1998年3月14日発売。6枚目のシングル。
最高位3位 登場週数11週
1998年度年間64位[累計売上約40万枚]
この曲を最後に、年間トップ100に入れなくなり、
1999年には、週間トップ10も無理になります。
PUFFYの1996~1997の勢いは、凄まじいものがありました。
まさに、音楽業界に旋風を巻き起こし、
小室哲哉、小林武史につづき、奥田民生も
音楽プロデューサーに名乗りを上げたのでした。
PUFFYのヒット曲の持つインパクトこそ、
奥田民生のセンス、個性であると感じるには十分でした。
しかし、1998年以降になると勝手が違ってきます。
そして、私が判断するPUFFY最後のヒットが、
1998年春に早速登場してしまうのです。
この曲は草野マサムネによる作詞曲です。
この曲が発売された当初は、
[もう、奥田民生はプロデュースを辞めたのか]
と思いました。
前のシングル[ネホリーナハホリーナ]もまた
トータス松本の作詞曲になっていたのもあり、
割と早々に辞めてしまうんだな、と
かなり残念な気持ちになったのを覚えています。
どうやら、曲の解説を見ると、
PUFFYのアルバム制作をしていく中で、
どうしても、楽曲制作が自分だけでは間に合わないと感じて、
草野マサムネとトータス松本にヘルプを出して、
二人が応じてくれた、と言うのが本当のようで、
奥田民生は、PUFFYのプロデュースを辞めていませんでした。
ヒットを出せなくなったPUFFYに目がいかなくなった私は、
[奥田民生の手からPUFFYは離れた]
という記憶を持ったまま過ごしていたため、
今回、この曲の情報を調べて、
初めて、奥田民生は真面目に、
長期間にわたりプロデュースをしていたことを知りました。
売れなくなると、プロデュースをしている歌手を手放す、
悪い言い方をすると手を切ることが多いですが、
奥田民生は、責任を持ってPUFFYのプロデュースをしていたことに、
非常に好感を持ちました。
ただ、奥田民生のセンスを持ってしても、
一度ヒットのメインストリートから外れたPUFFYを
引き戻すことが不可能だったことが、
愛のしるしの直後に出たアルバム[JET CD]のミリオンの後の、
大衆からPUFFYが用済みとされたと思われる
シングルの売上の低下からわかります。
いくら面白い曲を書いても、聴く耳を持たれなくなっていた。
曲の広がり方、ヒットのしかたが注目度にある。
注目を失ったPUFFYになす術はなかったのです。
最後に。愛のしるしのスピッツ版のリンクを残しておきましょう。