前回、書きました「瀬尾津姫」は実在の人物について御覧いただきありがとうございます。
瀬織津姫について書くと閲覧される方が多いようなので、瀬織津姫様様です。
さて、前回から更に自分なりに「ホツマツタエ」について調べたところ瀬織津姫についても随分わかってきました。
前回では天照大御神と瀬織津姫との間にできましたお子様の「オシホミミ」様について最後に書きました。
前回のブログをまだ読んでない方はこちらへ
「瀬織津姫」についてネットで調べますと、どうも想像されているのではないか?と思われる内容が非常に多く、何か文献から引っ張って来られているのか??と感じるほど不思議な話が多すぎるため、出どころ不明な話は全て信用しないことにしています。
神社では伝承や口伝などがあるので全て嘘とは言い切れませんが、何か後世の人々がごちゃごちゃに混ざっている可能性もあるなぁと感じています。
しかし、去年12月18日にブログを書きました「瀬織津姫がスピリチュアル界で良く出て来るのは何故?」の中に
「大祓詞(おおはらえのことば)」について書きましたがこの「大祓詞(おおはらえのことば)」の中に「瀬織津姫」は出て来る理由が、
この「ホツマツタエ」を理解することで見えて来るものもありました。
したがって、どうもこの「ホツマツタエ」の文献が私個人的には真実味があるなと感じています。
もう少し「ホツマツタエ」について見ていきたいと思いますので、この「瀬織津姫」をシリーズ化したブログを書こうかと。
まず「水の女神」とされていますよね。
その理由に「瀬織津姫」の漢字です。
「瀬」に「さんずい」がある。「津」に「さんずい」がある。だから。。と言うようなブログを書いておられる方々もおられましたが
これは、どうも間違いのようです。
と言うのもこの「瀬織津姫」の時代は縄文時代なんですね。
縄文時代には、「漢字」は日本には、まだ伝わっていません。
前回のブログで書きましたように、縄文時代の漢字が日本に伝わる前は、ヲシテ文字やカタカムナと言われる文字が使われてきました。
なので、「瀬織津姫」の漢字は当て字の可能性が高いのです。
この「ホツマツタエ」はいつ頃書かれた古文書でしょうか?これもわかってきました。
前回のブログに「日本武尊(ヤマトタケル)」の遺言により「ホツマツタエ」が後世に書かれたものとお伝えしました。
西暦126年頃に書かれています。
日本に漢字が伝わってきたのは、4世紀後半と言われています。
明らかに漢字が無い時期に編纂されています。
ちなみに古事記が編纂された時代は、西暦712年です。
このホツマツタエでは、水田稲作の話が出てきます。
学校の歴史学習は嘘が多いので、困ったものですが、最近の学者の間では縄文時代には既に水田稲作が始まったと考えられています。
しかも紀元前8,000年前から稲作があったとも言われています。
ですから、最近の歴史学では、弥生時代は何ぞや?と言われています。
調べてみますと弥生時代は紀元前10世紀~紀元後3世紀と変えてきています。(Wikipediaより)
だから縄文時代は紀元前14,000年頃前~紀元前10世紀頃と。
と言うことは、瀬織津姫の時代は、縄文時代ではなくて弥生時代!?と考えられますが。
わかり辛いですよね。歴史は後世の権力者により色々と歪められてきていますから、余計にややこしくなってきます。
とりあえず、その辺は置いておいてと言うことで。
瀬織津姫の時代、つまり天照大神時代には、既に水田稲作が始まっています。
この水田稲作が始まってから当時の人々にとって、恵をもたらしただけでなく問題も引き起こすことになります。
この問題が「ホツマツタエ」に書かれています。
それでは次のブログで詳しいことをお伝えしていきます。
2021年1月16日再更新
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