっていいわけで、それがいかに句のテーマを効果的に表現できているかこそ問題とされるべきなんでしょうね。。。
 
・・・・・・・・そんな風に読みました・・・・
・・・・・・・・つづく・・・        \(◎o◎)/!